パニック
久しぶりの投稿です。少し長いですが、よろしくお願いします。
本日で三日目です。
何がというと、エストレラ様によるわたくし放置プレイが三日目なのです。
一日目は、わたくしが話しかけても寝顔をガン見していても起きなかったことで、不安に駆られたエルシーが緊急事態だとカリスに話し、エストレラ様にしつこく問いただしておりました。が、わたくしを捨て置いているだけだと知ると、二人とも安心していました。
カリスは、先日のエストレラ様との時間を取り戻すかのように、長々とエストレラ様のお隣に居座っていました。
わたくしが発言しても反応してくださらないエストレラ様。
それを見て肩を震わせ笑いをこらえるカリス。
隣に立ち微かに口角が上がっているエルシー。
……ちっ、腹立たしいことこの上ないですね。
ですが、体調を崩されたわけではなかったことには、安堵しました。
二日目は、書斎で珍しく魔法に関する本を端から読み漁っておりました。
魔法に長けているエストレラ様が手にして何か意味はあるのかと思いましたが、表情を見て成果がなかったことが窺えました。
ティータイムの際は、スイーツを手にしても、黙々と食しては目を閉じておりました。
いつもは美味しそうに微笑みながらティータイムを楽しんでいらっしゃいます。
またもや不安に駆られたエルシーが、エストレラ様に「お気に召されませんでしたか。ご体調はいかがですか」と伺っていましたが、「おいしいよ。心配してくれてありがとう」と返されました。
スイーツを前にしても笑顔はなく、空気が張り詰めているかのようです。
何とも似つかわしくありません。
エストレラ様が何かを隠していることは、わたくしにもエルシーにもわかります。
それが体調を崩された場合であっても、隠して耐えて一人で抱え込むエストレラ様に、わたくしも不安に駆られます。
そして、三日目を向かえた今朝、エストレラ様は変わらずわたくしの声には反応してくださいません。
初めのうちは、エストレラ様による放置プレイは非常に燃えました。
カリスやエルシーのことは煩わしいと思いましたが、わたくし限定のツンデレのツンモードであるならば、と笑みがこぼれるばかりでした。
それと、優しかった人が急に素っ気ない態度をとってしまうのは、相手に対して深い友情や恋愛感情などが生まれたことによる困惑や葛藤を抱いたためだ、と人間の間では言われているそうです。
人間とは違い、悪魔の場合は興味が失せたのだと考えます。
なので、一時は嫌われたのかと焦りましたが、それを知って非常に安心しました。
いま起きているこの状況はその前兆なのだと。
エストレラ様がわたくしに好意を抱いてくださったのであれば!と、他の人間に見せる甘い態度をわたくしにも見せてくださるのであれば!と、心を躍らせながらその時を待とうと思っていました。
ですが、少々飽きてきました。
わたくしはエストレラ様にお仕えするために存在しているというのに、放置プレイというのは煩わしいばかりで全くもって味気ないです。
手段を選ばず、欲望の赴くままに生きるのがわたくしのポリシーです。
エストレラ様は不快に思われるかもしれませんが、わたくしを見ていただくために接触させていただきます。
本日はルブロプレナの命で、朝食をご一緒に取ることとなっております。なので、少しばかり身なりを整える手筈となっているのです。
ちなみに、普段はご自分で御髪を解かして終わりです。
まあ、エストレラ様は化粧をせずとも、ありのままのお姿でも美しいですから。
白く滑らかな肌は、喰んで見たくなるほどに惹かれてしまいます。
エストレラ様がかまわないのであれば、わたくしもかまいません。
エストレラ様を除いたマルバ一家や屋敷の奴らは、着飾らせたい、その姿を見たいなどと思っているようですがね。
エストレラ様をいじりたい思いはわたくしにもありますが、主第一ですから。我儘は言いません。
わたくしは、人間は着飾るのを好んでいると思っていましたが、エストレラ様は違うようです。
ドレスコードは、いつもわたくし共におまかせです。
なので、本日はわたくしがエストレラ様によく似合い素敵だと思うヘアセットをしようと思います。
もちろん、いくつか髪型を整えてお見せした中で、エストレラ様に気に入っていただけたものをセットします。
御髪を整えさせていただくべく、ドレッシングテーブルの前で座ってお待ちになっていらっしゃるエストレラ様に近づきます。
毛先まで優しく解きほぐそうと、ヘアブラシを片手に美しい菖蒲色の御髪に手を伸ばします。
「失礼いたします。本日はどのようなヘアスタイルに──しま、しょう、か…………?」
これは一体、どういうことでしょうか。
