月光に溶ける祈り
前半は天使セリア視点です。
後半は悪魔レイ視点です。
明るい月明かりが窓から差し込み、セリアの銀髪を柔らかく照らしていた。その髪はまるで光を吸い込むかのように輝き、彼女の透き通るような白い肌に優しく反射している。彼女は、窓辺に置かれた本を開き、静かな空気の中でその文字を一つ一つ追っていた。その儚げな美しさは、まるで月の光と溶け合っているかのようだ。
ふと気配を感じ、セリアはそっと顔を上げる。そこにはレイの姿があった。漆黒の髪と深紅の瞳は、蠟燭の明かりに深く輝き、その顔にはいつも通りの穏やかな笑みが浮かんでいる。
彼は、冷徹さを隠すように、いつも優しい顔を見せる。だが、鋭く美しい目は、隠しきれない危険な香りを漂わせていた。
「レイ様…」
「セリア」
彼の低い声は、夜の静寂に溶け込むように柔らかく響いた。そう言うと、セリアの隣に座り、共に窓の外を見つめた。夜空に浮かぶ月が、二人を静かに照らす。
ーーー
天使であるセリア。
天上には天使が住み、地上には人間が暮らし、奈落には悪魔が息づく世界。
かつて、天使と悪魔は幾度となく聖戦を繰り広げてきたが、現在では互いに不干渉を誓う条約が結ばれている。
しかし、両者が交わることは、天地の理に背く許されざる冒涜だった。
天使の中でもセリアは高貴な血を引く王族だが、姫も王子が数多く存在し、その中で彼女は末端の存在にすぎなかった。
彼女の立場は常に周縁に追いやられ、宮廷の中でその名が語られることは稀だった。
身の回りの世話をする者もいるが、彼女と会話することはない。
天使も悪魔も不老不死。
一度外の世界を見てみたいと逃げようとしたら、聖堂を守る騎士達数名に止められてしまった。
セリアは数千年もの間この聖堂にいた。
彼女に与えられた居場所は、冷たく無機質な石の聖堂だった。高くそびえる聖堂は、天上界の端にひっそりと佇んでおり、セリアの存在が忘れられたような静寂が支配していた。
天井まで伸びる壮麗なステンドグラスは、月光を受けて青や赤、紫の淡い光を床に映し出し、静寂の中にかすかな生命の息吹を与えるかのようだった。
石造りの柱には無数の天使の彫刻。それらの姿はセリアにとって温もりを感じさせるものではなかった。ステンドグラスを通して降り注ぐ淡い光の中、今日もセリアは一人。
彼女にとって、この聖堂は自分自身の運命と向き合う場所だった。冷たい石の感触を手のひらに感じながら、セリアは何度も自らに問いかける。
「私の存在は、いったい何のためにあるのだろうか」と。
薄暗い大理石の床には、月明かりがわずかに反射し、聖堂全体を照らしている。
セリアは、日々祈りを捧げながら過ごしていた。
ーーー
ある夜、聖堂の中で祈りを捧げているとき、セリアの耳に低い囁き声が届いた。まるで深い闇の底から響いてくるような声だった。
「セリア」
突然の声に驚き、セリアは反射的に顔を上げた。聖堂の月明かりの中に一つの影が現れた。漆黒の闇に包まれたようなそれは、決して天使が持つことのない気配を纏っている――奈落から訪れた者の気配だった。
「誰……?」
影がゆっくりと動き、その中から姿を現す。漆黒の髪が月光を受けて輝いている。
「あなたは……どうしてここに?天使の領域に悪魔が来るなんて……」
彼は静かに微笑みながら、一歩ずつ近づいてくる。
セリアの胸は恐怖と戸惑いの感情が襲う。
「レイ」
低く魅惑的な声が聖堂に響く。まるでその声そのものが闇をまとっているかのようだった。
「レイ……さま?あなたの名なの……?」
セリアの目が驚きと困惑で見開かれる。
「驚かせたかな?どうしてここにいるのか――」
レイは少し顔を傾け、微笑んだ。瞳は血のように赤く鮮明で、底知れない力が渦巻いているようだ。
「君に会いに来た」
彼から感じる危険な空気にその場を離れるべきだと頭ではわかっているのに、彼女はその場から一歩も動けなかった。
レイはさらに一歩近づきながら言った。
「僕は地上でよく人間の女を食べるんだけど、夜空の片隅がひときわ輝いて見える場所があったんだ。その光の強さがいつも気になってね――ここに来てみたくなったんだ」
その言葉に、セリアの胸が僅かに震えた。誰にも届くことのない孤独な祈りだと思っていた。だが、たとえ悪魔であろうと、自分の存在を知る者がいたこと、彼女の中で喜びとも安堵ともつかない温かな感情が芽生えた。
「私の……祈りが、届いていたんですか?」
