識字概念
カツユとの生活を始めて1週間が経過、粘液まみれの生活にも少しずつ慣れてきた。アニマ用の給付金も支給され始め、金銭面では生活が楽になった。粘液の処理の為に掃除の回数も増えたから部屋も綺麗になったという副産物もある。
彼女自身も社会生活に大分順応してきた。というより意外にも空気が読めるタイプなのかもしれない。たまに外に出しても変にふらっと誰かの敷地に入ったり、他色々な粗相もアニマにはありがちなのになぜか彼女は問題を起こさなかった。僕が彼女に付きっ切りだったというのもあるだろう。
……粘液に関してはプライスレス、身体的特徴だから嫌々受け入れるしかない。
しかし一方で彼女には僕の監視だけではどうしようもない重大な問題を抱えている。
「カツユ、今日はいい物を買ってきたよ」
講義の無い日の昼間、彼女は座布団に寝転がりながらアイスを食べていた。豊満な体から溢れる粘液を耐水カバーがいかんなく防いでいるいつもの光景に頭を抱える。しかしそんな自堕落な生活も今日までだ。
彼女は起き上がりアイスを一口で口に入れた後やる気のない声で「何ー?」と聞いてきた。
「まず確認なんだけど文字ってまだ読めない?」
「わかんない。でも大学の教科書?は何書いてるか分からなかった」
「あれは、うん、僕も知りたい。マンガは?あそこの棚の絵の描いてある本」
「あれも駄目だねー。でもたまに草加が面白そうに読んでるから私も興味はある」
ならば話は早い。僕もカツユには是非とも読み書きができるようになってほしいのだ。僕はクローゼットに隠していた数冊の本が入ったビニール袋を彼女に渡した。カツユが不思議そうに開けると……
「お、おお?草加、これは?」
「『げんせいせいぶつでもわかるアニマのためのにほんごドリル』。カツユ、文字に興味はない?」
彼女が社会的な常識を身に着ける為の第一歩として僕は彼女に文字を覚えさせることにした。これさえできれば意思疎通の効率化が為されるだけでなく、彼女自身の知識の傾向から彼女の管理に何か役に立つかもしれない。それに、これは僕がアニマに出来る最も効果的な防衛策である。彼女には僕から興味を逸らしてもらいたいのだ。
カツユは僕の飼ったテキストに興味を示して中を見た。僕も後からのぞき込むと中身はよくありがちな小学生用のカラフルな絵が描かれた直接書き込むタイプの国語教材といった内容だった。心做しか動物の絵と解説が多く見える。
「(懐かしいな。小学1年でやったっけ)」
自分の小さな頃を遠く思いつつ僕は彼女を横に机を片付け勉強の場を整える。
ーーー
「草加ー、これは?」
「『いぬ』だよ。見たことない?」
「うーん、あんまり。ずっと前に見たような」
二人で向かい合いながら彼女にひらがなの練習をさせる。僕はペンを持って彼女の手にあるテキストに書かれた"い"の文字を指した。
「じゃあもう一度、これなんて読むか分かる?」
「えっと…………い……っぬ!」
答えられた不安定で自信に満ちた回答をあえて気が付かないふりをする。しかし彼女は楽しそうだ。僕が問題を読んで彼女が答え、書く。まるで国語の教師になったような気分である。
カツユに文字を教えていて不思議に思うことがある。それは彼女が文字を知らないということではない。むしろ逆だ。彼女は日本語を知っている。それも相当に流暢に話せるし、人の感性もある程度備わっている。これはアニマの初期研究からの疑問らしい。
しかも彼女は元は野生のなめくじだ。多くは畑や草むらで一生を過ごし、だから知識のレベルも相応に低いはずだ。なのにデフォルメされた絵を認識し、文字と音の対応の法則を少しずつ認識してきている。
この点アニマは不思議である。なにせ、もとの動物の感性と特性を持ちつつも人の知能を持っているのだ。
僕が観察している最中もカツユは楽しそうに不安定な文字でマスを埋める。
「順調に進んでるね。まだ疲れてない?」
「草加と一緒だと楽しい。だからまだ元気だよ」
「ありがとう。じゃあこういうのはどう?」
実はカツユのために用意した本はこれだけではない。同じ袋から軟体動物の図鑑を手渡した。
「似てるね、私に」
「分類的には近い種類だから当然だよ。ふりがながあるから一人でも読める。分からない言葉があったら僕が教えてあげるよ」
僕がパラパラめくっているとカツユも横から覗いて来る。その様子はとても可愛らしく見えた。だが彼女は突然僕から本を取り上げる。
「失礼するよ」
そして僕の膝の上に座り、再び僕に本を持たせてきた。僕の胸板に背を当て、まるで抱きしめられるような形でページを開く。
彼女の行動に戸惑いながらも僕も読書を再開した。しかし気になるのは密着度だ。彼女の背中からは絶えず粘液が溢れ出し、それが僕の服を濡らす。
正直なところ気持ち悪い。だけど彼女は妙に僕との接触を好む。我慢して読もうとするが嫌悪と不快感で集中できない。
