蜘蛛女
突然の魔樹の崩壊に、市街と境界線で待機していた自衛隊が残った住民を救助するのにさほど時間は掛からなかった。
『校舎に取り残されていた全員の避難、完了しました!』
「こちらCP、了解。配布した資料の通り当該避難民の点呼を取れ。済み次第、帰還せよ。攻撃態勢を厳にせよ、送れ」
回線を戻し、疲れたように目を押さえた年配の自衛隊連隊長に、両手に持った紙コップを差し出しながら部下が笑った。
「全員無事でよかったですね」
「ああ、この世界の子ども達は皆勇敢だと知れてよかった。誰も予期しなかった事態にどうなるかと肝を冷やしたが」
「――歴戦の冒険者様も、そのような弱音を吐くのですね」
「上官に対して何たる失礼……と言いたいところだが、今はそう言ってくれた方が気が晴れる」
迷彩服の下からでも見て取れる鍛え抜かれた身体に岩のように彫りの深い顔。灰色の双眸は、戦場の彼方のあらゆる殺気を捉える。本来であれば、炊き出しの匂いと避難してきた住民の明るい声に色づくこのような場所で指揮を執る人材ではなかった。
『異世界殺しの魔王』が滅ぼした世界で、男は冒険者だった。狭い世界だったのでそれなりに名の知れ、依頼者やほかの冒険者から勝手に色々な称号で呼ばれた。
「なにを読んでるんですか」
紙コップの麦茶を飲みながら、手帳ほどの書物を広げた連隊長に若い部下が訊いた。
「帰ってきたら、娘にこの世界の労いの言葉を掛けてやろうと思ってな」
「隊長の娘さん、隊長よりニホン語がうまいですから」
今しがたのやり取りは、異世界の言語を習得した部下によって全て会話されていた。
「通信ではちゃんと話せるのに、不思議です」
「柔らかい表現はやりにくいんだよ……」
ガンバッタナ、エライゾ、カワイイ――異世界人向けに配布されたハンドブックを指でなぞりながらたどたどしく繰り返す。慎重すぎるものだから肩が寄っていた。
こういうところが、実に脳筋らしい。
「なに笑ってんだ?」
「いや、微笑ましいなー、と」
「おっさんが娘に負けないよう必死に言葉を覚える様がか?」
口を尖らせ再びガイドブックに目を通す連隊長。娘と張り合おうとする様子は、見ていてやはり微笑ましかった。
異世界を彷徨する賢人に保護され、以後護衛としてこの世界にやってきた冒険者は自衛官として雇われ、その金で一緒に流れ着いた娘は学校に通うことができた。異世界人とこの世界の住民との交流を目的とした特別な学校だった。
「しかし、気になりますね。どうして急に枯れたんでしょう」
テントから見える魔樹。その影は数時間前とは打って変わっていた。青々とした葉は茶の色に焦げ、そよ風が吹けば枝から簡単に取れた。遠くから聞こえる地鳴りは、体勢を維持できずに崩れる幹の音だった。
救助隊に撤退を強いた光線のような光となにか関係しているのか。それとも、魔力が尽きたのが枯れた原因か。この世界はとりわけ魔力の濃度が薄い。対策を打たずとも、遅かれ早かれ魔樹は枯れると総司令部と、その上にいる賢人も結論づけたのが救助が遅れた直接の原因だった。今となっては、彼らの予測通りになったのが、現場にいる者からすればそ
こはかとなく悔しかった。
だが、魔樹が枯れたことで外の状況が俯瞰で把握でき、救助隊を再び投入できたのも結果の一つだ。あの木々の一本一本の出す濃い花粉のせいで観測ヘリを飛ばせず、通信と地図を頼りにした地上作戦を展開するしかなかった。
『救助隊からCP、点呼完了しました』
「状況を報告しろ」
『それが……児童二名と、教職員一名がいません!』
「なに!?」
受話器を壊さんばかりに声を張り上げる連隊長は、通信を寄越してきた分隊長に、娘の安否を確かめてしまった。
『いっいえ、連隊長の娘さんは、ご無事です』
「そ、そうか……」
私情に駆られ、安否の確認が取れていない者よりも娘の身を案じてしまった。
「連隊長……」
「すまない、取り乱した。報告を続けてくれ」
醜態に頭を押さえる連隊長。