エストレラ様の御髪に触れることができません。
ヘアブラシだけは触れられるようで、ヘアブラシをエストレラ様の御髪に当てて傷つかないよう優しく動かせば、御髪は解されています。
ああ、エストレラ様の御髪は艶がありとても綺麗です。
御髪を梳かす際に感じる芳しい香りは鼻腔を蕩かします。
「……」
エストレラ様の心地よい香りを嗅いだことで、戸惑っていた心が落ち着きました。
うーん、エストレラ様の香りを愉しむことはできますが、何度触れようと試みても、ふわふわとした柔らかいエストレラ様の御髪に触れることはできません。
愕然としましたが、これはどういう原理なのでしょうか、と思考を巡らせていると、エルシーがエストレラ様に化粧を施すべく近づいてきます。
「エルシー」
小さく声を掛けて側に立ったエルシーに、ヘアブラシを見せてからエストレラ様の御髪に視線を落とします。
エルシーが御髪を見ていることを確認してから、ヘアブラシを御髪に当て、はっきり見えるようにゆっくりとヘアブラシを動かします。
そして、背中から離すように斜め下方向に動かしたヘアブラシから御髪が梳かれ、エストレラ様の背中に当たる前に御髪に触ろうと手を出しました。
「……」
エストレラ様の御髪がわたくしの手を通り抜けたところを見て目を見張ったエルシーに、もう一度、もう一度と行って見せました。
エルシーは黙ったまま目を瞑り、開いてわたくしを見て、ドアを見ました。
「一時的に席を外させていただきます」
エルシーが退出を促したのでエストレラ様にお声をお掛けしましたが、目を向けることもなく返答もございません。
三日目なので今更な話なのですが、まさか!?とありえないことが頭をよぎり嫌な予感がしたので、つい声を漏らしてしまいました。
「ついてこいエルシー」
「……一時的に席を外させていただきます」
「うん」
わたくしの口調には言及することなく、エルシーには鏡越しではありますが、目を向け返事をされました。
そのことに、推測が事実ではないかと焦り、心も体も落ち着かず、足早になってしまいました。
「あとはわたくしが行いますので、カリス様にご相談ください。何かわかるかもしれません。 エストレラ様の魔法に関して理解ができ、頭の回転が速いのはカリス様しかおりません」
「……ああ」
共に部屋を退出したエルシーの言葉を聞き、ふらつきそうな足に力を入れながらカリスの元へと向かいます。
カリスの部屋へと足早に歩いていたら、ちょうど部屋からカリスが出てきました。
気が急いていたため、声を掛けずに素早くカリスの腕を掴んで部屋に戻します。
「話がある」
「お前がエストレラの側を離れるなんて珍しいな。まさかエストレラに何かあったのか!?」
「違う、いや、違わないのか?わからないが落ち着け。まず、俺の話を聞いてほしい」
腕を掴んだまま狼狽えているわたくしが珍しいのでしょう。
カリスもまた珍しくわたくしの言葉に耳を傾け、振り払うことなく部屋に留まっています。
「お前には触れたな」
「実体があるんだから当然だろう。なんだ、霊にでもなったのか」
人に触れたことに安心したからか口から漏れた言葉を、カリスはふんっと鼻で笑いました。そして、続いた言葉に、確かにと納得しました。
「ははっ、言い得て妙だな。……俺は、エストレラ様に触ることができなかった」
「触らせてたまるか!と突っ込みたいところだが、どういう意味だ」
突っ込んでいるのでは?と思いましたが、気力もなく話を進めたいので何も言いません。
カリスの腕から手を離し、自分の手を見ながら説明します。
「エストレラ様の御髪を整えようと手を伸ばしたが……触れなかった。ヘアブラシはエストレラ様に当てることができたが、俺の手は、エストレラ様の髪に触ることができなかった。エルシーにも見せたが驚いていたからな、本当にあったことなのだろう。 ちなみに、今日も俺の言動に反応してくださらない」
わたくしは自分の手からカリスに目を移しましたが、眉間に皺を寄せ黙ったまま何か考えています。
一刻も早く知りたいがために、思案しているところに悪いとは思いつつも、口に出してしまいました。
「何かわかるか」
「エストレラが何かしらの魔法をかけたのだとしたら、様子が変わったのはいつからだ?俺は三日前のお茶会で妙だと思っていたが……。エストレラは体調を崩していても、機嫌が悪くても、反応はしてくれる。あの日はお前に目を向けることもなかったからな。心優しいエストレラが完全無視をするなんて、珍しいこともあるのだなと軽くとっていた。お前がまた何か変なことをしたのであれば、自業自得だと……」
