うなじTAISEN
茶器を片付ける側ら、剛は窓の外から手を振るメテボンニクニの背後を窺った。
「まっっったね~! 魔王さま~!」
「近所迷惑だからやめんかー!?」
恥ずかしさで荒ぶる幼女の絶叫。夕焼けの光源が真っ赤になったマオの顔なんじゃないかと思いつつ同情する剛だった。
「照れちゃって、かんわぃい」
ぴしゃりと網戸を閉めるメテボンニクニは燥ぐように歯を見せた。
「あまりからかってやるなよ。その……仲間なんだろ?」
空になったカップから蕩けるように漂う紅茶の匂いは部屋に充満していた。外から吹く夏の風と交じってそれは夕日に照らされると、甘い香りになった。柔らかくて心地よい、でも、どこか気怠さを感じる。
うっかり滑らせた口を塞ごうと咄嗟に出した手を引ったくられた剛の目の前に、にたりと微笑む薄桃色の唇は迫った。
「いつもはこっちからちょっかい出すとスルぅするくせに、妬いてんの?」
「べ……べつに、そんなんじゃ」
「へんなゴーっち、じゃあ……魔王さまたちも帰ってさびしいから、いつもみたいにゴーっちの相手、しちゃおっかな」
いつもなんて言っておいて、普段ならこんな風に過度なスキンシップをメテボンニクニは図ろうとはしない。襟を緩めたり汗ばむ素振りに肌をチラチラ覗かせることはあってもあくまで冗談だと判る範疇に留める。
変なのは、どっちだ。
イラ立ちと青い羞恥心に上擦った声が出掛かったのをまるで見切ったようにメテボンニクニは剛から離れた。
「パニくるゴーっちが新鮮で、ちょい調子ノリすぎた。メンゴメンゴ!」
耳元をくすぐったあの艶めかしい声ではない。いつもの剛の知る、ヲタクをからかう意地悪なギャル。
「……いいけどさ」
剛の寄せる眉根の間で摺り合わせた両手から覗くメテボンニクニに剛は根負けし、いつもみたく肩を竦め許した。
「僕は、お前に逆らえないんだから」
囁く、無力に。
これもいつもの日常の風景だった。
「おっ今の、ギャルに振り回されるヲタクっぽい。陰険な上目遣いがまた!」
「無力な自分に嫌気が差しているんだ。嬉しそうにするなよな……」
『ヲタクにやさしいギャル』になるため大賢者は研究を怠らない。完成系に自分がどれほど近づいたかは剛が唯一の判断材料なので観察対象に反応が現れるのは嬉しい。
と、剛が時計を確認するとそろそろ夕食を作らなければいけない時刻だった。
「ええー? まだよくない? 二人とも帰り遅いんだし」
台所に向かおうと立つと決まってメテボンニクニは引き止めてくるが、剛は耳を貸してもいられない。
連日夜遅くまで働き疲れ切って帰ってくる親に代わって家事ができるのは剛しかいなかった。用意しておかないと二人ともなにかを摘まもうともしてくれない。
家にいる以上、剛は一秒も時間を無駄にできなかった。
「今日は?」
「昨日の余ったカレーで、カレー南蛮でもしようかなって」
「ウチの教えた作り方、ウマかったっしょ!? 父母も満足してくれたっぽいし。元はあっちの世界でのシチューのレシピなんだけどね」
メテボンニクニは剛に時々〝向こう側〟の知識を授ける。多くは食に関してだがおかげで家系はずいぶんと助かっていた。
「どこで習ったんだ、ああいう知識」
魔王軍で家庭料理を振る舞うような機会、そうそうどころか絶対ないと境遇を聞いた剛は断定していた。あのアガレスと名乗った魔族が人間の料理を口に入れるとは思えない。
「ニンゲンだった頃に。本とか人に聞いたのを自分流にアレンジしただけだよ、ウチの故郷じゃあニンジン一本取り合っての殺し合いなんて、挨拶みたいなもんだったから」
メテボンニクニから教わったレシピは覚え甲斐のあるレパートリーだったがそれぞれ共通するものがあった。
味付け、調理法を変えて別の料理にしている。決まった種類、量の食材でレパートリーのほとんどが作れた。野菜が元から含んだ水を使うから水道代も浮かせた。
火を必要最小限にしか通さないのは、メテボンニクニが魔族だと剛は解釈した。
煙を焚けば、食べ物があるのが周囲に気づかれてしまう。鍋を使う料理をいつ習得したか定かではないが、家族で食べた事は憶えてないらしい。
賢者に家族がいたのは、彼女がまだ人だった頃。歴史にも残らないような時を生きるメテボンニクニが殺伐とした幼少期の情景を今でも鮮明に憶えているのに、火を通した食事は食べた経験がないと言う。
彼女にとって、温かい料理とは、本の中にしか出てこなかったのだろう。あるいはあの豊富なレパートリーこそ、食糧を奪われないようにするために編み出したのか。
食べるという行為が、メテボンニクニには命懸けだった。
台所に下りた剛はエプロンの紐を締め、蓋を開けた鍋の中を見た。
香辛料の利いたカレーに浮かぶ角切りの肉や野菜、それは熱を失っても宝石のような輝きを放ち食欲をそそる。だがどんなに美味しそうでも所詮は夕食の残り、どの家庭にもありふれた食べ物だった。
「ウチも手伝っていい?」
「……カレー温めているから、そば茹でて」
そばを仕舞ってある棚を指で示した剛に『やった♪』と陽気になるメテボンニクニ。
「断っても手伝う気でいたくせに」
「カレー南蛮は共同作業が基本だよぉ?」
