三十秒
「……あ~あ、なんか白けたわ」
無機質と打って変わり、今度は、殺意のこもった眼で見下ろされたじろくマオ。
「いいから、とっとと死ねよ? ガキ」
鉤爪を振るい、鎌鼬を受けて後方に吹っ飛ぶ。
殺気を嗅ぎ付け退くのがあと一歩遅れていれば見事に三枚におろされていただろう。
「ぐあ、が……ッ!」
魔物に首根を摑まれ引き立てられたマオの腕から赤々と鮮血が筋をつくって床にポタリポタリと落ちる。
獲物を前に鼻息を荒立てる魔物から、獣と腐った血の臭いが漂った。
「俺さ。あんたに止められてずぅ~っと出来なかったんだけど、憧れてたんだよ――活きよく暴れるガキを、頭からバリバリ音立てて喰うのをさっ」
ズラリと並んだ牙から糸を引き涎が滴り、大きく裂けた虚空から伸びた舌が、幼女の頬を執拗に舐め回す。芋虫のように這い転がる舌にぶるッと怖気が奔り見開く碧眼。
再会し幼女となった創造主様の頬肉からは胸躍る、人だけが織り成せる〝絶望〟の味がした。
「遊びの前に、まずは腹ごしらえ――じゃあ、いただきま~す!」
「いやぁあああああああああ!?」
教室に響く生徒の悲鳴。
――余は、ここで死ぬのか?
――こんな姿にされた恨みの一言さえ言えていないというのに、この者たちを置いて魔物の餌食になるのか。人として。人の身で。
危機を前にし、しかし冷静に事態を思考する。
頭部を喰らい付かれるその刹那――上向きに凪いだ斬撃が魔物の鼻頭を掠め、宙に飛ぶマオを力強い腕が抱いた。
「俺を置いて勝手に話を進めるな。いつ斬りかかればいいか迷っただろう」
「……きさ、ま――」
悪態を吐くが、たっぷりと殺意のこもった眼光は目の前の魔物を見据えていた。
それに思わず、不本意だが――トクン。と己に備わった弱々しい人の心が……ときめいてしまう。
いや、いやいや断じてちがう! と頭を振る。
助けてくれたことに感極まったとか、斬撃を放ったのは紛れもなくこいつで、自分の命も危なく、魔物より脅威となった。だがそれは救うためにやったこと、むしろ優しく抱き締められて高揚したとか。――ないない。
それじゃあ魔王どころか囚われになった城から救い出された慮辱後の乙女の様ではないか!
むしろそれが自然な乙女的反応である。だが勇者を異性として意識したせいで気が動転しそこまで考え至らなかった。
火照って発熱する身を冷やすため反射的に頬に両の手を当てる。
「おいおい! 勇者が割って入るなんて聞いてねえぞ!?」
裂けた口は常に笑みを浮かべたように見える。が、本能が警告する生物としての絶対な性能の差に慄くように魔物の眼は爛々と揺れ動いていた。
剣を構え高説する。
「そうかそうか。これは申し訳ない。なら――今からお前を殺す。一本の毛も残らず切って切って切り刻んで、この場から腐臭が消えるまで剣戟を放つからそのつもりで。なので――くれぐれも、早々にくたばってくれるなよ? 下衆」
「ここで殺り合う? ――いいぜ。見た目ほどボロ雑巾みたいでそれほど強くなさそうだし。とことんまで競い合おう。た・だ・し……関係ない奴まで付き合わせてもイイってんならなァアー!!」
平静を〝取り繕い〟挑戦的に凄んでみせる魔物。
ふむ、確かに。と。
「――だな。手加減でもして、手元が狂い余計な血が流れるのは、俺も本意じゃあない。そこで提案といこう。ひとまず、場所を移すとしないか? ――マオ、三十秒だけやる。その間に生徒と、そこに転がっている男を逃がせ。出来るな? お前なら」
持ち変えた剣を足許に突き立てる。こくりとマオが首肯したのを合図に。
切っ先から黒煙が溢れ、空間が歪曲したと思った。刹那――マオと人質を残し。
百八十度、空間が反転する。
「こ、これは……!?」
素直に驚くのも無理ない。
厳密に言うと、二人は、一歩も移動していなかった。が、見知った景色が文字通り一転――仄暗く陰惨な影が落ちていたのだから。
魔法を感知出来ない魔獣上がりの低位の魔物にとって、魔法を〝知識〟でしか認識していない。故に問う。自分の置かれた状況を。一体なにをした、と。
勇者が展開したのは、所謂『結界』に類する陣地作成の一種だった。一見し踏んだ景色から心象世界を織り込み、自身と対象を引きずり落とす――膨大な魔力に加え、怪物並みの記憶力を要せば、異界の規模も比例し拡大する。
魔導書や魔導具から理攻めで魔術を操る賢者では、決して到達し得ない領域。
だが、と釣り上がった口角を一層上げ笑みを零す兎姿の魔物。
確かに驚くに値するが、だから、それがなんだというんだ。奴の得物はこの空間に魔力を供給し続けるため床に直立し、それも、永続的というわけでもない。
三十秒――それがタイムリミット。
兎の耳を侮るべからず。いくら魔王を討つ運命を定めされたとしても、丸腰の猿を殺すなど、身体に付いた落ち葉を掃い落とすのと変わらない。そして、と爪を舐める。
〝切り札〟はまだ露見ていない。
身を屈め突貫した魔物の爪を切り飛ばしたのは、勇者の構えた焔を纏った双剣だった。
そんな馬鹿な……ッ! と、焼き切れた己の鉤爪を視認する。あの短剣。一体奴はどこからあれを取り出した。
違和感に気付いた魔物の眼が見開いた。
――否! 否! あれは、剣などではない。あれは……〝炎そのもの〟だ!
