……
すみません、長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。
※残酷描写があります。変態がいます。ご注意ください。
カリスが声を上げ、ルブロプレナに言われた。
俺が──涙を流していると。
何を言っているんだと理解できなかった。
だが、カリスがエストレラ様に教えて、俺が見えていないはずの彼女が驚いていらっしゃるのを見て、俺も頬に触れて、本当のことなのだと知った。
悪魔にも涙というものが、存在することを知った。
心が動いている様を感じるのは、不思議でならない。
初めてのことでわからないが、エストレラ様はやはり尊いお方だ。
彼女と出逢ってから、俺自身についてもまだ知らないことがあるのだな、と苦笑する。
この三日間、エストレラ様が俺について聞くことも話すこともなかった。
それはいつものことではあるが、彼女は普段いる奴がいなければ気づくし気にする方だ。
だから、完全に忘れ去られ、本当に彼女の中には俺がいないのではないかと恐ろしかった。
初めてお逢いした時のように拒まれても、いまの俺はあの頃ように笑うことはできない。
お逢いしてからまだ十数日だが、エストレラ様は俺のことを酔狂な奴だとでも思っているのだろうか。
悪魔が涙を流すとは思わなかったから、鳴き真似という考えに至ったのだろうか。
命令されればするが、他の人間がいて、更には食事の場で突然そのようなことはしないし考えたこともない。
エストレラ様は、俺が屋敷にいる奴らにかけた記憶操作魔法をご自身にかけたとおっしゃった。
魔法をかけた理由はただの興味本位か、記憶の改竄か……わからないが俺が関わっていることに変わりはない。俺を意識してくださったことは嬉しいことだった。
そして、魔法のイメージを説明し、失敗した理由をおっしゃったエストレラ様の推測は正しいと思った。
記憶操作魔法は、書き換えることで成功する。
エストレラ様のやり方では、失敗するのは当然だ。
もちろん、聞かれたところで教えるつもりはないし、再挑戦したところで、その考えのままであれば成功することはないだろう。
だが消したい者の名を消せばあるいは……いや、何も気づかず失敗したままであってほしい。
カリスの言う通り向上心があるのはいいことだと思うが、魔法の危険度と心配する者がいることを理解してほしいと思った。
彼女は危険に飛び込んで、御身を大切にしていない節が見られる。他者を大事にする様は見られるのに、なぜ御身を大切にしてくださらないのか、と俺は唇を噛んだ。
あなたがいなくなってしまったら……俺は、どうなるのだろうか。
この涙は、エストレラ様に俺の心からの誓いを信じていただけず破局に至り銷魂したからなのか、彼女の中に俺の存在がないという絶望からなのか。
理由はいまだわからないが、戦慄していることに変わりはなかった。
だが、エストレラ様の口から夢に俺が出たという話を、俺がどんなことをしたかを聞いて、少しだけ気持ちが和らいだ。
姿や声、接触に問題があるだけで、俺の名前を、俺とのことを憶えているのだから忘れ去られていたわけではない、ということに今更ながらに気づいた俺は、どれほど愚かで動揺していたのだろうかと、我ながら笑ってしまう。
エストレラ様の夢の内容について、エルシーは何か知っているのか口籠っていた彼女に代わり、エルシーが説明することになった。
そして、カリスにエストレラ様のお耳を塞げと言っているが、俺はエストレラ様のお耳を汚すようなことは言っていない。
俺が悲しみに暮れていても、いつも通りの過保護なエルシーに呆れた。
ちっ、エルシー以上に、エストレラ様を自分の両足の間に座らせにやけた顔で俺を見るカリスには、呆れ果て腸が煮えくり返る。
俺は見てもらえず、話すことができず、触れずにいるというのに……クソがっ!と恨みがましくカリスを睨んでいたが、エルシーが話し始めたので目を向けた。
