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私達はお互いの家門に繋がりが欲しいだけの、紛う事なき政略結婚だった。
私より七つ年上で、社交パーティーで女性に囲まれても、面倒くさそうな表情を隠さない変わった人。例えるなら髪は艷やかな栗色、瞳は澄んだブラウンクォーツ。ダークブラウンは平凡な色のはずなのに、誰よりも人目を引く。高い身長に引き締まった体。くっきりとした二重に高い鼻筋。ルミナス侯爵令息は眩しい程の美形だ。
女嫌いらしく、特に騒がしい令嬢が苦手みたい。男性とは普通に話したり、笑ったりしている。
ああいう方は結婚したら、奥様に笑顔を見せるのかしら……
気になったきっかけは、ほんの些細な事だったと思う。
パーティーに参加する度、姿を探して、目で追ってしまっていた。
✳✳
「サーチェス、フィル。今朝の書類の事なんだが……」
「パーティーの時位、仕事の話はやめろよ、ディート。急ぎじゃないだろ?」
「ははっ。無理無理。ディートは仕事中毒だから」
壁の花になりつつ、つい耳を傾けてしまう。
下のお名前、ディート様っていうんだ……
今日も仲の良いご友人と一緒にいる。
あ……また笑っている……
笑うと、結構素敵かも……?
ご友人に向ける表情を見て、ドキドキしてしまう。
✳✳
ルミナス令息には妹がいて、彼女とは同い年。交流の為、ルミナス家主催のお茶会に誘われた。
ルミナス令息もきっといらっしゃるはず……
ドレスやメイクは変じゃないかしら……
メイドが支度を頑張ってくれたけれど、そわそわしてしまう。
あ……いた……!
ルミナス令息を見つけ、嬉しくなる。
今日の濃紺のフロックコート、素敵……
本当に格好良いな……
ぼんやり彼を盗み見していたら、誰かがぶつかってきて、飲み物を胸の所へ零してしまった。
途端に茶色の染みが広がる。
どうしよう……!
こんな悪目立ち……
周りはひそひそ言うだけで、誰も助けてくれない。
「やっぱり男爵家だから、作法がなってないわね」
「いくら商会が成功したからって、場違いよ」
「なんで侯爵家のお茶会にいるのかしら」
貴族の中で、うちのような成り上がりの貴族は嫌われる。分かっていたけれど、直接悪意をぶつけられ、落ち込んでしまう。
しゅんとしていると、後ろから何かを羽織らされた。驚いて振り向くと、そこにはルミナス令息がいる。肩にかけられたのは、彼のフロックコートだった。
一瞬で正気に戻る。
「だ、大丈夫です! お召し物が汚れてしまいますから!」
慌てて脱ごうとすると、手を止められた。
キャ、キャー! 触られちゃった!!
ど、どうしよう……私、きっと真っ赤だわ……
頬や耳が熱くなる。
ルミナス令息は私を見て、パッと手を離した。
「失礼。勝手に触れて……妹のドレスで良ければ……手を」
腕を差し出され、戸惑う。
エスコート……!?