「ようやく気付いたか」
身体から溢れるようにし顕れた焔の鎧を編み上げながら、そう勇者。
三十秒――それは『結界』を維持するためだけの時間ではなかった。
魔物の見立て通り、丸腰ではいくら勇敢でも魔物に勝つことは出来ない。故に、〝人のまま人成らざる領域に達した〟者は発想する。
なに、簡単なこと――
〝鎧がないなら創ればいい〟
〝武器が使えぬなら使える武器を無から産み出せばいい〟
そうでもしなければ、『魔王を討つ宿命を背負った炎の勇者』など名乗れない。奇跡と運命の気まぐれという理不尽極まる理由で〝二十七を越える精霊の加護〟を受けた武人による、最早〝暴力〟と呼べる発想。
それを成し遂げた『勇者』が、厳かに、〝死〟を宣告する。
「さあ――〝大盤振る舞い〟だ。獣は獣らしく、本気で殺しにかかってこい。そして最期に、苦しみもがいて……死んで逝け」
魔物は、逃げに徹した。
その後ろを勇者が追撃する。
跳躍と研ぎ澄まされた五感を駆使し、あと紙一重の所で攻撃を躱す。焔が風を切り衝撃が荒れ狂う。
「ちょこまかと――ッ!」
石礫を掃い兎を追う。
ここまでで、二十秒経過していた。
「ウサギは逃げが得意でね! こういうの、ここじゃ『脱兎』って、そういうんだろ?」
ヒョイヒョイと廊下を駆ける魔物。
――曰く、この世界には『ブランク』という単語がある。
日々の研鑽を怠りかつての自分との〝差〟を見出してしまった者を総称しそう呼ぶのだとか。
勇者から体力と余裕が消えるのを嗅ぎ取ると、天井を蹴り後ろに回り込み、振り返った勇者に一凪ぎ。
額の切り傷から血が流れるのを認めると、魔物は口端を上げ不敵に嗤った。
「それに、〝不意打ち〟も出来るのさ」
「なあ、そろそろ仕舞いにしようや。あと十秒もしないうちに、俺もお前もあそこに戻るんだろ?」
額を拭い魔物の提案に、ふっ、と眼を閉じる勇者から双剣と鎧が霧散し消える。
「――そう、だな」
教室から手中へ喚び寄せた大剣の柄から溢れた火焔が刀身を包み、雷鳴が轟く。
紅の光輪を宿した瞳で討つべき相手を見据え。
「遊びは終わりだ。久々にいい運動だった。感謝する――とでも、言うと思ったか。貴様のような鼻が曲がるほどに血の臭いを漂わせた干物に、この勇者が敬意など払うわけないだろう」
侮蔑の言を吐き捨て居合いの構えをする。
呆れたように腰に手をやり頸を振る魔物。
「そりゃあひどい言い草だぜ? さっきまで手加減してたみたいじゃねえか。だけど……いいねぇ」
離れていても肌を焼くような絶大な魔力の発現を前に魔物は、にやっと顔を綻ばせる。
「――爆ぜろ――」
火の粉が舞い、一瞬に等しい速度で空気が爆散し――勇者の手から、剣が滑り落ちた。
「ザンネン――」
パチンっと魔物が軽快に指をスナップさせると、勇者は膝からくずおれる。
「これ、は……ッ! 貴様、なに……を……ッ!?」
「どうだ、すごいだろ? 鉤爪に仕込まれた俺の〝毒〟は。魔力に反応して効き目を発揮する。体内で発動する魔力の濃度が高ければ、高いほど。毒が回るのも早く、効果も大きい。まさに、骨抜き。無知が招いた〝当然の結果〟だ」
教室へ戻る魔物の足首を摑まえようと腕を伸ばすが、すり抜けてしまう。
「あ、ガ……ァ……ま、て……!」
「あのチビ殺ったあとお前ともたっぷり遊んでやるから、しばらくそこで休んでなよ?」
立ち上がろうと魔力を回転させた。が、手が付けられず暴走状態に陥った魔力が全身を跳ね回り僅かに残った体力をも消費させ血を吐き呻く。
カチコチと秒針が進み、再び眼を開けると『結界』はとうに崩壊し、勇者は廊下に倒れていた。
「くそ、が、ア……ッ!!!」