「エストレラ様が見られた夢の内容は存じませんが、普段シヴァが口にしているエストレラ様が不快に感じていらっしゃる言葉をお話しします。その中でも、特に過激なものを。……これはエストレラ様が体調を崩された時の言葉です。 『エストレラ様のお体が拒絶反応を起こさず液体化することができれば、エストレラ様に口にしていただけて更には体内に入ることができ、巡回して危険なウイルスなど殲滅して居住することができるのに』」
「「「……」」」
「……おい、一応聞くがそんなことしていないよな。汚物が入った方が危険だろうが!お前のその思考自体がエストレラの心も体も毒している!気色悪い、天使が穢れるから近づくな!」
「何もしておりませんよ。エストレラ様を案じての言葉です。 エストレラ様が辛そうにしているのにどうすることもできず、見ていることしかできずにいる使い物にならないわたくしを恥じての言葉ですよ。怒られる謂れはございません。そして、わたくしがお仕えしているのはエストレラ様ですから、カリス様に近づくなと命令される謂れもございません。 そんなことより、カリス様が急に動いたのでエストレラ様が驚いていらっしゃいますよ。解放して差し上げて、ご自分の席に戻ったらいかがでしょうか?」
エストレラ様の愛らしい小さなお耳に手を添えていたはずのカリスの手が、急に腹部にきて抱きしめられたのだ。無音の中で後ろからそのようなことをされれば、驚くのは当然だろう。
溜息を吐きカリスを睨むが、カリスは左からエストレラ様のお顔を覗くように見ている。
エストレラ様は目を瞬いていらっしゃったが、カリスがお顔を覗いた理由を察したのだろうか、微笑んでカリスの頭を撫でていらっしゃる。
「ああ、エストレラが可愛い。優しい。なんていい子なんだ。……はぁ、癒される」
「エストレラ様がお優しいのは今更の話ですし、カリス様にだけではございません。エストレラ様の魅力は他にもたくさんあるというのに、カリス様は可愛いしかおっしゃいませんが、語彙力がないのですか?」
エストレラ様に頭を撫でられた後、彼女の左肩に額を乗せているカリスを見て腹が立ったので、悪態をついてしまった。
ちっ、俺は見てもらえず、触ることもできないのに、とカリスも魔法も煩わしくて何度も思ってしまう。
「は?俺が言うエストレラへの可愛いには全てが詰まっているんだ。エストレラは柔和なところが可愛い。抜けているところが可愛い。食事をおいしそうに食べる姿が可愛い。自然を愛おしそうに見つめながら散歩する姿が可愛い。似合わない服などないから何を着ていても可愛いなど満ち溢れる程にな!ちなみに、いまのは頭を撫でながら大丈夫だ、と俺を安心させるために思いやり微笑んでくれたのが可愛いという意味だ!」
カリスの言う可愛いには、様々な違いがあり意味があったらしい。
エストレラ様に魔法をかけていなければ、物凄くうるさいであろう声で俺を睨みながらカリスは話し続ける。
「だが、成長するにつれ、俺の愛の言葉を受け流すようになってしまったんだ。俺に褒められて、頬を染めて恥ずかしがりながらも控えめに笑って、『ありがとうございます、カリスお兄様』と言ってくれるエストレラは、本当に清らかな天使のように超絶可愛いんだ。だが、いつからかお礼と微笑みはくれるが、聞き流されているかのようにあしらうようになったんだ。 初めは戸惑い、口惜しいと思ったがエストレラが望まないのであれば、と“可愛い”という一言に俺のエストレラへの想いを込めて言うようになったんだ」
カリスは憂いを帯びた顔で話しながらエストレラ様を見ていたが、再び俺に視線を戻し、睨んで声を上げた。
「わかったか?俺を軽薄みたいに言うな!反吐が出る!」
「なるほど。エストレラ様は道に迷った可憐な天使の生まれ変わり、ということでしょうか。抜けたところがございますし、このマルバ領地は海や森といった自然に囲われ、海の恵みや山の恵みといったエストレラ様の好まれるもので溢れておりますからね。あとはダン──」
言いかけてやめた言葉の続きはダンジョン──だが、エストレラ様は冒険者に関しては隠していらっしゃる。