え、待って! そんなの、無理! でも親切で言ってくださっているのに、申し出を断ったりしたら、気を悪くしてしまうかしら……
混乱しながら手を伸ばす。腕に手を添えると、ほのかに柑橘系の香りがした。
ベルガモットだ……
爽やかで素敵……
足、長いな……
隣を歩くと、腰の位置が全然違う。でもドレスとヒールの私に合わせてゆっくり歩いてくれて、感動してしまう。
ルミナス令息は、控室までエスコートしてくれ、替えのドレス、着替えを手伝うメイドまで手配してくれた。
「風邪を引いてしまうから早く着替えた方がいい。では、俺はここで」
客間のドアの前で、紳士の礼を取られる。慌てて淑女の礼をしてから、顔を上げた。
「ありがとうございました! ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
「甘い物は好き?」
気遣うように振られた話題に、すぐ返事ができなかった。
「……え……あ! はい。好きです」
「うちのパティシエの作るマドレーヌは絶品なんだ。良かったら、後で食べてみて」
ルミナス令息の口元が緩んでいて、ドキッとする。
女性相手の笑顔は初めて……
声が出ず、ただ頷く。
お茶会で飲み物を零して、恥ずかしい。落ち込んでいた私に気付いてくれたのかもしれない。
優しい……
じっと見ていたら、ルミナス令息の頬がほんのり赤くなった。
「……俺の顔に何か付いてる?」
「い、いいえ! 令息の思いやりに感動していました!!」
「ふ……何それ」
目尻が下がると、本当に優しい顔になる。
また笑ってくれた……
その後はドキドキし過ぎて、挙動不審だったと思う。
彼と話したのは、ほんの少しだけ。
それでも憧れは恋に変わってしまい、益々熱を上げてしまう事となる。
✳✳
後日、『お礼をしたい』と先触れを出してから、ルミナス令息と令嬢へ刺繍入りのハンカチと手作りのクッキーを渡しに行った。
「お茶会ではあまり話せなかったから、訪ねてきてくれて嬉しいわ。『メル』って呼んで。敬語も無しね」
彼の妹──メルディはとても気さくな女性だった。
相性で呼ぶのは仲が良い人だけ……
思わず口元が緩む。
「では、私の事も『ローズ』と──」
「俺の事は『ディート』で。俺も名前で呼んでもいい?」
突然、ルミナス令息が会話に入ってきて、驚く。
信じられない。名前呼びを許可してくださるなんて……
「……も……もち、勿論です! ……ディ……ディート様」
「よろしく、ローズ」
微笑まれて心臓が飛び出すかと思った。
笑うと、少し幼くなる……
男性に対して変かしら。笑顔、可愛い……
『ローズ』
名前を呼ばれるだけで、幸せ……
「ローズ?」
メルに呼ばれ、一気に現実に戻る。
「うん!?」
「クッキー、とっても美味しい。ローズは刺繍も上手なのね。ハンカチもありがとう。大切にするわ。この模様、素敵! 私にもできるかしら……今度、教えてくれる? あ! ねぇねぇ、本は好き? 私のお勧めは──」
緊張して、彼とはほとんど話せなかったが、メルはクッキーをとても気に入ってくれ、同い年という事もあり、それをきっかけに仲良くなった。
彼と会話した数は両手に収まる程度。私の一方的な片思いは、メルにも友人にも、誰にも話せないかった。
✳✳
「お前の結婚相手が決まった。ルミナス家へ婚約の打診をする」
両親の話に驚きつつ、何度も家名を聞き返した。そして自室に戻ってから、こっそり喜んだ。
もしかしたら彼に想いを寄せているのに気付かれたのかもしれない。
家格はうちの方が下だが、商会は今までにない急成長をし、事業を拡大していた事もあり、結婚相手としては申し分ないとの事。それでも断られる可能性は十分にある。
ルミナス家からの返答がくるまで、気が気ではなかった。
✳✳
婚約の返答は一家の大黒柱であるルミナス侯爵がするものだが、私宛に手紙を送ってきたのは、夫人の方だった。
【あなたの人柄はメルからも聞いていて、できれば婚約を結びたいけれど──失礼を承知で申し上げます。どうか、気を悪くしないでちょうだい。婚約を決める前に、健康状態を確認させて頂くのは可能かしら……アンナ=ルミナス】
別に驚く程の事ではない。子を成せる体であるかどうか、結婚前に相手の健康状態を調べてから踏み切るのは、この国では珍しくはない。ルミナス家の子どもは彼とメルの二人。男性は一人だけ。当然と言えば、当然である。
ひっくり返せば、健康であると証明できれば、結婚しても良い。そういう事だ。
意気揚々と指定された病院へ向かった。
✳✳
「ごめんなさいね。嫌な顔もせず、検査に応じてくれて、ありがとう。近いうちに主人とそちらへ返答をしに伺います」
夫人は丁寧にお詫びとお礼を伝えてくれた。
「はい。お待ちしております」
夫人と別れ、馬車に乗り込む。
ああ、どうか……彼と結婚できますように!