部下はそんな彼に、心から同情した。故郷が滅んだ時、命に代えてでも娘を守ると亡き妻に誓った冒険者。魔王が滅びようやく訪れた安寧がまた脅かされたのだ。娘の通う学校で行方不明者が出たとあっては、不安になるなと言う方が酷だった。
だが、彼は今、金で動く冒険者や護衛ではなく国家に仕える公務員だ。抱いても、私情を表に出して部隊を混乱させては決していけなかった。
「報告せよ、いないのは誰だ」
分隊長が名簿に目を通し、探している間しばしの間を空いて。
『――早乙女マオ、明久瑠アスナ。担任教諭の早乙女五河』
「早乙女……?」
同じ名に連隊長は眉根を上げたが、この世界で同性はさほど珍しくないのを思い出すと、指示を送った。
「……了解。救助ヘリが到着し次第、避難民は別動隊に一任。そのまま市街地を一周して当該人物と住民の発見を――」
「いえ、避難民とヘリに搭乗し、救助隊も引き上げてください。これは総司令部の最終決定事項です」
追加の指令を送ろうとした、その時だった。背後から受話器をひったくられこちらの意図としない命令が救助隊に下った。
顔を見合わせた自衛官二人がふり向くと、スーツの姿の若い男が丁寧に回線を切り、つるりとした禿頭を撫でていた。
「ちょっとアンタ、いきなり入ってきてなにを」
「端末真昼殿とお見受けします。これは、一体どういうことでしょうか」
連隊長に制された部下の顔がその名に驚嘆を浮かべる。
「端末――まさか〈洞〉の!?」
それは、賢人と国の要人を直属の上司とする一部のニンゲンによる組織を指す現場での隠語で――ここに連隊長を含め、ここでの異世界人全ての未来を決定するために創設された。
〝霞〟ヶ関の〝地下〟に設けられた彼らの本部に因んで、暗く湿った洞窟を意味している。
鶴の一声で統幕長も動かせる重要人物の登場に一介の自衛官は驚きを隠せなかった。
「いや、いかに端末殿でも救助隊の陣頭指揮は連隊長に一任されております。その意味はあなたならよくご存知でしょう。勝手なことをして現場を混乱させられては困ります! 本件は、書面で防衛省から正式に抗議させていただきますのでそのつもりで――」
再度手を掴んで、丁重に退出願おうとすると。
「うちのディアにその汚い手で触るんじゃないのだわさ」
鈴虫の鳴くような声がし、自衛官のふり下ろした手が中空で止められていた。
「――君は」
思わず頓狂な声で、真昼の肩を凝視する自衛官。
腕を掴み返した〝それ〟は、真昼の肩に載っていた。その尺度は携帯端末ほどしかなく、ビーズのような瑠璃の瞳は、本当にビーズほどの大きさしかなかった。野の花びらを編み込んで器用に上と下を隠したしなやかな身体、線香花火のように迸る琥珀の髪。そして、目を引く――背中から生えた黒蝶の羽根。
数々の場数を踏んできた元冒険者の連帯長も、妖精を見たのは初めてだった。
「君ぃ? それは俺様のこと? 女神も嫉妬でオーガみたいな形相になる俺様のボディに見惚れるのは仕方ないが、もう少し言葉を選ぶだわさ、猿の分際で」
言葉遣いもだが、母に読んでもらったおとぎ話の妖精は、唾なんか吐かなかった。
「フェアリーテイルさん! そんなこと言ったら、この人に酷いです。こんなに頑張ってる人にひどい、うっ、うう……!」
幼い少女の泣く声に気付いた連帯長が見たのは、八尺――成人男性を優に超える全長の巨大なスライムだった。毒々しい赤紫の液体が不定形に変形し、手を模したと思われる半透明な触手から透けて見える光る眼。むせび泣く可憐な少女の声を紡ぐのは、後ろまで裂けた乱杭歯の並ぶ口だった。
スライムから水滴がこぼれ落ちていく度、猛毒に穢された地面が腐食し煙を上げた。
「泣くんじゃねえだわさ、鬱陶しい! これだからアビスは」
「まあまあ、アビス、もう泣くんじゃありません。フェアリーテイルもそのくらいで」
二人に割って入る真昼の後ろには、白狼や戦斧を両手に握り締めたミノタウロス、漆黒の鎧を纏った男――他にも多種多様な種族がテントに集結していた。