菜箸で鍋をつつくメテボンニクニは、台所にエプロン姿で来た。
「おいしい夕飯のためなら矮小なニンゲンとでも肩を並べるのが大賢者メテボンニクニなのだよハッハッ」
楽しそうに鼻歌を口ずさむ。動画配信サイトで最近ハマっているポップソングのサビの部分。肩を左右に揺らし上機嫌だった。
「……〝矮小なニンゲン〟か」
「いいじゃんべつに! ウチも元はそうだったんだしさ」
「怒ってないよ……ただ、なんとなく」
煮え立ち始めた鍋の底。香ばしい風味に腹は唸る。
「〝お前は、僕たちとはちがうんだな〟って」
焦げないようかき混ぜる鍋の中に、大賢者の原点を見た気が剛はした。
最初は、生きるのが蒐集の動機だった。
飢えと渇きを凌ぐべく、彼女は知識を貪った。それは彼女を大賢者とまで祀り上げるに至った理想とはあまりにもかけ離れた、まさに矮小な行為である。
食べなければ死んでしまう。水を飲まねば干乾びる。睡眠を摂らねば意識を失う。全てを手に入れても寿命で死ぬ。生きる上で生物は欠陥だらけ。
限りの課せられた命を前に、不老不死は、人類が耐えるには難い欲望だった。かつてはその一人だった彼女は、一体なにを思ったのだろう。
老いも死もない完全な存在を前に。
「あの子が、魔王……」
改めて口にしても剛はやはりまだ信じられなかった。側に侍っていた女の人からは本能的に近づいていてはならないような禍々しい気配を感じたが、マオは、どちらかと言うと。
「想像以上だったよね。あの魔王さまがまさか……」
手の甲でメテボンニクニは笑いを堪えた。容姿を弄らないよう心の中でも配慮したのに、酷いギャルもいたものだと剛。
「ゴーっちも、その顔はまだ信じられないか。あんな天使みたいなのが、世界を滅ぼす魔王だって」
「お前が言うからとりあえず、納得はしたけど。聞いていた話とちがう――ともなんか別か。……なんていうか、むしろ僕はお前にびっくりした」
鍋から一瞬目を離した剛に、茹で具合に気を取られたメテボンニクニは結んだ髪からぴんと立つ耳の先で驚いた意を表した。
「お前、なんでした……あんな約束?」
剛に聴かせる魔王の話に、メテボンニクニを饒舌にさせた。ただでさえ煩わしいギャルが一層鬱陶しくなる話題だった。
世界を喰い殺す至高の存在。次元を渡り歩くその目的は、異世界に存在する全ての命を星丸ごと抉り取ること。無限の魔力に尽きない魔族を生み出す。時に人は神と崇め、凡骨に彼の御方自ら威光を以て、否定する。
名乗れば、後はなにも残らない。
いつもは外見の年相応なメテボンニクニの態度は、魔王を語る時だけはどこかちがった。敬愛、絶望が反駁し合った熱量と冷淡。
そんな彼女が、あの幼女を受け入れたのだ。魔王だと。信じるに値する根拠をマオの中に感じたとしても、メテボンニクニにこれ以上の裏切り行為はないのに。
「憎んで、ないのか。魔王は……敗けたのに」
「〈十八冥光〉の中にはそう思って復讐したがってるのもいるんじゃない? 忠義とか武勲とか、敗走とか……そういう感覚、ウチにはわからんが」
熱湯に浮く泡を解かすようにメテボンニクニは鍋を操った。
「話を聞く限り、魔王さまはこの世界でなんとかやってるし、ウチも横から干渉したくないし」
「自分は……気分で、手出ししなかったって」
魔王が現れても達観できるのは大賢者だからかと肩を竦める剛。
麺の一本を箸で掬い茹で加減を確認するメテボンニクニの横顔は今、露わになっている。耳たぶからポニーテールのうなじの方向に伸びた産毛、湯気に金に輝く。
ちゅる、ちゅるちゅると息を掛けて冷ましつつうどんをすするエプロン姿のギャルに、カレーをかき回す剛の手が止まった。
「復讐よりも、ゴーっちオトす方が、楽しいし」
「ぼッ僕がいつ、お前にオトされた!? お前の言うことに従ったのは僕の家族を守るためだ……!」
「まったも~、ギャルのうなじに見惚れて魔王さまの話題どろこじゃないことくらい、大賢者にはお見通しなん、ダ・カ・ラ」
ネイルで飾った指でメテボンニクニは剛の指をつついた。
「あれ、反応ナシ?」
ぐりぐりと頬に爪跡を残しても剛は無反応に鍋を混ぜた。
毎日からかわれるものだから剛は表情のレパートリーが尽きてしまった。
隙あれば、毎日こうして話題を振ってくる。木をつつくキツツキみたいに、猫がねずみで戯れるようにメテボンニクニは剛をおもちゃにする。
今回もまんまとやられた。近頃は特にこういったシチュエーションが多くなって剛としてはやるせない気持ちだった。
メテボンニクの挑発は思春期の琴線に触れるのでできれば応対を避けたい。同じ屋根の下に暮らしていてはそれもむずかしいが、悩ましいことこの上なかった。
表情筋が反応しなくなったのは剛にはせめてもの救いだった。日常風景と家族も受け入れつつあるギャルの言動に動揺を顔に出さなくて済むようになってきた。
魔王の登場で感情に変化があったかと危惧したが、ただの杞憂だった。
「耳、赤いよ」
「…………」
ゲジゲジが這うような声で笑うメテボンニクニに、火を止めた剛はカレーの面に自分の顔を映して確認した。
「今日もあたしの勝ち。お椀運んでネ、ヲタクくん?」