✳✳
【当家といたしましても、婚姻を結びたいと考えております。つきましては、婚約式の日にちを取り決めたいと存じます。ご都合をお知らせください。後日、息子を連れ、ご挨拶に伺います。今後もよろしくお願い致します。ヨハン=ルミナス】
ルミナス侯爵からの手紙を握りしめ、悶える。
信じられない……!
彼と結婚できるなんて……!
何回も何回も読み直した。
──知らなかったでしょう。
あなたとの婚約が決まるで、眠れなかった事。
あなたとの結婚が決まり、天にも舞い上がりそうだった事……
婚約期間に進められる結婚準備。
侯爵家へ嫁ぐ為の花嫁修業。
どんなに大変でもなんでもなかった。
だって、大好きなあの人の妻になれるのだから……
✳✳
しかし結婚生活は思い描いたものではなかった。
初夜は私が緊張し過ぎたせいか、『疲れただろうから、早めに休むように』と言われてしまい、その後、一度もない。次の日も、その次の日も待っても、夫婦の寝室のドアがノックされる事はなかった。
しかも毎晩、仕事が大変なのか、深夜まで帰ってこない。お出迎えをしようとしたら、『待っていなくていい』ときっぱり言われてしまう。
男性とのお付き合いも未経験で自分から声をかける勇気もなく、こんな時、どうすればいいのかも分からない。
本当は結婚なんて、したくなかった?
ルミナス夫人にあんなに心配されていたのに、このまま白い結婚になってしまったら、どうしよう……
悩んでも答えなんて出ない。
諦めて夫婦の寝室を出て、自室のベッドに倒れ込む。
よく考えたら、ディート様が望んだ結婚ではないもの……
碌に話もした事もない私に興味が持てなくても、仕方ない……
✳✳
少しでも仲良くなりたい。
二人きりになる為に作戦を練る事にした。
「ディート様、私、ネックレスが欲しくて……」
「欲しいなら、行商を呼べばいい」
「できれば、一緒に街へ。見立ててもらえませんか?」
ディート様の好みも知りたい。今後、パーティーで着けられるかもしれないし……
一緒に食事もできるかしら。あと時間があれば、湖のボートに──
「時間がない」
短く断られ、言葉を失くす。
別に宝石が欲しかったわけじゃない。
二人の時間がほしかっただけ……
「観劇のチケットが取れたんです。一緒に行きたいです」
選んだのは、素敵な恋の話。何かのきっかけになったらいい。少しでも近付きたくて、選んだものだ。
もしお話に興味がなさそうなら、音楽や衣装、舞台の装置に付いて、話してみよう。話に詰まったら、仕事の話、家族や友人の話でなんとか場を持たせて……
「人混みはやめた方がいい。風邪が流行っているし」
有無を言わさない態度に気分が沈んでいく。
「で、でも……」
「そのチケット、人が欲しがってたんだ。譲ってくれ」
私も見たかったのに──
二人分のチケットを取られてしまい、悲しくなってくる。
「収穫した野菜でシチューを作りました。少し休憩にしませんか?」
美しい庭の一角にある小さな畑には、たくさんの野菜が育っている。元々生家でも畑があり、よく手伝いをしていたので、収穫を楽しみにしていた。
「……なんだか、顔が赤くないか?」
「収穫する時に日に当たり過ぎたかもしれません。あとは火をずっと使っていたので……」
「畑は庭師に任せて、料理もするんじゃない」
厨房や庭に出るのも制限され、悲しくなってしまう。
「夜会に誘われたんです」
「夜会?」
夫婦なら、夜会にはパートナーとして、参加するもの。今まで一度も行った事はないが、流石にパーティーまでは断られないだろう。
一緒にダンスをしたり、美味しい物を食べたり、ご友人を紹介してもらったり──
きっと距離が縮まるに違いない。
「その。一緒に……」
