愛、乞い願う。
許されざる恋をしていました。火に飛び込む羽虫のように呆気なく塵となると分かっていても、止めることなどできませんでした。
それでも何度も考えて、否定して、忘れようと努力しましたが無理でした。
ついに諦めて恋心を受け入れた瞬間、まるで怪物のようにそれは急激に膨れ上がり、私の心臓を絡め取り、私の意思を奪い取ったのです。
***
彼女との出会いは九年前、私がまだ七つだった頃。晨国と魁国の同盟が結ばれることとなり、晨国公主である私が魁王の妻となったあの日——。
慣れぬ婚姻衣装はまるで石ように重く、子供の足では転ばないように歩くのが精一杯だったのを覚えています。後ろに侍女は控えているけれど、手を借りることは『慎むべき行い』とされていました。周囲の目がある中、たとえ幼い身であっても、自らの足で歩むことが求められていたのです。
だから、私は大勢に見守られる中、夫となる人物の側へゆっくりと焦れったいほどの時間をかけて歩いて向かいました。
「……幼いな」
魁王は私に一瞥を投げるとすぐさま前方へ視線を向けました。三十路間近である彼にとって、私は幼すぎたため食指が動かなかったのでしょう。
そんな彼の傍らに控えた女性が嗜めるように魁王に声をかけます。
「遠い地から訪れた子に失礼ですよ」
女性は魁王の正妻を名乗りました。魁国では新たな側室を迎える際は魁王と皇后、両者揃って迎え入れるという風習があるそうです。
「わたくしは紅盈。あなたのお名前は?」
二十歳半ばと思われる女性——紅盈様は目元を滲ませ、私を見つめました。まるで薔薇の花のような可憐な微笑みは、もう会えない母を思い出させてくれます。
泣きたくなるのを我慢して「雪瑤です」とたどたどしく応えると、紅盈様は更に両目を細め、紅い唇を持ち上げました。
「わたくしとあなたは魁王様の妻であるけれど、歳は親子ほど離れています。わたくしのことを母だと思って頼ってください」
紅盈様にとって、遠い異国で、父親と同じ年齢の男性に嫁いだ子供を慮った言葉だったのでしょう。
けれど、幼かった私にとって、その言葉は一縷の希望といってもいいほど、嬉しいものでした。
***
幼い身とはいえ、私は公主として魁王と契りを結ばなければなりません。魁国へ輿入れする道中、侍女達が嫌と言うほど閨事のいろはを私に教えてきました。大半が意味が分からないものばかりだったけれど、なんとなく悍ましい行為をしなければいけないことは理解していました。
婚姻の儀が終わり、入浴して身体を清め終えた私が龍床に侍るため、宦官や侍女の先導のもと回廊を歩いていると前方から紅盈様が歩いてくるのが見えました。
その表情は固く、どこか怒っている風にも見えます。
なにか粗相をしてしまったのでしょうか。これから行われる悍ましい行為と紅盈様の怒りが相合わさり私が顔を青くさせていると、
「あなたに怒っていないわ」
そう言って紅盈様は膝をおって、私に目線を合わせるとふんわり笑います。
「確かに妻としての責務ではあるけれど、まだ子供のあなたはしなくていいの。大人になってからでもいいでしょう? と魁王様に相談してきたところよ」
「……いいのですか?」
「ええ、しなくていいわ」
安心したと同時に緊張の糸が途切れたのか両目からは涙があふれ出てきました。公主としての矜持を胸に、両国の関係をより一層深めよ、と父に命じられていたのに。
指先で袖を引っ張り、ごしごしと力強く涙を拭っていると紅盈様が悲しげに眉をひそめました。
「目元が赤くなってしまうわ」
私の腕を掴み、目元から離した紅盈様は懐から手巾を取り出し、私の涙を拭います。その手つきが優しくて、別の意味で涙はとめどなくあふれてきます。
拭っても拭っても、止まらない涙に紅盈様はきゅっと下唇を噛み締めたのが見えました。
「今日は一緒に眠りましょう?」
私の脇に手を添えて、抱きかかえた紅盈様は名案だといいたげに話します。
「雪瑤、あなたが眠るまで、私がずっと子守唄を歌ってあげるわ」
皇后たる紅盈様と、側室——それも末席である私が同じ褥で眠ることなど、許されるはずありません。
幼くても常識を叩き込まれ育った私は断ろうとしました。
……けれど、できませんでした。私を抱きしめて、髪を指先で梳きながら微笑む紅盈様はとても美しくて、断りの言葉は喉奥に張り付いて出てきません。もごもごと口を動かして、なにか喋らなければと焦る私をみて、紅盈様は抱きしめる腕に力を込めました。
「わたくしが守ってあげるわ。愛しい雪瑤」
——その日からです。
