じめりとうだれ幼女ともども
「〝梅雨〟って、ニッポンで雨が降る日が一年で一番多い期間のことだよ」
雨音が屋根を打つ学校の教室でマオはサクラに梅雨について色々と質問してみたが、マオの組んだ腕が解けるような答えは得られなかった。
外では相変わらずの空模様。街の外までぶ厚く張った雨雲から鈍色に大粒の滴が千切れるように降っているというのに、雨足は一向に去る気配もない。
窓の外を見ようと首をもたげる度、どんよりとした重圧が首筋の辺りにのし掛かって、マオは今日、通算四回目となる溜め息をついた。
「マオ、今日はテンション低いねぇ。せっかく学校が再会したのに」
「そういう其処許は元気だな……。はぁ」
五回目。
苦笑するマオは表情筋を強引に吊り上げているが、会話の要所要所で挟んでくるサクラの笑顔はマオと比べてもあからさま――なのに自然と。
この、どこか空気を読まないサクラの態度に避難先で救われた人々は多かった。魔王が敗れ異界の者との共存にも慣れてきた頃に来襲した新たな脅威。
シエルに大切な場所を奪われたのは異世界人も変わらないというのに、難民キャンプでは人間と魔の者との諍いが日常茶飯事に行われた。幸いにして怪我人が出なかったのは、溜まった鬱憤を隣人で晴らそうとしても、後からくる罪悪感と釣り合いが取れなかったから。
大きな被害が出なかったからといっても、緊張状態を強いられた人々が心から安心することなく、行方不明者を捜索する自衛隊とそれを追随する報道機関のヘリが故郷の空の上を飛ぶのを眺めるうちに、消灯時間を過ぎてもざわめくテントの数は増えていった。特に、子どものいるテントが……。
「――大儀であったぞ、サクラ。お主がいてくれたおかげで、余も、よく眠れた」
「わたし、マオに褒められるようなことした!?」
「どんな時でも笑っていられるお主が、今は、少しだけ羨ましいぞ…………」
「? ――なんかよくわかんないけど、笑いたけりゃあ笑えば」
「言うのは容易いが、この――〝ツユ〟だったか? ……こうも空気が重苦しいと身体がよく動かぬ」
机で頬杖をつくマオの沈んだ顔は、肉が垂れたようであった。
五河によれば、この雨はしばらくも続くらしい。
今度、陽の光を浴びることができるのはいつになるかと考える、それだけでマオは生きる希望を失ってしまいそうだった。
「マオ、笑いたい?」
「できれば――腹を思いきり抱えて、な」
「……にしし……」
「おい、おいちょっと待って? なんだ、そのあからさまにあからさまな態度は」
口元に手を添えるサクラの様子を最も近いもので喩えるなら、草原で弱り切った獲物、もしくは水場を発見した野生動物のような。
どちらにしろ、マオに対しなにかよからぬことを考えているのだけは確かだった。
「あ!? 空から筋骨隆々のオークが雨あられのように」
「そんなケッタイな現象この世界であるかッ!」
なんて窓の外に目を剥くサクラに突っ込みつつ、マオは彼女の差した指を追ってしまう。
この会話の流れで、サクラがマオの注意を自分とは正反対の方角に引きたいのは判っていた。案の定、空にあるのはオークの大群などなく、降りしきる雨だけが見えた。
だが注意の反れたマオを、鷹の如き動体視力で観察していたサクラが見逃さない。
がばりと背に被る体重にマオは前屈みに倒れそうになるのを二歩目で耐えた。
「ひゃ~! さく、ッ……やめ……ひゃひゃひゃヒァ!!」
教室中に響く幼女の黄色い声。
ふり向いたマオの腋に、サクラは五本の指を挿し入れた。防衛本能でマオは肘を畳むが、時すでに遅く。
潮の波に触手を揺らすイソギンチャクのように、しなやかなサクラの五指が、マオの腋の中でうねうねと動き、血管を刺激された感触にマオは悲痛にも興奮にも聞こえる声を破裂させた。
「笑いたいんでしょう、腹抱えたいんでしょぉおお?」
おお? ここがええんか、おお? ――とサクラは問い掛けながらマオの感覚をさらに麻痺させる。
「ちがう! なんかちがう、ぜったいちがい!」
この薄暗い天気で、沈む気持ちを解消したいとマオが打ち明けたのは真実だ。だがこれではないと、引きつる呼吸を洩らしながら――それだけは断言できた。
「マオさんは、どうやら〝受け〟の才能がありますなぁ」
「なにそっ、しらな……ちょ、もぅ……あぁああああああ!!!!」
腕と胸の間をこしょこしょされ続けること、やがてマオの喉は潰れた。だが息が切れ切れになろうと刺胞動物の化身と化したサクラは手を緩めない。止めの見えない手腕に、嬉々としたマオの笑いは最終的に一色の『絶叫』となった。
背徳感にさえ見ていると誘われる二人の周囲に、クラスメイトが避けたことで生まれた環が。
戯れる幼女達に、どこからともなく冷めた声が掛かる。
「軟体動物のような卑しい汚手々で、至高の腋を凌辱しないでくださる?」
(その罵倒……アガレス!?)
