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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

祈り

作者: 佐藤瑞枝

呼び鈴を鳴らすと、憔悴しきった様子で義兄が出てきた。妻に先立たれた男は不幸だと聞いてはいたが、これほどまでとは思っていなかった。姉が癌で亡くなってからもう三年もたつというのに。

スタンドからスリッパを取り出す義兄の手つきはたどたどしく、それが去年から患っているリュウマチのせいなのか、ひどく疲れているせいなのかわからなかった。


「遠いところありがとうございます」

義兄が言った。


「春乃さんに来ていただけてよかったです」


「ぼくひとりではどうにも」


見ればわかる。家の中はひどい状態だ。卓袱台にはいつ食べたかしれないラーメンのカップが転がり、油ぎったポテトチップスの袋の脇に、飲み薬やら塗り薬やら処方薬が束になっていた。


ろくに掃除もしていないのだろう。歩くたび、部屋の隅にたまったほこりがふわふわと浮きあがる。ガラスの食器棚は曇っていて、姉の好きだったウェッジウッドのカップもくすんで見えた。


年齢よりもずっと老け込んでしまった義兄。わたしは、優しくて人のいい、この二番目の義兄が好きだった。姉の最初の夫は、本当にひどい人だったから。


傷ついた姉に寄り添い、穏やかな暮らしを守ってきた義兄には感謝している。だからこそ義兄には、これからの人生、いつまでも姉の亡霊にとらわれているのではなく、義兄自身の生活を大事にしてほしいと思っていた。家を処分し、マンションに引っ越さないかと持ち掛けたのはわたしだった。


はじめ、義兄は姉との思い出が詰まった家を手放すのはどうしても気が進まないと言った。けれど、リウマチを患い、だんだん身体の自由もきかなくなってくると、ようやく義兄はこの先ずっとひとりで二階建ての大きな家で暮らすには無理があると思い直したようだった。

マンションに移ることに決めたから、姉の部屋に遺っているものを引き取ってほしい。先月、義兄から連絡があった。


義兄の家には、夫婦の寝室とは別に姉専用の部屋がある。


「結子もひとりになりたいこともあるだろうから」


義兄のはからいだった。


義兄と結婚した頃、姉は精神的に病んでいて、義兄の深い情愛とひとり落ち着ける場所が必要だった。前夫の事故死から七年も経っていたが、あまりにも衝撃的な出来事だったため、長い間、姉はトラウマに悩まされ、心が晴れることがなかった。


隆文は、本当にひどい男だった。


賢かった姉がどうして隆文みたいな男と恋に落ちたのか今でもわたしはわからない。隆文は、姉の職場に出入りしていた業者のアルバイトだった。ある時、社員専用の喫煙室で隆文が煙草を吸っているのを見かけた上司が姉に注意するよう言いつけたのがふたりの出会いのきっかけだった。


「わかる? 俺、疲れてんのよ」


最初、隆文の横柄な態度に姉は苛立ち、もう二度と関わりたくないと思ったらしい。けれど、隆文はその後も何かにつけ姉の前に現れては姉をからかった。


小動物のようないたずらっぽい目をして。


こうなると姉はもう隆文を憎らしいと思えなくなっていた。隆文が職場に現れるのを姉は心待ちにし、用もないのに喫煙室に行っては隆文がやってくるのを待ちわびた。隆文が非番で会えなかった日、姉はどうしようもない欲望をどこへ逃がせばいいのかもわからなかった。恋に落ちた姉は別人のようで、いつだって冷静ではいられなかった。


隆文は、アルバイトの傍ら役者を目指していた。


名もない劇団だった。姉に誘われて、わたしも隆文の舞台を見に行ったことがある。派手な衣装の、下品なシーンばかりのよくわからない劇だった。背が高く、鍛えられた身体の隆文は、主役ではなかったが舞台の上で目立っていた。いかつい身体とはアンバランスな子供みたいな表情をする。いかにも姉の好きそうな顔をしていた。


定職をもたない隆文と姉の結婚を家族はみんな反対したけれど、姉が妊娠していることがわかると誰もが認めざるを得なくなった。両親が用意したマンションに、姉は隆文と暮らしはじめた。


家計を支えるため、姉は懸命に働いたが、生活は楽ではなかったらしい。姉は過労から流産した。その時、わたしははじめて姉のマンションを訪ねた。 


見舞いに行くと、姉は顔や腕のあちこちにあざをつくっていた。酔っぱらうと、隆文が暴れるのだと言う。流産の本当の原因は、隆文の暴力だった。


「パパやママには絶対に言わないで」

姉は言った。


「わたしだけが隆ちゃんの味方だから」


どうして姉がそんなことを言うのかわたしにはわからなかった。


「隆ちゃん、すごく反省しているの。自分のせいで、わたしたちの宝物がなくなってしまったって、わたしにしがみついて、肩を震わせてたくさん泣いたのよ。どこにも行かないでくれって。お前だけは俺をひとりぼっちにしないでくれって」


隆文は、馬鹿だ。

姉は、もっと馬鹿だ。


姉がようやくそのことに気づいたのは、隆文の浮気が発覚したときだ。姉が一生懸命稼いだ金を隆文が別の女に貢いでいたのだ。そのことを姉が問い詰めると、隆文は逆上し、姉に向かってブスだの、バカだの罵り、暴力をふるった。

当時、ふたりが言い争う声をマンションの隣人が何度も聞いている。


そんな折に事件は起こった。

隆文がマンションのベランダから転落したのだ。


コンクリートに頭を打ち、即死だった。姉が、真っ先に疑われた。警察はマンションを捜索し、姉は長い時間取り調べを受けた。


「結子さんなら、その時間、うちに居ましたよ」

「書類を届けてもらったんです」


そう証言してくれたのが、のちに姉の二番目の夫となる義之さんだった。義之さんは、隆文と結婚後に姉が就職し働いていた大学の職員で、義之さんのおかげで姉は解放され、隆文の転落死は酔っぱらった末の事故死と判断された。