紅盈様は私のことを本当の娘のように接してくださいました。毎朝慣例の皇后への挨拶を終えると他の側室は各々が宮に帰るのに対して、私は日が暮れるまで紅盈様の宮で過ごしました。時には夜も泊まり、共に寝て、共に起きて、共に食事をして。空いた時間は遊戯をしたり、人形で遊んだり、庭園の散策を楽しんだり。
私達の様子を見て侍女や宦官達は微笑ましいと頬を緩ませます。彼らには私達が本当の親子に見えたようです。
ですが、魁王はいつも不機嫌そうな顔をします。魁王は子供がいなくても皇后の座を与えるほど紅盈様を愛しているから私が邪魔なのでしょう。それでも言葉に表さないのは紅盈様が私を大切にしているから、紅盈様に嫌われたくないから大人しくしているのは子供でも分かりました。
他の側室は私を遠巻きに見つめます。後宮の支配者である皇后から特別可愛がられている私を厭い、近づくことすらしません。
いつまで経っても後宮に馴染めなかったけれど、私はそれでも幸せでした。
紅盈様が私を見て、笑って、抱きしめて、頭を撫でて、愛していると言ってくれたから。
けれど、同時に虚しさを覚えました。
私は紅盈様を愛していました。母親や姉としてではなく、紅盈様その人を。
***
紅盈様への想いを自覚しても言葉に表すことはできません。後宮に入り、八回目の春を迎え、私は十四歳となりましたが紅盈様を離さないために無邪気な幼子のように振る舞います。
今日も紅盈様の宮へ向かおうとした時のことです。魁王が夜伽をご所望だ、と宦官から伝えられました。
「雪瑤様ももう十四となられますゆえ。今夜にでも、と魁王様からお達しがでております」
「……ええ、分かったわ」
口では了承しましたが、男に身体を暴かれるなど、耐え難い屈辱です。それも魁王など、今にも舌を噛み切ってやりたいほどの嫌悪に肌が粟立ちます。袖越しに腕に爪をたてて、唇を噛み締めて、どうにか感情を落ち着かせようとしますが難しく、私は自室へと戻ることにしました。
今の自分の顔は可愛らしいとは言えない、醜いものだと分かっていたからです。紅盈様に会うのに、こんな顔を見せるわけにはいきません。無邪気で可愛らしいのが紅盈様が望む雪瑤という娘なのですから。
自室へ戻った私が喩えようのない不安と後悔に押し潰されないように体を縮こませて泣いていると、蝶番の軋む音が聞こえました。末席であれど、侍女や宦官が私の許可なく立ち入ることは許されていません。わずかに顔を持ち上げると紫色の裙が見えました。
紫は高貴な色。この国で着用を許されているのは私が知る限り、たった一人だけです。見るに堪えない顔を見られたくなくて、私はまた視線を落とします。
「あなたは昔から怖いことがあると体を丸め込むわね」
呆れたような台詞ですが、声音は至って優しいものでした。
「わたくしの元にも知らせが届いたわ」
ため息混じりの言葉に私は肩を跳ねさせます。
「……私も大人になりました」
「ええ、大きくなったわね」
紅盈様は私の横に座ると肩を抱き寄せました。私よりも低い体温が布越しに伝わってきます。
「分かっているんです。私は、側室ですもの。紅盈様が守ってくれたから、おつとめをしなくてよかったことぐらい、分かっています」
「ええ」
「いつか、こうなる日が来ることぐらい、分かっていました」
それでも、と私は言葉を詰まらせます。側室としてつとめはしかと果たす、そう伝えるつもりが言葉が出てきません。再度、唇を噛み締めると血の味が舌に広がりました。無意識に強く噛みすぎたようです。
しかし、力を弱めることなどできません。
静かに嗚咽をあげていると紅盈様は私を抱きしめて、名前を呼びました。
「わたくしは十五歳で皇后となり、十六歳の時に身籠り、子供を産んだわ」
紅盈様は何を思っているのか、感情が消えた声で話し始めました。
「その子は女の子だったの。私とは違い、くるくるの髪に丸い瞳を持った可愛い子。……でもね、生まれて一月もせず、死んでしまったわ」
紅盈様の指先が、私の髪をいじります。母に似た癖の強い髪は手入れが大変だけど、自慢でした。紅盈様もこの髪を気に入ってくれて、よく手ずから櫛で梳いて結ってくれました。
次に指先は私の目尻を辿ります。皮膚の柔らかさと目の形を覚えるように何度も指の腹でなぞります。時折、紅盈様がよくする仕草です。
「あなたが後宮にきた時、わたくしはとても嬉しかったわ。あの子が生きて成長していれば、あなたと同じだったから」
なんとなく、分かっていたことです。子供を授かることができなかった紅盈様が私を可愛がる理由なんて、たったひとつだけですもの。
けれど、分かっていても直接、言葉にされると心にぽっかりと穴が空いたような感じがします。紅盈様の一番は亡くなった娘であり、私は年齢が近いだけの、ほんの少し面影がある代替え品に過ぎないと。紅盈様の一番になりたいと願っているからこそ、虚しさは強くなるのでしょう。