涙に充血した瞳で助けを求めるマオは、そう確信したが。
怨嗟と、若干羨ましそうに二人の様子を教室の扉の物陰から窺っていたのは、トイレから戻ってきたスモモだった。
「…………スモモー!!」
「きゃ! あ、朝日さん……」
両手を広げてマオはスモモに飛びついた。
あのまま、スモモが来なければどうなっていたことか。
「う、うぅ」
爆笑で溢れた涙は、スモモの温もりでほろほろと安堵の涙に変わった。
「危うく、もう少しでサクラに殺されるところであった……!」
「あちゃー、あと一歩で爆笑の先が見れたのに」
しくしく震えるマオに、自ら額を叩いて悔しがるサクラ。
クラス中から向けられる視線もどこか冷めている。
もうなにがなんやら、スモモにはさっぱりだった。
いや、それよりもマオの頭を撫でとりあえず慰めながら、スモモはサクラに向き直る。
「ご、ごめん……なさい、スモモ、また……サクラちゃんに」
この態度から見て判るように、スモモは、三人の中で比べてマオやサクラほど活発に自身を主張する性格ではない。
それは、今日も変わらない…………のだが。
「スモモよ、やはりアガレ……〝アスナ〟には余から口添えしておく。奴が其処許らに敵意を持たないためといっても、二人の関係に溝をつくるまで、余はそこまで望まない」
とマオはあくまでスモモに力を貸すことを強調するが。
スモモの顔が、徐々に紅くなる。
アガレスとの〝あのこと〟を思い出しで恥ずかしがっているのか。
実はスモモ、魔王の腹心だった悪魔に、唇を奪われていた。もちろん人間という下等な生物に〈司欲淫王〉とまで謳われた彼の大悪魔が劣情を抱くはずもなく。
「やはり『共感』は解いてもらおう?」
卑しい〝幼虫〟が主人と親密な関係を築いていると、不遜にも勘違いしているのを悪魔は快く思っていなかった。だがマオの望みは、サクラとスモモ――後に新たな偽名を使い転校してきたアガレスと平穏な学校生活を送ること。
そこで、アガレス自らスモモたちと悪魔の種族に伝わる、ある儀式を図った。それを執り行えば儀式に参加した者の心は双方向にやり取りされ、自身に燻る敵意の念も少しは緩和すると。
だが、悪魔と口づけを交わし心を繋いだ結果。
スモモの言動が、アガレスに寄ったものとなってしまった。人、というかマオに親しくしようとする者に非難の言葉を浴びせ、その対象は、友人であるはずのサクラにまで及んでいた。
前回はシエルやアガレスとの仲違いでうやむやになったが、今度こそとスモモを説得した。
「あー、その件なんだけど。マオ、あたしはいいの」
「サクラ……いや、しかし! お主も辛かろう、友人にあのように罵られて!」
ここではない場所でサクラに言った数々の言葉を思い出してスモモが、きゅっと瞳を絞った。
「あの後、あたしからもちょくちょく説得したんだよ。あたしは気にしないけど謝るんならマオに頼んだら? ――って。でも、聞かないんだ」
腕を組んで苦笑するサクラ。
互いに異世界からの難民である二人の関係は、こちらの世界の孤児院から始まったが、こんな強情なスモモはサクラも見たことがなく戸惑っていた。
「……こ、こころ、づよい……から」
胸の前で拳を握り、スモモは掠れた声で囁いた。
「自分の中に明日奈さんがいる気がして、心強いんだって」
「それが、理由か?」
「……ごめん、なさい……」
「それに前にも言ったじゃん、コロコロ〝裏〟になるスモモは見てて飽きないってさ! ほら、なんか二重人格っぽくてかっこいいでしょ」
そんな自慢のスモモを、もっと間近で見てくれとサクラがマオに引き出した。
「貴様ごとき愚鈍な七面鳥に賞賛されても、嬉しいどころか虫唾が立ちます。焼き鳥にして一串百十円で販売しましょうか?」
「ん、今のは罵倒に切れ味があったなー」
「す、スモモじゃない……!」
「じゃあ……――ああ。やはり貴様か」
一体いつ戻ったのか。
音もなく席についたアガレスが少女の形態で顕れた。
「そろそろ授業が始まります時間でしたので」
「朝は一緒に登校しただろう、それをいきなりいなくなったりして。どこをほっつき歩いておった?」
所用があると、荷物を下ろすなり退席し、再び転移魔法で戻ったアガレスに質問するマオ。
魔法が使える異世界出身の人間、亜人もこの学校には生徒も教師も少なからず在籍している。
この時世には珍しくないが、魔王軍でも精鋭のアガレスが使う魔法は、彼ら彼女らには再現不可能な、神の域にすら到達する奇跡だ。あまり乱用はマオはしないでほしかった。
「大した用ではございません」
「そうか、大した用ではなかったか」
とマオに澄ましたように囁いたアガレスの瞳は、憑き物が取れたみたいだった。
そして、そのアガレスの横顔が見上げた空は一部が晴れていた。巨大な力が雨雲にずぶりと切れ込みを入れたように。
「……笑顔のうるさい蛞蝓に、マオ様が犯される予感がしまして、あそこの空から極限に強化した視力で覗くという‶些細な用(※※事案※※)〟をしていただけです」
「スモモ? 『共感』を今すぐ解除するのだ❤」
このままでは、この純粋無垢な少女に悪魔の特殊性癖までが伝染してしまう。
スモモが怯えるマオの笑顔の裏には、友人を救いたいという悪魔祓いに燃える――幼女の確固たる意志が煌々とあった。