なるほど、無視をするのはわたくし限定なのですね、と喜びたいところですが、いまはエストレラ様のことに集中します。
「お前の言う通り、変わったのは三日前の朝からだ。俺はそれまで普段通りにお仕えして、何もしていないと思うが……。それに、俺が何かしでかしたのなら、エルシーがお前に報告するだろ」
「たしかに──はぁ、俺もいま聞いた情報からどういう魔法かそういう魔道具があるかわからないが考えておくし、調べておく。一応エストレラに聞いてみるが、三日も黙ったままでいるのなら、今回は教えてくれるかわからない。 とりあえず、エストレラとの食事が優先だからダイニングルームに行く。エストレラを待たせるわけにはいかない」
エストレラ様、というよりただ早く会いたい、変わったところがないか一刻も早く様子を見たい、などカリスの落ち着かない態度からの憶測にすぎませんが、私欲を優先するのはカリスらしいと思います。
カリスがブレないのは、その光景を目にしていないから……魔法をかけられたのが自分ではないから……。
それを知った上で相談をしたのはわたくしですが、その希薄さが少しばかり恨みがましいです。
カリスのせいではありませんが、ドアに向かって歩き出したカリスの背中を、つい睨んでしまいます。
一人になり、誰もいなくなった部屋で、改めて何をすべきかを考えます。
部屋を出たカリスを追いかけ、仕事に戻るべきだと思いますが、エストレラ様に見えない俺は、一体、何をすればいいのでしょうか……。
ずっと、享楽にふけて生きてきた。
独りで、自由気ままに生きてきた。
つまらなければ、人間で遊んだ。
飽きれば戻って、悪魔で遊んだ。
過去の俺は、本当に有意義な時間を過ごしていると、そう思っていた。
だが彼女と出会い、振り返ったその時間に、微かにむなしさを感じた。
気まぐれに下りた地で出逢った人間──エストレラ・マルバ
俺にとって人間は、ただの玩具でしかなかった。
そんなものでしかなかったはずの人間を貪りたいと、人間を羨ましいと、人間の傍にありたいと、思うことが来るなんて思いもしなかった。
もはや、なぜここまでエストレラ様に執着し依存しているのか……俺にもわからない。
ただ身近で見てきて、魂が震えるような喜びを肌で感じて、溺れた。
冷酷無残の悪魔が、まるで赤子にでもなったかのように、多感になった。
────俺の全てを、覆した。
エストレラ様と過ごした時間は甘美であり、得難いものだ。
エストレラ様への想いは際限なく膨れ上がっていくばかり。
止めようもないし、止めるつもりも、毛頭ない。
この想いを止めることは、決してエストレラ様であっても実現不可能であり、許されないことだ。
「ははっ!ならば、俺も俺を優先しよう──強硬手段に勝るものはないからな」
腹を決めた俺は、カリスの部屋を出てダイニングルームへと急ぎ向かう。
エストレラ様よりも早く着かなければ意味が無く、俺の時間が無くなる。
「失礼いたします」
ダイニングルームに入室し部屋を見回すが、座っているのはルブロプレナとカリスのみ。
エストレラ様はまだ来ていなかった。
どうやら間に合ったようだ、と少しばかり気が休まり、座っているカリスの元へと向かった。
「見ておけ、カリス」
「は?何を──」
「失礼いたします。おはようございます、お母様、カリスお兄様」
ちょうど入ってきたエストレラ様の元へすぐさま向かい、大手を広げて道を塞ぐ。
「おい!」
カリスが声を上げるが、ここが勝負所だ!と意気込んでエストレラ様を見つめたが……見てはいけなかった。
エストレラ様の瞳は前を向いていたが、目の前に立つ俺を見ていなかった。
怪訝な顔、睨んだ顔、不請顔、真顔、笑顔──どんな時でも、一瞬であっても、俺に目を向けてくれた。
純粋な美しい淡紫の瞳に──俺は、映っていない。
俺の身体は、まるで氷に覆われたように、急激に冷え固く凍りついた。
初めての感情に動揺した。
動けなかった。
だが、それでよかった。
俺の推測が外れていた場合、エストレラ様が自らの足で近づきアタックしてくれる……狂喜してしまう、息を吸ってもいいのだろうか、抱きしめてもいいのだろうか、などとあらぬことを想像していたから。
エストレラ様は足を止めず、このまま進むのであればぶつかる場所に立っていた俺とぶつかる──はずだった。
衝突による痛みも、エストレラ様の温もりも……何も感じない。
香りだけは感じたが、俺がまるで存在しないものであるかのように、エストレラ様は俺を通り過ぎる。
通り抜けたその時、エストレラ様との想い出が脳裏を過った。
あの夜に約束し、信じて疑わなかったものが、崩れて、消える、恐怖に……身体が震える。
「……エ、エストレラ、大丈夫か」