——好きです。大好きです。どうしようもなく、あなたが好きなんです。愛しています。
矜持なんて投げ捨てて、自分の心のうちを言葉にしてしまえば、どれほど楽でしょうか。
しかし、言葉にしてしまえばこの関係は砂上の楼閣のようにあっけなく崩れて消えてしまいます。紅盈様が望むのは「娘」であり、同じ妻である私はいらないのです。
「ねえ、雪瑤」
紅盈様は私を腕の中に閉じ込めると、そっと耳元に唇を寄せて囁きます。
「大丈夫よ。お母様が守ってあげるわ」
その言葉通り、私の夜伽はなくなりました。
紅盈様が魁王に抗議し、それでも強要するなら離縁すると言い放ったという嘘か真か、真相は定かではない噂が後宮に広がったのはすぐのことでした。
***
晨国が敗れたとの報が私のもとに届いたのは、春風に夏の香りが混じる昼下がり。夜伽が無くなった頃から紅盈様の庇護はより一層と強くなり、私が麒麟宮という皇后に与えられる宮で暮らすようになって半年が経つ頃でした。
その報とほぼ同じく、私を離族の長へ下賜するというお達しも届きました。表上は魁国と離族の友好の証として、けれど真相は魁王が私を遠く離れた地へ送りたいためのもの。
私の夜伽の話がでてから紅盈様は魁王と褥を共にすることはなくなりました。魁王が会いに来ても一言二言で話を切り上げ、すぐ私の元へ来てくれます。
魁王はどうにか紅盈様の気を引こうとしましたが、前よりも深まった溝を埋めるのは簡単ではありません。私を懐柔しようと近づいてきたことも幾度かありますが、紅盈様がすぐさま駆けつけてくれたため失敗に終わっています。
「喜べ。お前が嫁ぐのは武神と名高い男だそうだ」
久しぶりに対面した魁王は誰が見ても嬉しそうに酒杯を傾けています。浮ついた声音で「姿絵も送った」と言われて、私はそっとまつ毛を伏せました。
姿絵を送られた時点で私は逃げることができなくなりました。離族は力に秀でた民族だと聞いています。もし彼らが魁国に攻め入ることがあれば、紅盈様を傷付けてしまいます。
「慎んで、お受けいたします」
私は紅盈様が好きです。
紅盈様がご無事であることが一番の幸せです。
自分に言い聞かせて、深く頭を下げると頭上からは忍び笑いが落ちてきました。
「出立は明日の早朝。準備は済ませてある」
「はい」
「紅盈に挨拶を済ませておけ。もう二度と会えぬだろうからな」
「……はい」
魁王に言われておぼつかない足取りで麒麟宮へ向かおうとするも、途中で動くことができなくなりました。少し離れた場所から宦官達が気遣わしげな視線を送ってきますが、返事をする余裕はありません。
……なぜこうなってしまったのでしょうか。
私はただ紅盈様と過ごしたかっただけなのに。もう二度とあの方に会えず、顔も名前も知らない、文化も違う相手に嫁ぐことになるだなんて。
結局、紅盈様に挨拶するなどできるわけもなく、私は久しぶりに自分の宮に帰って、気を失うまで泣き続けました。
***
憎らしいほどの快晴の元、遠くに嫁ぐ私を見送りにきたのはごく少数の者達だけ。紅盈様の姿も、魁王の姿もなく、侍女達ですら見送りには来てくれませんでした。
ごく少数——この国の高官達の視線から逃げるように私は用意された軒車に乗り込みます。
「雪瑤様、我ら一同、あなた様のご健勝をお祈り申しております」
心にもない言葉です。低頭する高官達を一瞥した私は拒絶の意を込めて、軒車の扉を無言で閉めました。
それを合図に軒車はゆっくりと走り始めました。窓から見える移ろいゆく光景を無心で眺めていると、ふと軒車が停まりました。外からは兵士達の焦った声と女性が言い争っているのが聞こえました。凛としたこの声はよく知っている人のものと酷似しています。あの方がここにいるわけないと否定しますが、もしかしたらという希望を胸に私は急いで軒車から外に出ました。
「ああっ、雪瑤!!」
誰かに抱きしめられました。ふわりと香るのはあの方の、紅盈様が好むお香の薫りです。顔を見なくても誰か分かった私は「なぜ」と小さく呟きました。
「可愛い娘を一人で嫁がせるなんてしないわ」
「でも、紅盈様は皇后様で、私は」
「ねえ、雪瑤。約束したことを覚えている?」
「……約束?」
「わたくしが守ってあげるわ。どんな時も一緒よ」
あの頃と比べて背が伸びました。腕も足も。胸も。
それなのに紅盈様の中では私はいつまで経っても幼子にしか映りません。昔は悲しさを覚えたけれど、今は違います。それでも一緒にいられるならば、
「ありがとう、お母さん」
遠い地でも紅盈様と暮らすためならば、私はずっと幼子を演じましょう。