「カタツムリ、これは知ってるよ。私と似てるけど違う」
「そうなんだ。生息域的には近いしカツユは見てたんだね」
「毎日何で外さないか不思議だった。でも初めからある物だったんだね。私にも殻が生えてこないかな」
「まず無いと思う」
彼女は僕の言葉を聞くとつまらなさそうに口を尖らせた。なめくじとはカタツムリの殻をむしろ捨てた側の生物である。アニマとなってしまった彼女には申し訳ないがこれは進化の宿命だ。更に言えばアニマであるなら殻の有る無しで大きく変わることなく一様に僕は好きではない。
だが彼女の言葉はどこか悲しげで切実なように聞こえた。郷愁だろうか、偶然か、開かれたページは海洋生物についてだった。
「君の動物としての祖先は殻は邪魔だから外した。でも殻は確かにいい物だけどカツユには似合わないと思う。アニマになったら重そうだし、カツユもあっても邪魔じゃない?」
「……うん」
彼女は僕の意見に賛同する。適当に答えただけだけれど納得してくれたならそれでいい。僕には真意を知れないけれど、きっと何か意味があるのだろう。
そんなことを考えているうちに本は読み終わった。
僕は彼女に本を渡し、立ち上がる。
「さぁ、今日はここまで。続きはまた明日」
「えー、まだ大丈夫だよ。私、まだできるよ」
不満げに言うカツユに僕は首を振った。
「駄目だよ。ほら、お風呂行こう。くっついたせいでいつの間にか結構汚れてきてる」
「むぅ、分かった」
彼女は渋々といった感じで返事をした。僕は彼女にタオルを渡す。
「はい、これで拭いて。着替えはそのまま水に漬けておいて良いからね」
「でも今日こそ一緒にお風呂入るんでしょ?」
……またか。最近、彼女は妙にお風呂に一緒に入りたがるのだ。
「いや、入らないよ。一人でお願いね」
僕が即答すると、彼女はキョトンとした顔になった。
「え……なんで?」
「だって一人で入れるでしょう?」
初日から数日僕にはこの歳で女の子と一緒に入浴する趣味はない。というかそもそもそういう関係でもない。
しかしカツユはそれを聞くと頬を膨らませ、僕の手を引いた。
「えー、入ろうよぉ。一人じゃ寂しいもん」
彼女は必死に僕を説得するが、僕はそれを受け流すことにした。彼女がいくら粘っても、僕の意思は変わらない。仕方なく彼女は諦めたのか浴室へと歩いて行った。
……彼女、少し依存気味ではないか?まあ、身長的にはまだまだ子供だ。生活に慣れてきたから甘えが出ているのだろうか。それか彼女自体が割と対人ができる性格なのか。恐らく後者だ。
さて、彼女が風呂に出向いている間僕は机を片付ける。ふと窓の外を見ると空は夕焼けに染まっていた。そういえば最近、こうして彼女と過ごす時間が増えている気がする。最近は特に忙しかったから余計に。
掃除を終えた僕は気がつけば僕はモニターを起動してコントローラを手に取る。
「(ゲームでもするか)」
何となく、今はカツユが居ない方が集中できそうな気がしたのだ。そしてそのままいつも通りゲームを始めるのだが、やはり腕は鈍っていた。画面の中のキャラクターの動きも遅く感じるし、反応も遅い。
だけど、なんだか妙に落ち着く。カツユが居ると騒々しくて、逆にこうやって静かにしていると彼女の存在の大きさが分かる。やっぱり僕も彼女に大分毒されているようだ。
「何してるの?」
しばらく遊んでいると扉の向こうから声がかけられた。どうも、カツユが風呂場から出て来た。彼女の髪は濡れていて、白い肌からは湯気が立ち上っている。
「ゲーム、机がここにあったから久々にやってる」
「どんなの?」
興味津々な様子で聞いてくる彼女に僕はゲームのプレイ画面を見せる。
「??? 知らない生き物ばっかり」
「こいつらを倒してきた次に進む。やってみる?」
僕が聞くと彼女は笑顔で答える。
「うん!」
その表情は心底楽しそうで、僕はつい笑みを浮かべてしまった。
それからしばらくの間、僕達は2人で並んでテレビ画面に向き合っていた。しかしカツユの体力ゲージはどんどん減っていき、やがてゼロになる。
「うぅ……」
彼女はコントローラーを置き、ぐったりとうなだれた。
「ははっ、弱すぎ」
僕は笑いながら彼女の頭を撫でる。しかし彼女にとっては屈辱だったようで、僕の手を払い除けると睨んできた。
「……むかつく。もう一度いい?」
「はいはい、いいよ」
僕は再びゲームを再開する。カツユは今度は真剣な眼差しで画面を見つめていた。そんなに悔しかったのか?
しかし、その表情はどこか楽しげで、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のようだった。
そうして、結局彼女は僕に付き合って夜まで一緒に過ごした。
ーーー
そのまま30分が経過、足が痛い。
「あ、それはついでに買ったゲームだよ」