「あんたら……まさか〈非属同盟〉か!?」
「ファミリア、それって……?」
ガイドブックにもない異世界の単語を叫ぶ連隊長に部下は疑問を投げ掛けた。
賢人達の間でまことしやかに噂されている。今は亡き彼の魔王にも賢人にも与さない謎の組織。多種多様な種族で構成される組織に唯一共通するのは、皆一様に言語を習得し意思の疎通が可能という。
特定の団体、特定の勢力に属することは非ず、自らの存在意義を強制するはぐれ者。
「その頭目が、お前さんみたいな小僧だったとはな」
想定外の光景に、不覚にも口角を吊り上げる連帯長だった。
「ァアン? 俺様のディアを悪く言うのか。たかだか一世紀しか寿命のねぇ二足歩行しか取り柄のない青猿が」
ぱたぱたと羽ばたく姿は愛らしいのに、吐き捨てる言葉は暴風雨のように荒々しかった。
だが――〈非属同盟〉が実在し、指揮所に乗り込んできたとなると、霞ヶ関の命令を言付かってきたという真昼の発言も怪しくなってくる。多種族の組織の噂は大戦後に囁かれるようになったが、魔王の残党同様に危険視されていると、賢人の会話を連隊長は盗み聴いたことがあった。
「目的は救助の妨害、当該人物に恨みでもあるのか」
国の決定を仰せつかっているほどの役人が、ただの一般市民に個人的な感情を抱くとはあまり考えられなかった。
「いえ、単なる助言です。助言。マオさんとアスナさん、五河さんはあなた方に助けてもらわなくても大丈夫です。今は避難民を森から遠ざけるのが先決です」
「? 状況が今一つ見えないのですが。それは、その彼らだけで、街から脱出できる、ということでしょうか」
「わかってるじゃない。察しがいい雄は嫌いじゃないだわさ。好きでもないけど」
フェアリーテイルが言った。
『私たちが来たのは、ある人物に会うためです。一連の事件の黒幕に、どうしても問い質したい要件がありまして』
女性の声音で真摯に応えた、白銀の巨狼。やはり、ただの狼じゃない。
「ラスティさん、可愛そうに……せっかく、妹さんと再会できたのに、こんな……うう!」
誰とも知らぬ名前を譫言のように繰り返し、醜悪なスライムは、毒の涙を流すばかりだった。
その、肺を焦がすほどの猛毒が避難所全域に蔓延し、待機していた自衛官や警察が発生源である指揮所に駆けつけた頃には。
真昼たちがいた痕跡はどこにもなく、恐ろしいモノにでも遭遇したように、抱き合って怯えた自衛官二人とはまともな会話も成り立たなかった。
***
「……へ、ェ。や、ぱり……あガレす、たん、つ……yお……」
最期の瞬間まで、シエルは笑っていた。
アガレスのモットー、それは有言実行である。マオの元で宣言したことは、必ず遂行された。
魔王の心臓を宿すシエルを殺せば、マオも死ぬ。〈神域固定〉でも死を回避することは叶わない。
ならば、マオを生かす方法はただ一つ。
シエルを――殺し尽くさければよいのだ。
個ではなく群を指す〈八束腐巫〉は擬態先に多くの命を保有しており、思考を束ねている本体さえ生きていれば、分裂体をいくら殺したところでマオの心臓は止まらない。
しかし思考と共に、痛覚も共有している。再会時にマオがアガレスの魔力の苦しんだ原因だ。
心臓は止まらない。だが分裂体を殺す度に、シエルが苦痛として感じる自我の消失をマオも共有することになる。生きながら死を実感するのは、なによりも耐えがたい〝痛〟となってマオを刺し殺す。
二度と目覚めないかもしれない痛みに、なんと――マオは人の身で耐え抜いた。涙腺や気管だけに留まらず、毛穴という毛穴から血を噴き出しても、瞬きも頑として我慢して、死に向かっていくかつての同胞から一瞬たりとも見逃そうとはしなかった。
「今楽にして差し上げます……!」
吐血するマオに鬼気迫る形相で駆け寄ってくるアガレスは、一聞すると止めを刺そうとするかのようだった。人命救助など一度もした経験などなく、死屍累々の巨峰を築く天災の方が得意分野な彼女は、こういう場面に言える常套句なんて知らない。