……はぁ、興奮しているカリスに釣られてしまい、うっかり口を滑らせてしまうところだった。
これ以上エストレラ様に嫌われるのはごめんだ、と話すのをやめた俺を睨みながら、カリスが言葉の続きを考えそれを口にした。
「だん……なんだ?まさか男性好きとでも言いたいのか?たしかにエストレラは筋肉が好きだが、男が好きなわけではない。俺や騎士を、甲高い声を張り上げて舐めるように見る奴らと一緒にするな!」
「違いますよ。だん……男女不問、いえ、老若男女、身分を問わずに慈悲深いところもまた、エストレラ様が天使の生まれ変わりであらせられるということを表しているのではないか、という話です」
「なるほど、あり得る話だ。 エストレラは方向感覚がなく、好きなものには目がないからな。奥ゆかしいところも、エストレラが天使であることの信憑性を高めている」
何とか隠し通せたことに安堵したが、頷きながら抱きしめているエストレラ様を見たカリスの中では、もはや生まれ変わりではなく天使と化している。
アンサスはエストレラ様のことを精霊と言う。
精霊は実在するが天使は存在しない……消えていなくなってしまったら、と考えるとまだ精霊の方がいいかもしれない。
天使のようだ、ならまだ許せるが天使であることにはしないでほしい。
そう思うが突っ込むとまた面倒なことになるので気にせず、味方につけるためこの流れを利用させてもらおう、とルブロプレナの方へと体を向け、右手を左胸に当て少し体を前に傾けた。
「今回のことで、改めてわたくしにとってエストレラ様は、何ものにも代えがたい尊いお方なのだと知ることができました。そして、旦那様と奥様に感謝申し上げます。わたくしとエストレラ様を出逢わせてくださりありがとうございます」
「ちっ、それは皆が思っていることでお前だけが思っていることではない。俺もエストレラがここにあることを、常日頃から父上と母上に感謝しています」
姿勢を正し、見なくても睨んでいるだろうカリスは無視して、目を瞬いているルブロプレナの言葉を待った。
「ふふっ、レラちゃんは愛されているわね。優しいところも抜けているところも本当に可愛いものね。 幼い頃から聡明で、手が離れるのが早い子だと思っていたけれど、カリスが言っていた照れ笑いを先日見た時は、まだあどけない子なのだと思ったわ」
ルブロプレナのことを天然だと思っていらっしゃるエストレラ様が、彼女に抜けている子だと思われていることを知ったらさぞ驚くだろう、と苦笑した。
「いつ見たのですか!?俺はもうずっと見ることができていないというのに!もう叶わないのだと諦めていましたが、どのようにして見られたのですか!?」
「わたくしとラル様とレラちゃんの三人でお茶会をしている時かしら。 レラちゃんが帰ってきてくれたことが嬉しくて、ラル様と二人で可愛がっていたら次第に恥ずかしがってしまったのよね。 それから……レラちゃんはスイーツに夢中になって聞いていないつもりでいたのでしょうけれど。顔を赤くさせたり、目を閉じたり、口を結んだりしたりするから、きちんと耳を傾けてくれているのがわかってしまうのよね」
エストレラ様は誰に対しても寄り添ってくださる方だ。無視をすることなどないことを知っているから容易に想像がつくのだろう、この部屋にいる奴らも頷いていた。
ルブロプレナはその時のことを思い返しているのか、ふふっと笑いながら話を続ける。
「それもまた愛らしいから、ラル様と二人で話している体でレラちゃんのことを、口を極めて褒めちぎったの。 そうしたら、『お茶も冷めてしまうほど、お話しに夢中のお二人のお邪魔みたいなので失礼させていただきます』って出て行っちゃったの。ラル様とやり過ぎたことを反省して謝りに行ったら、『別に怒ってはいませんよ?嬉しかったのですが、恥ずかしかったのと、もはや誰のことをお話ししているのか理解できなかったので退出したのです。お邪魔だと思ったのも本当のことです』って言われて、改めて反省して王都でのお話を聞かせてほしいとお願いして、レラちゃんとお茶会の約束をしたわ」
