プロローグ
朝景が水面に映し出される川に、俺は自分の顔を眺めていた。
いくぶん眠いせいか、いつもと違った顔に見える。ここスーナ村は山間の小さな集落だが、平野が意外と広く、雨も多いせいで朝はいつも霞がかかっている。
「おにいちゃん、おはよう。今日は体調どお?」
『妹』のミトが声をかけてくる。こちらの世界に来てからというもの、ずっと俺のことを気にかけてくれている。
「ああ、今朝はずいぶん気分がいいよ」
「そっか! よかった!」
ミトの明るさにはいつも救われる。けれど俺は俺で、やっかいなことに巻き込まれたもんだと、毎日うんざりしながら思っていた。
「今日はおさかなとりにいこうよ」
何か作業をして気を紛らわせよう、ということなのだろう。そういう気遣いをしてくれるところが、この子のすごいところだ。
「うん、いこうか。釣具をとってこよう」
「カナデ~ミト~こっちこいよ~」
「おにいちゃん、呼んでるよ」
地球にいたころは釣りなんてしたこともなかった。むしろ暇人の娯楽くらいに思っていたが――これがめっぽう面白い。むしろ、向いているのは短気な人だ。気長な人はずっと同じ場所で待つけど、俺はすぐに移動する。そのせいか妙に釣れる。
「おにいちゃん、今日はずいぶん釣れるね」
「そうだね」
気づけば鼻歌を口ずさんでいた。こちらに来てから、気分がいい日が増えている。こっちに来て一週間くらいか……両親にはまだ馴染めないけれど、ミトと過ごす時間は楽しい。この子は優しくて、思いやりがあるし、意外と力仕事もできる。たいしたものだ。
ミトと一緒にいると、こんな世界も悪くないんじゃないか、と思えてくる。
「午後は薪ひろいしなきゃね」
「うん、今日はたくさん釣れたし、早めに行こうか」
魚を家に持ち帰って、少し早めの昼食をとると、裏山へと出かけた。
スーナ村は見た目よりもずっと貧しい。作物はほとんど採れず、麦と米がわずかに収穫できるだけ。家畜も痩せていて乳も少なく、肉など誰も口にしたことがないらしい。田畑だけでなく山の木々も枯れ木ばかりで、草すらまともに生えていない。
なぜ、こんな土地で人々が生きていけているのか、不思議に思った。だが不思議と、なんとなしに人間は生きていけるものなのだと、ここ数日で感じていた。
「おにいちゃん、この山の向こうは危ないからね」
「うん、わかった。ここまでにしよう」
薪を拾い終え、家に帰る途中、ミトが手を繋いできたので、俺もぎゅっと握り返す。
地球にいたころより、はるかに質素な生活だけど、代わりに自由で、優しい人たちに囲まれている。
――これが幸せ、なのかもしれない。
「おにいちゃん、今日はずいぶん機嫌がいいね。それ、なぁに?」
「うん?」
……ああ、この歌か。気づけば口ずさんでいたらしい。
「ミトは歌、なにが好き?」
「うた?『うた』ってなぁに?」
「え?」
歌を知らない……? 幼稚園も学校もないなら、教わる機会がなかったのかもしれない。けれど、民謡や童謡すら知らないなんて。
「こんな歌とか、誰かに教わったことない?」
俺は試しに『赤とんぼ』を歌ってみた。夕暮れの色に、ぴったりの一曲だ。
「はぁ〜……なんだかすてきだね……」
ミトは目を細め、うっとりと聞き入っている。――本当に知らなかったんだ。そういえば、この村の誰も、歌を歌っているのを見たことがない。
もしかして――音楽自体が存在していない?
「おにいちゃん、もっときかせて?」
「いいよ。帰りながら歌ってあげる」
「わたしもそれ、できるかな?」
「できるよ。練習すれば、すぐに歌えるようになる」
「わぁ、じゃあ教えて、教えて!」
その日から、ミトには歌の練習と、文字の書き方も教えるようになった。
でも――その帰り道のことだった。
風が止まったように感じた。
そして、微かに、音がした。
川のせせらぎでも、鳥の声でもない。もっと……人の声に近いもの。
それは、遠くの山の向こうから、風に乗って届いた“何か”。
「……おにいちゃん?」
「ん……? いや、なんでもないよ」
ごまかすように微笑んでみせるが、心のどこかがざわついていた。