「あんな場所に行って、何になる。君も疲れるだろ? やめよう」
パーティー嫌いなのは、知っていたけれど……
そう断られて、もう『行きたい』とは言えなかった。
政略結婚でも努力すれば、仲の良い夫婦になれるかも……
そう思い、努力をしたつもりだった。
宰相であるディート様は忙しい。
断られてばかりだったけれど、蔑ろにされているわけじゃない。そう信じて──
✳✳
「お忙しいところ、申し訳ございません。ローズ=ルミナスと申します。夫はいますでしょうか……」
ずっと目を背けていたのかもしれない。
決定的だったのは、職場にサンドイッチを届けようとした時の事。今度はちゃんとディート様の好きな具を料理長に聞いた。喜んでほしくて、料理長に教えてもらいながら作り、ディート様の元を訪ねた。
ディート様は『ありがとう』と言ってくださるかしら…
「宰相の奥様がいらっしゃいました」
「結婚式ぶりですね」
「わー。随分と可愛らしい方だ」
「確かに。美人というより、可愛いお姫様みたいな」
「お召し物も素敵です。淡い水色のドレスが清楚でお似合いで……」
「結婚式の時と雰囲気が違いますね」
「うちの宰相はこんな愛らしい方を娶られたのか」
「小柄だし、夜とか大変そう」
局の方達が盛り上がっていると、ディート様がバンッと机を叩いた。
「なんで、ここへ来たんだ。今すぐに帰れ!」
あまりの剣幕に周りも驚き、固まっている。
聞いた事のない程の低い声。初めてディート様から怒りをぶつけられ、気が動転してしまう。
断りもなく勝手に来て、怒ってる……
そうよね。仕事中に職場へ押しかけたりして……
「ご……ごめんなさい」
目頭が熱くなり、パッと下を向き、慌てて部屋を出る。
こんな所で泣いたりしたら、ディート様にも迷惑がかかってしまう。
廊下に出て、少し考え、すぐ立ち止まった。
きちんと謝罪もせず、子どもみたいに部屋を飛び出すなんて……
改めて謝った方がいい……?
とりあえずハンカチで涙を拭う。
迷っていると、中から声が聞こえてきた。
「今のは酷いですよ!」
「多分、夫人、泣いてました……」
「追いかけて、謝った方が良いと思います」
「あんなに可憐な人を泣かせるなんて!」
中から声が聞こえ、余計入り辛くなってしまった。
それでも──と思い、ドアノブに手を伸ばす。
「……結婚しなければ、良かった」
耳を疑ったけれど、その声は間違いなくディート様の声だった。
音を立てないよう、なんとか、その場を立ち去る。建物の外に出て、足元が崩れ、座り込んだ。
『結婚しない方が良かった』
ディート様は確かにそう言った。
理解したと同時に、心が冷えていく。
あなたに愛されたくて──
頑張っていたのは全部無駄だった。
✳✳
最近、生家の運営している商会が傾いてきたからかもしれない……
泣きながら、窓の外に見える夜空を眺める。
今夜は曇っていて、星も見えない。
でも結婚して、すぐの頃は商会も栄えていた。
初夜も無し。その後も機会はたくさんあったのに、一度も抱かれていない。
彼から見たら、私は七つも年下で子どもにしか見えないのだろう。商会のせいではなく、私自身に魅力がなかったから──
考えれば考える程、落ちていく。
メイドに疲れているから、昼まで起こさないでほしいと頼み、自室に籠って一晩中泣いた。一生分泣いたかもしれない。涙は枯れる事もなく、次々に溢れ出す。
✳✳
数日、落ち込んで食事がほとんど取れず、体調を崩した。
なんだか胸が痛い……
屋敷の使用人達は何を勘違いしたのか、懐妊ではないかと浮足立ち、お祭りムード。それを聞いて、有り得ない事だと自嘲する。
残念ながらディート様と夜を共にした事は一度もない。子を授かる以前の問題なのだ。