「何が違うんだ?内容か、座る場所か、父上と母上という二人が一緒に……人数の問題か?エルシーはその場にいたのだろう、何か知っているか?」
内容は大して変わらないから関係ないだろうな。
座る場所は向かい側か隣かで違いはあるが関係ないだろうから、おそらく時間だろう。
カリスとアンサスは十分でも空けばエストレラ様に会いに来る。一方、アドミラルとルブロプレナはしっかりと約束と時間を取って会うから、カリスやアンサスと比べると非常に会う回数も時間も少ないのだ。
人数も関係ないだろうが、それほどまでにエストレラ様の照れたところが見たいのか、カリスは眉間に皺を寄せて考えている。
「畏れながら申し上げます。カリス様が傷つくことになりますので、知らない方がよろしいかと存じます」
「受け入れるから教えてくれ。エストレラに嫌われているのではないか、と思ったこともあるから何でもいい、知りたいんだ」
エルシーはルブロプレナを見て、カリスに目を戻した。
「旦那様と奥様、カリス様とアンサス様には決定的な違いがございます。 それは人との接し方です。旦那様と奥様は互いに一途であり、他の貴族の方々に対しては一定の距離を保った関係にございます。ですが、カリス様とアンサス様は近づいてくる方は寛容に受け入れ、離れる方には意志を尊重し引き留めない傾向にございます」
「それが何かおかしいのか」
エルシーの言っていることを理解し鼻で笑ったら、カリスが俺を睨んだので答えを教えてやる。
「エストレラ様は一途な方を好まれます。一時でも触れるカリス様とアンサス様の人との接し方が合わないのでしょう」
「いえ、エストレラ様にとってそれはどうでもいいのです。お二方は全ての女性に優しく、等しく接していらっしゃいます。貴族の義務、いえ、紳士的な振る舞いは素晴らしいとエストレラ様もおっしゃっていました。ですが、『妹である私にもしなくていいと思わない?あぁ、練習台か。いちいち褒めるところを探して言葉を考えなきゃいけないお兄様たちは大変だね』ともおっしゃっていました」
ふむ、エストレラ様の潔癖は綺麗好きということだろうか。
不純を嫌うのかと思ったが、そうではないらしい。
エルシーが言うのだから、ただ単に兄の恋愛話に興味がないということだけではないのだろう。マルバ領地は辺境で騎士も大勢いるから娼館もあるし、そういったことは気にしないのか。聡明な彼女のことだ、気づかないなんてことはないだろう。
うーん、エストレラ様はカリスとアンサスによる毎度の蜜のように甘い言葉を、練習台や貴族の義務だと思っていらっしゃったのか。
ははっ、エルシーが紳士的と言い直したのはわざとだろうな。
カリスが受け入れると言ったから、エストレラ様は本気に取ってはいないことを示すために、生易しくマナーではなく義務と言ったのだろう。
なるほど、これは確かに傷つくな。
であるならば、俺の言葉も本気に取られていないからこそ、今回のことに至ったのだろうか。
信用してもらうには時間が必要だが、無駄な時間は省きたい。
やはり契約があった方が互いに楽だろう。
終息次第、もう一度進言してみるか、とエストレラ様を見るがあくびを噛み殺していた。そして後ろにいるカリスは、あんぐりと口を開けていた。
「俺の言動が義務……妹にそんなことをする必要などないだろう?エストレラでなければ時間の無駄でしかない。他の奴らには当たり障りのない振る舞いをしてきただけだ。 俺がエストレラを溺愛していることは、誰が見ても明らかだと思っていた……。嘘偽りなく、飾らない言葉を口にしていたが、まさかエストレラに伝わっていないなど思いもしなかった……はっ!まさか鬱陶しがられているなんてことはないよな!?嫌われてはいないよな!?」
カリスは不安げな顔をしてエルシーを見ているが、俺に兄弟がいると仮定して考えた場合、癪に障るとしか言いようがない存在だな。即座に始末するだろう。
だが、エストレラ様は清濁併せ呑むお方だ。悪魔でさえ受け入れてくださっているのだ。気にし過ぎだとは思うが、と俺もエルシーを見た。
