翼持つ獣と鉄の亡者
ビルの物陰から、男の子は窓に映える空を指差し側らの母に尋ねた。
「おかあさん、あれ、なに?」
この歳の子は実に多感だった。道に転がる石ころもひらひらと落ちるように舞う蝶々も、初めて見る代物ならなんにでも興味を示し、都度都度――金では価値も到底測れないような宝石にも勝る眼を輝かせ訊いてきた。
「どうしたの?」
はにかむ母の背後から苛立ちに満ちた大人の視線が刺さる。声と立てるな、気付かれたらどうするんだ、と。
ビルに備蓄してある非常食や水はまだ十分な余裕がある。この人数でも残りあと一年は持ち応える。
だが、いつまでも来ない助け、初対面でここに逃げ込むまで互いの存在も知らなかった相手との共同生活。得体の知れない恐怖が増殖する外界。最近やってきた人間から、街で人が消えるなんて噂まである。
この母親にしたって、笑顔を必死に繕ってはいるものの。極限に差し迫った精神状態に爆発寸前だった。気を緩めば、無邪気な息子を張り倒してしまいかねない。
が。膝を折った母も息子同様、見上げた空に釘付けになった。
刹那。蒼穹をも切り裂く閃光と豪風がビルを叩き付けた。
「なんだ!?」
「攻撃されたんだ! 俺達みんなここで死ぬんだよ!」
「もういや、家に帰りたい! おかあさん、おかあさん!」
驚嘆の坩堝と化し右往左往する人々。誰のせいでこんな目に遭っているのか、誰を吊るし上げればいいのか、手近な相手を見つけては口汚く罵り合いまで始めた。
衝撃に目を焼かれてもなお、母は自分の身体に覆い隠し息子を庇った。怒号、悲鳴、諦観に笑い転げる声に支配された耳に、肌に伝わる温もりだけが息子の無事を確かめる方法だった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
「……おかあさん、あれ……」
こんな状況でも、少年は、同じ景色を見た母に訊かずにはいられなかった。
樹木に足の踏み場もなくなった街の上空。
白亜を湛えた装甲に覆われた巨大な竜が口から赤雷を吐き大気を焦がす。爬虫類を模した巨躯でありながら、冷血動物ともまた気配の異なる計算と冷徹な正確性で捉えた地点で雷光は、しかし、拡散した。
呑み込むかの如く、対向した闇の波動が雷光を相殺する。混在する二種の概念の余波が周囲に点在する一切合切に甚大な被害をもたらすと、霧散するように消えた。
黒の片翼のはばたきに粉塵がかき消えて、闇から出る一人の少女が巨竜の許まで歩みを進めた。
「おかあさん、あそこ、おねえちゃんが浮いてるよ」
幼い男の子の妄想に耳を貸そうとする者は、ここにはいなかった。
【口腔内、冷却終了。抗魔砲命中、失敗。敵勢力をAAA+と定義変更。次攻撃戦略、模索中、模索中……】
口許に冷気をくゆらせながら機竜――エルキドゥは言った。電子音で編集された男の声はどことなく精悍さを感じさせられる。生物の生々しい声音とはほど遠いものだった。
「魔法一撃でこの損耗ぶり。各段に弱くなっているのは否めませんね」
嘆息し、己の手中を眺めたアガレスは、今は蜘蛛にその亡骸を操られているかつての師匠を嘆いたのではなく、自身に対する落胆だった。
放った魔力は分体の全魔力量のおよそ四分の一。完全体に比較するとほんの指先程度の威力だった。ところが放出した魔法に手は紅く爛れ、呼吸も些か速くなっている。
肉体と自我を分離するなど、こちらの世界の時間計算で何世紀も生きてきて初の試みだったが、身体がまだ慣れ切っていないらしい。
あるいは――久々の再会にちと張り切り過ぎたか。
「これでは、マオ様の御手々を握れませんわ――」
そこまで言って、アガレスはふむと頭の上で弧を描いた角を撫でた。
分体同士の感覚は個別になっている。こちらが手傷を負った場合、感覚を共有していると主を十分に護れない欠点を考慮しての措置だ。
と、なると。マオと行動を共にしているあっちは、果たして自分と言っていいのだろうか。姿形も同じ、配分された魔力も同量なのだから、両者は〈神創聖典〉と言って差し支えない。
としたうえで。双方には双方の価値観、意思決定権が具わっている。再び元に戻れば結合するが、それまでは記憶も各々の占有財産だ。
【戦略決定。残存機構で当機が敵勢力に勝利する確率を計算――61.4332±5.3762%。規定値。魔力阻害粒子散布。敵行動範囲――掌握】
エルキドゥの背部から一斉に放出されたのは、魔力の流れを阻害する特殊な粒子。水蒸気の質量にまで細かいナノマシンを吸った生物は体内の魔力が凝固し魔法の行使が困難になる。
無論、エルキドゥを操作しているシエルもその影響を受ける。粉雪の如くパラパラと地面
に落ちる蜘蛛の死骸がその証拠。元々低位の魔物であるシエルは、魔力の流れが止められる事自体が致命傷に繋がる。
エルキドゥの亡骸に取り憑いているシエルにそんな攻撃を決定したのは、自殺行為の何物でもなかった。
だがエルキドゥの攻撃は今もって続いている。
シエルの分裂体は機竜の体内――粒子の届かない奥深くにも大量に巣食っていた。