メイド達は嬉しそうに私の世話をし、私は申し訳なくて、真実を話せずにいた。
皆の気遣いが余計に辛い……
ディート様は何度かお見舞いに来てくれたが、気まずくて何も話す気になれず、寝た振りをした。
避け続けたから、ディート様も察したのかもしれない。部屋の外で私があの話を聞いていたと──
『結婚しなければ良かった』
あの時の言葉がぐるぐる回る。
同情なんて、されたくない……
✳✳
メイド達が生家にいた頃からお世話になっている主治医のオードリー先生を呼び、その時に、自分の病気と余命を聞かされた。
「結婚前の検査では何も見つからなかったのに……」
ぽつりと呟くと、オードリー先生は顔を上げた。
「心臓の病はこの国ではあまり知られていません。私は隣国で勉強し、実際に患者を診てきたので……この国では、名医と言われている医師ですら、病の存在を知らないのです」
「そう……」
必死に話してくれるオードリー先生を見つめる。
「悲観するのはまだ早いです。まずは、旦那様に相談をして──」
「病気の事は……主人に話せる時が来たら、自分で話すわ。使用人を含め、秘密にして」
「でも……」
私の言葉を聞き、オードリー先生は戸惑っている。
「私自身、この病と向き合えていないの。時間をちょうだい」
「……ローズ様がそう仰おっしゃるなら」
「大丈夫。あなたに迷惑がかからないよう、『内密にしてと命令したのは私』だと一筆残しておくわ」
オードリー先生が帰った後、私はレターセットを取り出した。
その日から努力するのを、一切やめた。
✳✳
「奥様、だいぶ体調が戻りましたね。今日から大広間でお食事しませんか? 旦那様もお待ちです」
メイドが慎ましく伝えてくる。
「ありがとう。ディート様にはお詫びを伝えてくれる? 今日もここに運んでほしいの」
「え……? 旦那様とご一緒されないんですか?」
「ディート様はお忙しいし、これからは一人で食べようかと思って」
「そ、そうですか……出過ぎた事を言ってしまい、申し訳ございません。すぐに旦那様へお伝えし、準備いたしますね」
ショックを受けているメイドを見ると、居た堪れない。
でも距離を置こうと決めたんだ……
「奥様。今日、新鮮なリンゴをたくさん買ってきたんです。旦那様にアップルパイを差し入れたら、いかがでしょうか」
今度はパティシエだ。手にはツヤツヤの真っ赤なリンゴを持っている。
「……もう差し入れはやめたの」
「な、なぜですか? 流石に旦那様に嫌気が差してしまいましたか?」
「いいえ。自分の行動が押し付けだと気付いたのよ」
「そんな事はありません! 旦那様は不器用なだけで……」
必死に説明してくるパティシエに力なく笑いを返した。
「行商が来ましたよ! 気分転換に新しいアクセサリーを見ましょう」
次は心配したメイド達が複数やってきた。
「アクセサリーはいらないから、帰ってもらって。多めに出張費を渡して──いえ。ここまで来てもらって流石に悪いわね。そうだ。あなた達にネックレスをプレゼントするわ。他のメイドも呼んできて」
あれから一切、お金を使わないようにしている。
でも、これが最後かもしれないから──
「そんな……」
「奥様……」
メイド達は嬉しそうな顔をするどころか、泣きそうな顔をしている。
「不躾な質問、お許しください。旦那様と喧嘩でもされたのですか?」
「いいえ。『結婚しなければ良かった』と言われただけ……」
その場がしんとなる。メイド達はそれ以上何も言ってこなかった。
✳✳
猶予は一年。あまり時間がない。
いつまで自分の足で立っていられるかも分からない。
自分がいなくなった後、困らないよう、体調不良を理由に、夫人としての仕事を振り分け、それぞれに引き継ぎをした。