思わず口にし、彼を見上げた。
レイは僅かに目を細め、微笑みを浮かべる。
「届いてたよ。それだけ強くて、美しい祈りなら、気づかないわけがない」
その瞬間、彼女の胸に宿った孤独が少しだけ薄れたような気がした。
「ねぇ、僕と一緒に暮らさない?一緒に地上を自由に旅してさ、色んな景色を見せてあげるよ?」
「え?」
急に投げかけられた言葉にセリアは戸惑う。彼女はこの聖堂から出たことがない。外に行こうとするとすぐに騎士が現れて私をここへ連れ戻すのだ。
聖堂のまではステンドグラスがはめられ、地上を見たこともない。
私は初対面の彼の申し出を魅力的に感じてしまう自分に罪悪感を覚えた。
「し、しかし、貴方と私は初対面で、貴方は悪魔で…それにここから出てはいけなくて…」
その返答に、彼はにこっと笑顔になる。
「大丈夫。ここにいるってことは王様の許可は得てる証拠でしょ?ほら、騎士達も何も言ってこない」
「確かに…言われればそうですが…」
以前、セリアが居住空間から普段と違う廊下を歩こうと一歩踏み出しただけで、騎士達が急いで走り寄ってきたことを思い出す。
レイがセリアの目の前に片膝をつく。
「可愛い天使さん、僕の手を取って。外の世界に行こう」
セリアはどうすればいいか分からなかった。信用できるかと問われると、できないという判断材料のほうが多い。
でも、この手を取らなければ今後チャンスはない予感がした。
セリアは震える手を胸元に持ち上げ、無意識に両手を強く握りしめた。その指先は白くなるほど力を込め、胸元にぴったりと押し当てられたその手は、まるで自分を守るように小さく固まっていた。目の前に広がる未知の恐怖に、彼女の身体は反応し、胸の奥で不安の波がうずまいているのが見て取れた。震える手を隠すようにして、セリアは何も言わず、ただ目を伏せた。
ちらりとレイを見ると、彼と目が合う。優しい笑顔のまま、こちらを気に掛けるように首を傾けた見上げている。
彼の手はまだ私に差し出されたままだ。
セリアは再度ぎゅっと両手を胸元で握りしめた後、そろりと彼の手へ自分の手を重ねた。
「ありがとう。僕の手を取ってくれて」
優しく手を持ち上げられ、小さなリップ音と共に手の甲にキスを落とされた。
その瞬間カシャンという音が耳元で聞こえた気がした。
セリアが疑問に思う間もなく、レイに抱き上げられる。
「レ、レイ様!」
セリアは驚きのあまり、言葉を詰まらせる。
「あれ、もしかしてお姫様抱っこは初めてだったかな?」
レイはその言葉を楽しげに口にしながら、微笑みを浮かべた。
セリアは無意識に胸を押さえ、顔が熱くなるのを感じた。胸の奥で何かがざわつき、彼の甘い声色がもたらす高揚感に、今まで経験したことのない感情が溢れ出しそうになった。
セリアにとって、この胸は初めての体験だった。
セリアを抱き上げたまま、レイは聖堂の外へ歩みを進める。
そして廊下へと一歩踏み出した。
セリアがきょろきょろと辺りを見渡すと、いつもと変わらず等間隔で騎士達が配置されていた。
しかし、誰一人二人のことを気にせずに立っている。
彼の言った通り、本当に聖堂の外へ出ることが許可されたと胸をなでおろした。
そのままレイは外へ向かう。
一瞬セリアの目に光る壁のようなものが見えた気がしたが、ぶつかることもなく、ついに聖堂の外に出た。
セリアは数千年前、幼いころに聖堂に入って以来外に出たことが無かった。
だから外の世界の鮮やかさに驚いた。
月光が肌を撫で、夜空を見上げると、ステンドグラス越しでは見えなかった数多の星が瞬いている。その輝きが、まるで彼女を包み込むように感じられた。
セリアが感動していると、レイが立ち止まりセリアを覗き込んだ。
至近距離で見る深紅の瞳は、薄暗い聖堂で見た時と違って、月光のもとで柔らかく優しく、温かみを帯びて見えた。
「まずは星空の下、散歩をしてみようか」
そう言って彼は自身の背中に羽根を広げた。
漆黒の大きな翼が夜空を覆い隠すように広がり、その美しさにセリアは息を呑んだ。
驚きとともに、彼の羽根の一枚一枚の美しさがまるで彼自身を象徴するかのように思えた。
美しさに見惚れるセリアに満足気に笑みを浮かべ、レイは飛び立った。
セリアはその肩越しに離れていく聖堂を見つめ続けた。
聖堂が小さくなり、雲が月を遮った瞬間、彼女は視線を外し、そっと目を閉じた。
その瞬間、彼女の心の中に何かが変わったような気がした。
そして、もう二度と振り返ることはなかった。