「そのようなことはないと存じます。理解できない言動があったりするようですが、それはカリス様に限ったお話ではございませんので。それに、もし仮にエストレラ様がカリス様のことを嫌っているのであれば、転移してお隠れになるかと思いますので、お気にせずとも大丈夫だと存じます」
「エストレラが俺から逃げる!?避けられるなんて……ああ、想像しただけで地獄だ。エストレラは俺のオアシスで、幸せな時間を過ごせる唯一無二の存在だ。顔を見ることも許されず言葉も交わせないなんて無理だ……死んだ……」
たしかに、俺もそんなことをされたら死しかない──と考えると、今回はまだましな方なのかもしれない。
出逢ったばかりの俺でさえそう思うのだ、俺よりもずっと長く傍にいるカリスの顔は青褪めていた。
エストレラ様に想いを理解されていないカリスを哀れに思いながら見ていたら、カリスと目が合った。
「……そういえばこの前大切だと言われたな。いまも拒まず大人しく俺の側にいてくれている。俺で魔法を試したわけではないし、要らぬ心配だったか。──ん?エストレラのレモン水がなくなっているな。そんなに時間が経っていたか……あまりにも待たせすぎたから、紅茶とスイーツを用意してくれ。話は終わりだ」
おそらく俺限定の転移魔法の時のことを思い出したのだろうが、こいつ……極々僅かだが心配してやったというのに!とカリスを睨んだ。
「何も解決してないが!?」
「従者はエルシーがいるからエストレラが困ることはないだろう。別に俺もかまわない」
カリスが手を払ったら他の奴らが動き出したので、俺は焦ってルブロプレナを見る。
取り乱したため言葉遣いも荒れたが、気にしていられない。
「たしかに待たせすぎてしまったけれど、何か方法はないの?」
「魔法に長けているエストレラが困るほどです。気負わず気を長くして取り組みましょう」
頬に手を添え「そうね」とルブロプレナが言った。が、え?本当にこれで終わりか?とあたりを見回すとエルシーと目が合った。
エルシーは眉間に皺を寄せ、仕方なしそうに口を開いた。
「そういえば、シヴァは『エストレラ様のお口を味わうことができれば、食の好みを認知することができ、お好みなものを提供することが可能かもしれないのに』とも言っていましたね」
なぜいまそんな話を、と顔をしかめた俺は理解できなかったがカリスが反応した。
「そんなことをさせてたまるか!お前にさせるくらいなら俺がやる!!」
「カリスお前……それは駄目だろ」
カリスの言葉に息を呑んだのは俺だけではない。
悪魔としては面白いことだが、人間、そしてエストレラ様にとっては違う。
懸想をしていたわけではなかったはずだが、約一年間会えず久しぶりに共に過ごしたこの十数日で変わったのだろうか。
エストレラ様が生まれた時からの異常なまでのカリスの溺愛を知っている、仕事をしていた奴らも動きを止めて、カリスを見ていた。
「エストレラと感覚を共有するのなら俺でもいいだろうが!」
ああ、なるほど、と力が抜けほっとしたのは俺だけではない。
キスの方にいかなかったのは、やはり兄妹だからか。
いや、それでも感覚共有もどうなのか、と思いながら皆何事もなかったかのように動き出す。
「はっ!まさかエストレラに薬でも盛るつもりか!?レラ!魔法のことが解決するまでは俺と一緒にいよう!」
「まだ沈黙も解いていませんので、エストレラ様には何も聞こえておりませんよ」
「なぜそう薬や毒の方に行くのでしょうか。そのようなことをしてもエストレラ様に嫌われ、お傍にいられず、お仕えすることもできなくなるなどのデメリットしかございませんよ。馬鹿ですか」
カリスの痴れ事とエルシーの突っ込みに冷静さを取り戻したが、またもや悪態を吐いてしまった。
カリスは俺を睨んだが、すぐにエストレラ様の方に目を向け魔法をかけた。
「魔法解除──エストレラ、長い時間待たせてすまなかった。お詫びに紅茶とスイーツを用意したよ。このまま一緒に食べよう」
「お席にお戻りになられた方がエストレラ様もスイーツをご堪能することができるのではないでしょうか」