クローゼットを開けると、姉の着ていた服やバッグがぎっしりと詰まっていた。クリーニングのカバーがかかったままの服もある。おそらく姉のお気に入りのワンピースだ。季節がよくなったら、義兄とどこかへ出かけたいと思っていたのだろう。


けれど、願いは叶わなかった。姉は、ずっと入院していたから。


クローゼットの奥に、ほこりをかぶったドールハウスを見つけた。子供の頃、一緒に遊んだものだ。まさか姉がこんなものまで実家から持ってきていたとは。飽きっぽいわたしは、すぐに人形遊びなどしなくなったが、姉は高校生になっても人形や小物を買い集め、大切にしていたことを思い出した。


膝をつき、ドールハウスを引っ張り出した。赤い屋根、にぎやかなキッチン。ふかふかのベッド。赤ちゃんの眠るゆりかご。姉の憧れ。


カバンからティッシュを出し、ゆっくりとほこりを拭きはらった。


バサッ


音がして、中をのぞく。ドールハウスに立てかけてあったものが倒れたのだろう。スケッチブックだった。見覚えのある外国製の黒い表紙をそっと開く。


「うわっ。なつかしい」


子供の頃、姉が描いた犬の絵だった。あの頃、わたしたち姉妹は犬が飼いたくてしかたがなかった。姉は、広告の裏に何枚も犬の絵を練習し、最後にこのスケッチブックにパピヨンの絵を描いた。特別に上手に描けたと言った。


「こうしてお願いごとをするのよ」


姉が言ったので、わたしは姉のとなりに座って手を組み合わせた。


「犬を飼えますように」

「一緒にお散歩ができますように」


そうしたら奇跡が起きた。まもなく我が家に犬がやってきたのだ。姉が描いた絵とそっくりの。わたしたちは手をとりあい、飛び上がって喜んだ。


魔法だ。

願いがかなった。


姉は魔法が使えるのだ。子供だったわたしは、本気で信じた。


スケッチブックをめくる。


キラキラの舞台と観客を描いた一枚。

そう、奇跡は二度起きた。


わたしが保育園の年長だったから、姉は三年生だったはずだ。お遊戯会で主役に決まったのに、直前になってママが仕事で見に行けなくなったと言い出した。ママは看護師で、病院にはママを必要としている人がたくさんいることくらいわかっていた。けれど、わたしはどうしてもママに来てほしかった。いっしょうけんめい練習したのに。ママに拍手してもらえるように、がんばってきたのに。


「春乃、ごめんね」


 ママはわたしの頭を撫でて何度もあやまった。姉もわたしの肩を抱いてくれた。それでもわたしは泣き止まなかった。どれくらいそうしていただろう。


「ほら、できたよ」


 気づくと姉は、スケッチブックに向きあって、絵を描いていた。キラキラの舞台に大きな羽根をつけた水色の衣装の女の子はわたしだ。客席に、舞台を見守り拍手する女の人もいる。ママだ。


「祈りましょう」


 姉が手を組み、目を閉じた。ああ、そうだ。こうしてお願いごとをすれば叶うかもしれない。パピがわが家にやって来た時みたいに。


 わたしは姉の横に正座し、ぎゅっと目をつむって両手を組んだ。

 

 祈りがふたたび現実になった。絵に描いた通り、ママがお遊戯会に来てくれたのだ。仕事を代わってくれた人がいた、とママが言った。姉は魔法が使えるのだ。わたしは信じて疑わなかった。ずっとあとになって、ママがなつかしそうに姉の子供時代の話をパパに話しているのを聞くまでは。


「あの時はほんとまいったわ。結子ったら、病院に電話してきたのよ。ママを妹のお遊戯会に行かせてくださいって」


 姉は魔法使いではなかった。なんだ、と思った。けれど、そんなことどうでもよかった。やさしい姉に、わたしは感謝したのだった。


 次のページを開いた瞬間、息をのんだ。

 うつぶせに倒れている男のまわりにおぞましい色の血の海が広がっている。


 ページをめくる。

 似たような構図の絵が何枚も、何枚も続いていた。


 まさか。


 絵を前に、祈る姉の姿が浮かんだ。


「どうか隆文が死んでくれますように」


 姉は魔法使いなんかじゃない。願いを叶えるためなら手段を選ばない質だ。義兄は知っているのだろうか。何もかも知ったうえであんな嘘を言ったのだろうか。


「結子さんなら、その時間、うちに居ましたよ」

「書類を届けてもらったんです」


 ちがう。

 知っていたかどうかなんて、どうでもいいことだ。

 義兄は姉を愛していた。ただ、それだけだ。


 持ってきたカバンにスケッチブックを押し込み、ドールハウスをクローゼットに戻した。これだけは、わたしが処分しなければいけない。そう思った。


 階段を降りると、義兄が焦げた薬缶でお茶を淹れていた。


「どうぞおかまいなく」

 わたしは言った。


「姉のものは全部処分してくださってかまいません」


 義兄と目が合った。うるんでいるような慈悲深い目をしていた。


 スケッチブックの分だけ重くなったカバンを肩にかけ、夕暮れの川沿いの道を歩いた。


「お願いごとをするのよ」


 ふいに姉の声が聞こえて、空を見上げる。光を抱きしめるように空が徐々に染まっていく。いつか世界を夜の帳が包むのだろう。

 義兄のために、わたしは祈った。


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