たかが末端の分身が死んで、アガレスを討てるなら、お釣りも返ってくるというもの。
銀の粒子が一帯を包み込み周辺の草木が枯れてゆく。気孔から吸い込んだ粒子は魔力で生きる魔樹にも悪影響なのだ。
いよいよ大気の魔力も完全に断たれようとした――その時。
「まあ小生の身体の事情云々については、またの機会にいたしましょう。それより、訊いていますか、シエル? あなたは、やはり、なにも理解してはいませんね。かつての上司としてこれほど嘆かわしいことはありません」
粒子のすき間から覗くアガレスの顔は、落胆と軽蔑に歪んでいた。
エルキドゥの頭上の遥か上空に飛来したアガレスを取り囲むように高濃度の魔力値が上昇し、分散したそれらはある『形』を取り始める。
「『撃滅錬成』」
詠唱を聴き終えた空は、武器によって埋め尽くされていた。直剣、槍、戦斧、大振りの鎌。構えた矢に弦が弧を描く弓。業火に燃えるその数は、無数なんて曖昧な表現こそ相応しかった。
期待外れもいい所だった。裏切りられたとさえ、と、アガレスは心底落ち込む。
魔力を糧としないエルキドゥ、数を取り得とするシエルは魔力阻害粒子の影響は問題外だった。
だが彼らとは別に、いくら阻害されても魔法を行使できる――高性能の演算を確立する機竜の脳でも測れない弩級の魔力が、今――この天には浮いていた。
「あなたでは、彼の賢さを使いこなせない」
本来の〈十八冥光〉序列十位。〈絢爛業火〉なら、このような姑息な手段ではなく、彼の魔王が認めた武人としての才覚。驕らず、義理高い、出自から己に全く自信のなかった悪魔が前を向くような戦略を思いついただろうに。本当に、アガレスは残念でなかった。
「とにかく、これで、あなたの位置が判りましたよ――シエル」
その一言を、アガレスは発するだけでよかった。
アガレスの身体をすり抜け、彼女によって練り上げられた撃滅の豪雨がエルキドゥに降り注いだ。大気が焼き切れ地は噴き、断末魔のような衝撃音が鳴り響く。
腕、腱、右翼、左翼と解体されていく師を、アガレスは一言も言わず、その瞬間が来るのを、ただ虎視眈々と観察していた。
それは、鉄の身でありながら、生命の危機に冷や汗を錯覚されるほどの攻勢であった。
解体されながら、乱気流の間隔を演算、即座に迎撃態勢に移行。しかしエルキドゥの放ったブレスはアガレスの中央に菊の花状に展開した魔剣の群れが高速に回転しその扇風に阻まれてしまう。
斧に跳ね飛ばされた首が、地面で掠れた電子音を発した。
【本体から……全機構の著しい損耗を、受信。戦況、再……計算。敵勢力の勝利確、率、確立不能、確立不能。本体から信号を再受信、当機はこれより、最終段階に移行。確立不能、確立不能、確立不能……」
「……見つけた……」
残っていた剣の最後の一振りを手に、アガレスは地上に降下した。
瓦礫を越えやってき、アガレスが選んだ残骸はエルキドゥの胴部だった。
シエルが操作している彼の核がどの部位に移されているか特定するには、最終段階を発動させるしかなかった。街を一瞬で焦土に還す爆発を生み出せる機竜の核は、小指ほどの大きさほどで、普段休眠状態の彼の魂は、エルキドゥの部位で唯一つ、膨大な運動と理屈を度外視した起動力のため――魔力によって構成されていた。
【最終段階完了まで、3、2――】
エルキドゥの魂が徐々に目覚めてゆく。
しかし、彼の最期の瞬きがこの地に顕現する機会は、永遠に訪れない。
【1、0……】
と、同時に、アガレスは舌を滑らせ唱える。この身体でどこまで実現できるか試す機会は得られなかったが、剣を振り下ろす時間は確保できる。
「――〈神域固定〉――」
ピアノの弦を一本、弾いたような小気味のよい声が爆音に変わって、世界に響いた。
是より、アガレスが認めた如何なる物への攻撃は彼女によって許されなくなった。
「遠い昔、いつだったか、約束しましたよね。強くなって、小生の剣であなたを討つと」
振るうのではなく、剣に振り回されていた悪魔が強くなれたのは、彼女が慕う目標が、目
の前にいてくれたから。片時も自分を放そうとしない寡黙で厳しくも、優しい師がいたから。
その頃と変わらぬ姿で彼に立ち塞がったのは、運命だったのかもしれない。
「あれからどれくらい強くなれたか、もうあなたから直接聴くことはできませんが」
剣を振り上げるアガレスは、少しだけ、残念な気持ちになった。
破損したすき間からシエルの分裂体が逃亡を試みようと這い出てくる。
【最終段階。確立不能。全機構停止まで、残り十秒。復旧、不能。核の活性化に伴い、凍結状態だった疑似人格を覚醒、……ザザッ……「大儀である……余は、汝を誇りに思おう、愛弟子」】
これも、たとえシエルの預言通りだとしても。裏切り者にマオが屈する未来はこない。他の誰より頼もしい味方が、主に付いてくれている。
それに、今、アガレスはとても満たされていた。最期に寄り添い、師の称賛を聴けたのが二人いるうちの片方――こちらの自分だったのだから。
「またお逢いしましょう、その日まで、ゆっくりお休みください。師匠」