夫人予算の管理は家令に、屋敷の管理はメイド長に、調度品や宝石の管理、慈善事業、教会や孤児院への寄付や訪問、パーティーやお茶会の準備、なるべく負担にならないよう、考えて人選した。
「奥様。ご報告致します。バザーの売上は全て、懇意にしている教会と孤児院に寄付致しました」
「ありがとう」
「こちらにもサインを頂けますか」
「……問題なさそうね」
「庭師では足りないとの事でしたので、木々の剪定とバラ園の手入れを外部へ依頼しました。以前と同じ条件で構わないそうです」
「来週より開始するよう、伝えて」
「商会でのお仕事の方も事情を話しましたら、アンティル夫人が一時的に執り行ってくださるそうです」
「ご苦労様。お母様は元気にしてた? 遠い所、大変だったでしょう」
代わる代わるされる報告に頷く。
元々、ルミナス家の使用人は皆、優秀な人ばかり。すぐに私がやらなくても、上手く回るようになってきた。
ああ、良かった……
やっとこれで言える。
✳✳
「ディート様、離縁してください」
冬晴れの青い空が広がる日、執務室を訪れた。
引き継ぎに一ヶ月以上かかってしまったが、もう私がいなくなっても、きっと困る事はない。
この病気に気付かれたら、流石に不憫に思い、ディート様が私を屋敷から追い出すのは難しくなるだろう。結果、不本意な状況を招くだけだと思う。
だからこそ、急がなければいけなかった。
公爵家の夫人が病死。欠陥品で子を残せなかった。こんな醜聞、どちらも許されるはずがない。
世間に知られる前に、ここを去らなければ──
離縁も良いものではないけれど、今は政略結婚がほとんどだし、お互いに利用できる事がなくなれば、珍しくはないはずだ。
うちの商会が最近、落ち込んでいるから、むしろ喜ばれるかもしれない。
そう思ったのに──
「え……?」
ディート様の顔を見ると、呆然としている。
私が離縁を切り出すとは思わなかったみたいだ。
でもね。奇跡が起きて病気がなくなるとか、今更、ディート様に愛されるとか、そんな都合の良い夢を見る程、子どもじゃないの……
どうせ短い命なら、静かに去りたい。
「駄目だ」
「……どうして」
その言葉に少なからず動揺してしまう。今度は私が聞き返す番だった。
「離縁はしない」
ディート様は淡々と告げてから、執務室を出て行った。
『どうして』
望む答えは聞けなかった。
離縁は体裁が悪いと思っているのかしら……
✳✳
「ディート様。今日こそ、離縁について、お話を──」
「忙しいんだ。今度にしてくれ」
「いつなら、お時間頂けますか?」
「見通しが立たないんだ」
それから何度も離縁の話をするが、躱れてばかりで、一向に進まない。しかも仕事が休みの日にはどこかに出掛けてしまう。
私は徹底的に避けられていた。
とある日──
焦れた私はドアの前に立って、逃げ道を封鎖した。
「どうして離縁に応じて頂けないのでしょうか。生家の商会も今となっては、不利益を被るだけですし、私達の間には子もいません」
至極、真っ当な事を主張しているのに、ディート様の顔は曇ったままだった。
「それは……」
いつもは理論的なディート様が口籠っている。
「せめて理由を教えてください」
「……」
その時、悲しそうな表情を見逃さなかった。
けれど、どんなに問い詰めても、離縁できない理由は言ってくれない。
最後の最後まで話し合いもできないのかと、投げやりになるしかなかった。
「……ちゃんと」
口にしたその瞬間、突然、胸に指すような痛みを感じた。すぐに息苦しくなり、酷い目眩がして立っていられない。
「ローズ!!」
ディート様が支えてくださったけれど、声が出なかった。瞼も重くて開かない。
私はここで死ぬのかしら……
一年まで、まだあるのに……