いつの間にか傍にいたカリスがエストレラ様に声を掛けているが、俺は立ったままその場を動けずにいた。
ついでかわからないが、背を向けたまま動かない俺の背中を軽く押した。
押されたことで、俺は、ここにあるのだと実感した──だが、エストレラ様の中にいないのであれば、ないのと同義だ。
「どうかなさいましたか?お兄様の方が、何やら落ち着かないように見えますが大丈夫ですか?」
「いや、何でもない。俺の心配をしてくれてありがとう。エストレラは……元気か?」
「はい、元気です」
何を聞いているんだと思ったが、俺もエストレラ様のことが心配だった。
何とも、奇妙な話だ。
己を優先する、と気合を入れて挑んだというのに……いついかなる時でも己のことしかなかった、この俺が……。
何とも、滑稽だな。
「失礼いたします」
今日は、ルブロプレナとカリスとエストレラ様の三名での朝食のようだ。二人が席に着いて一拍置いてから、料理が運ばれてきた。
主を待たせないことが基本だが、何も知らずに料理を運んでくる人間に、俺にとっては空気が読めない人間に、苛立ちを感じた。
だが、俺のために人間も時間も止まってはくれない。
俺は身体も状況も覚束ないが、邪魔にならないようエストレラ様の後ろの壁際に立ち鳴りを潜めた。
普段は食事中であっても会話があるが、今日は静かだ。
エストレラ様は、ご自分から話し出すことはそうないが、不穏な空気が漂っているこの部屋の空気を読んでいるのか、静かだ。
ダイニングルームが静寂に包まれているからだろうか。
エストレラ様の拒絶に呆然としていた俺も、ほんの少しだけ落ち着いた。
エストレラ様の魔法はどれも魅力的だが、今回の魔法は──奇妙奇天烈だ。
はぁ、一体どのような魔法をかければ、俺だけがエストレラ様の清麗な瞳に映らず、悪戯したくなる耳には声も聞こえず、喰みたくなる体に触ることができなくなるのだろうか。
触ることができれば、魔法陣で印をつけることができるのだが……。
あの夜にもうしないことを約束したが、エストレラ様の方が先に約束を破ったのだ。許されるだろう。
俺は、エストレラ様が屋敷に帰ってきてから、約束を守り何も害することはしていないのだから。
まぁ、触ることができればという話で、いまはできないのだから結局何の意味もないのだが。
悪魔として永年生きてきたが、このような魔法は聞いたこともなければ見たこともない。
──俺が魔法や武器で攻撃した場合、エストレラ様にあたるのだろうか?
ヘアブラシを当てられたのだから武器は効果があるのだろうな。
エストレラ様に攻撃なんて絶対にしないが。
現実にあったなら俺は死ぬ。
考えようによってはいいことなのかもしれない。
最初の頃は警戒を怠らず、後ろを歩いていても隙を見せなかったからな。
だがいまは俺が部屋にいても背中を向けるようになり、お召し替えもするようになった。
まぁ、着替えに関しては俺に覗く意思がなくとも窓にエストレラ様が薄く映っているから、背中を向けていても表情までわかってしまうのだが。
まだ眠そうな顔も、俺が後ろにいるのが嫌なのか死んだ魚のような目をした顔も、どんな表情であっても素敵でしかないエストレラ様。
ああ、洗浄魔法を覚えてよかった。グフフッ。綺麗な窓万歳!
そんな抜けているところもまた、エストレラ様の魅力だ。
エストレラ様に魔法をかけられるだろうか。
魔法解除や精神感応など効果はあるのだろうか。
そして、エストレラ様に魔法をかけた時俺は、この場にいることができるのだろうか。
エストレラ様と森に行った時、魔法をかけていただいた俺は神に召されたがすぐに戻って来た。
マルバ家の屋敷に入ろうと近づいた時、極僅かだがエストレラ様の魔力を感じた。
初めて来た時にはなかった結界が屋敷に張られていた。
俺を警戒して、排除するための結界なのだろうかと恐怖に戦慄いた。
だが、指先が結界に触れ、通り抜け、俺がマルバ家の屋敷に入れた時、エストレラ様に認められたのだと興奮に戦慄いた。
エストレラ様に歓迎され、抱きしめられてしまった!と、俺は惚けた。
俺か俺以外か……俺の上には誰もいなかった。
遥か彼方にいたから……気がつかなかった。
やっと出逢えた存在に認められた……そう、思っていたのに。
対策に苦慮している間も、時間は流れ止まることはない。
ああ、食事の時間が終わってしまう。
せっかく他の人間がいる場で臨み、味方につけようと励んだというのに……カリスは使い物にならない。
どうすればいい。
どうすればいいのか全くわからない。
この時俺は、エストレラ様のことで頭がいっぱいで、エストレラ様しか見えていなかったため、エストレラ様以外の視線が俺に向いていることに気づかなかった。