余計なことを言うな、と言わんばかりにカリスに睨まれているが本心だ。ずっと後ろから抱きしめられているのだ。いい加減鬱陶しいだろう、と思いながら微笑んだ。
「ずっと私をお側に置いていたのですし、お疲れでしょう?お戻りになられた方がよろしいかと思います。窮屈な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「何を言っているんだ。全くもって疲れてなどいないしそのような思いはしていない。むしろエストレラの羽根のような軽さに戸惑ったよ。少し力を籠めるだけで簡単に骨が折れてしまうのではないかと思うほどに、脆く繊細な体躯をしていて話をしながらも心配していたんだ。俺よりも高い体温を感じる度に、呼吸を感じる度に、レラが生きていることが確認できて安堵するほどだ。スイーツでも何でもいいから、もっと食べなさい」
立ち上がろうとしたエストレラ様を逃がさないよう、腰に回していた腕に力を入れてカリスは言った。
エストレラ様は戸惑っていらっしゃったが、離れようにも離れられないのだ、仕方なさそうに抵抗をやめた。
「……そうですか。ですが、私が軽いのではなく、カリスお兄様が力持ちなんですよ。心配のしすぎはお身体によくありませんから、カリスお兄様も召し上がってください」
「──ぶっ、コホン、失礼いたしました」
エストレラ様のお言葉を聞いて、こういうことかと理解した俺は笑いをこらえきれず吹き出してしまった。
俺はいまだにくつくつと笑っているが、先程エルシーが言っていた『エストレラ様はカリス様の言動を理解できない』、ということが目に見えてわかるのだ。なるほど、と思った奴らも肩を震わせて笑うのを我慢している。
「シヴァ、早く用意しろ。これ以上レラを待たせるな」
「カリスお兄様、そのように急かさなくても大丈夫ですよ。どんなスイーツが来るのかと、待つことも楽しみの一つです」
苦虫を噛み潰したような顔をしたカリスは、紅茶とスイーツを乗せたワゴンが部屋に入ってきたのを見て、俺にあたるように指示をした。何も知らないエストレラ様に注意されていたが、「そうか」と苦笑して彼女の頭を撫でていた。
エストレラ様の側にとめたワゴンをエルシーが引き継ぎ、ティーポットを手に取った。だから俺も、エストレラ様にお出しするべくスイーツについて伺う。
「何を召し上がりますか?」
「──チョコサンドクッキーとプリンとパウンドケーキ」
「かしこまりました」
「一つだけにしてください。昼食を召し上がれなくなってしまいます」
エルシーの言葉にムッと可愛いお顔をしながらも頷かれたので、一番召し上がりたいスイーツはこれだろうと思うが、念のため声を掛けた。
「チョコサンドクッキーでよろしいでしょうか」
「はい」
俺は当たったことに喜びながら、チョコサンドクッキーを皿に乗せてテーブルの上に置いた。
エルシーは、紅茶を入れたティーカップをエストレラ様とカリス、それぞれに取りやすいであろうところに置いた。
「ねぇ、レラちゃん。もしかして、シヴァの声が聞こえているの?」
「え?聞こえていますよ」
まるで聞こえるのは当然だと言うように、エストレラ様はルブロプレナに言葉を返していた。
声を出したのは、果たして、誰が最初だったのだろうか。
「「「え?」」」
天使は実在しますが、シヴァの知る天使は性悪でうるさく鬱陶しい羽虫なので、存在しないものとされています。人間が言う天使は、純真無垢で愛らしいとされている架空の存在なので、それならまだ許すとしています。
シヴァが知る精霊は脆弱で臆病な小さい奴です。精霊はシヴァと出会えば即座に逃げるので、エストレラを精霊とするならば、隠れるのが得意な愛らしい存在となります。人間が言う精霊は、悪戯っ子や幸運を運ぶなど出会えば何か楽しいことやいいことがあるとされている可愛らしい存在です。
ルブロプレナはアドミラルのことをラル様と呼びます。
その他の愛称はルブロプレナはプレナ、カリスはカーリ、アンサスはサス、エストレラはレラです。