無論、治癒魔法も。アガレスは習得してはいなかった。
主の体重を肌に感じながら祝詞を唱えるアガレス。すると、膝を折ったアガレスに支えられたマオに伝う血が、ひとりでに傷口に集束し血管へと巻き戻ってゆく。破裂した皮膚組織も、まるで最初から出血など起こらなかったように、完全に元通りになった。
時間遡行。それは、一対象物にしか作用しない極めて限定的、だが治癒魔法などよりも高――高高高高高高度な魔法だった。
「……なくでないぞ」
この世の理を歪曲させる禍々しい波動の中で、マオはアガレスに言った。
マオに、この数分間の記憶はない。シエルの行く末を見届けた後、直立姿勢のまま意識を失っていた。
アガレスは、頑なに涙を我慢した。泣くものか、後悔するものか――強く念じながら、主としての責務を立派に果たした主を、誇らしげに思って。
「泣いたら、マオ様のお姿が、見えないではありませんか……!!」
ふっ、と、苦笑するマオは一人で立てるまで回復していた。痛みはおろか、蓄積した疲労もアガレスが時間を巻き戻したことで起床後の状態になり羽根のように足取りも軽やかだった。
シエルに対する一切の感情も、消滅していた。
「終わった、のか」
地面には衣裳と仮面、名も知らない魔術師の少女の生皮が張りついていた。体内に寄生していた大多数の蜘蛛が死んだことで、肉を食われ擬態に使われた死体が本来の状態に戻ったのだ。
「意識を統一していた本体がまだ生き残っています。脅威にはなりませんが、心臓もあります。ご油断めされぬよう」
マオにも、自分自身に対しても念を押したアガレスは死体からシエルの主本体と魔王の心臓を探った。
この少女も、憐れだった。『異世界殺しの魔王』にとって〈八束腐巫〉とは彼女を指すが、術師であるこの少女も、生前は、誰かのために魔力を使う、聡明で心の優しいニンゲンだったのだろう。それが、一匹の蜘蛛に出逢って、想いも意思も、何者であるかの自他の認
知も喰い尽くされ、死を悼む者も、ここにはいない。
どこか同情に似たやるせなに、マオは拳を握り締めた。彼女を陥れた生き物の主君に――憐れむ権利はないと奥歯を噛みながら。
これは、先見を見通すシエルの預言も、序列一位には勝てなかった、ということか。
本当の意味でシエルが死んだ今となっては、真相は闇の中だった。
「――なんということ」
「アガレス?」
「――心臓が、ございません!」
「なっ、それは――!?」
それは――ここにはもう、シエルの本体がない事実を示していた。
時を刻む秒針の音が、マオには聞こえた気がし、背後に迫る気配にふり返った。
幾百幾千、幾万もの毒牙が細く白い頸を抉った。
「マオ様!!」
風よりも速く片翼の翼を羽ばたかさせたアガレスが水溜まりに倒れる寸前のところでマオの身体を受け止めた。
筋肉が引き攣るマオ。透明な首筋は無数の咬み痕から融ける毒に紫色に変色をきたしていた。
「――あなたにだって、わかっていたしょう」
怒りに燃えるアガレスの眼に映った小さな影。マオと同じくらいの少女。この世界の服装から街に取り残された住民の一人と推測できた。
俯き、ふと上げたその顔。
そこには――口も舌も、目も、鼻も。顔と呼べるあらゆるパーツがなかった。数えるのも馬鹿馬鹿しくなりそうな蜘蛛の塊がくり抜かれた輪郭に沿ってきりきりと足音を立てて蠢き、少女特有の高く愛らしい声を模倣した。
『魔王サまの、みRAいは……決マ、テいるって♪』
無数の分裂体で、人の笑う顔を形作ったシエル。あまりにも大声を上げるものだから、頭蓋から蜘蛛の児が零れ落ちた。
高鳴る鼓動もはしゃぐ息遣いも、全て蜘蛛の蠢き合う音で再現されていた。
仮面が外れ、真の姿を露わにした。
これが――〈十八冥光〉十六位。〈八束腐巫〉シエルの正体だった。
裏切り者の蜘蛛女の胸で、剥き出しの魔王の心臓が強く脈を打っていた。




