早乙女五河の昼休み
災難とは、突然やってはこない。前触れは確かに観測されていた。予知も予測も、予見にも以前から気がついていた。
ギリギリの瀬戸際で回避していた。最悪の事態は免れていたのだ。
ああ、そうかと。早乙女五河は自嘲気味に笑った。
なんとかかんとか、取り繕うかのようにその場を切り抜けられてはいたものの。
先送りにしていた問題に、いつかは、直面する時が必ずやってくる。
天を仰ぐ五河は、学校の職員用トイレにいた。便器に腰を落ち着かせ、しかし肝心の要件は澄ませようとはしない。トイレに来たら、やるべきことはただ一つだというのに。
校舎から聞こえてくる生徒達の喧騒が遠い。昼食を終え、待ち合わせをしグラウンドでサッカーをすれば、図書館で本を読んだり、そのまま教室で雑談に興じる。
――昼休みである。
本来なら、教室で弁当を食べた後は職員室で次の授業の準備をする五河が、どうしてトイレに引き籠っているのか。
体調は悪くない。腹を下して個室に駆け込んだわけではなかった。純粋に、トイレをしにきた――ただそれだけのこと。
そんな、だれもしもが生きていれば実感する生理現象こそ、この男には悩みの種だった。
ため息をつき項垂れた視線の先は、太ももの間に落ち窪んだ闇。今となっては直視するのにもすっかり慣れ親しんでしまった――〝アレ〟が。まあ、男ならついているのが当たり前で大仰な韻も倒置法も余計なのだが。
しかし五河にとって〝コレ〟を目撃されるのは、赤面を超え、青ざめる。ここは男子トイレなので、入ってくる者にも、同じモノがついている。なにが、とは言及しないが、大きかろうが小さかろうが五河は気にする性格ではなかった。
それでも、五河は、ここ最近は密室での要件を強いられていた。
大きいとか小さいとか――そんな概念では片づけられない問題が彼には文字通り、ぶら下がっていた。
彼がどうして個室で頭を抱えているのか、事情を説明しないまま長くなってしまったけれど。
ある日、早乙女五河は拉致された。覆面を被った見知らぬ集団に。攫われ監禁された経験なんて普通に生きていればまず起こりえない。
だが、彼には、起こった。予知も予測する暇さえなく車に押し込められ、次に目覚めると、そこに以前の自分はいなかった。
そろそろ誤魔化しきれなくなってきたので、打ち明ける。
この男、早乙女五河には――魔王のティンPOが移植されていた。
で、現在。便座で頭を抱えている。
単なる生理現象で、壊した便器の数は――途中で数えるのを止めた。
「毎度毎度、勘弁してくれ」
大袈裟なため息をついたところで悩みは解消されないというのに。
もちろん、毎日、日常茶飯事トイレを破壊してはいなかった。それでは用を足す度に便器の修理と水道の工事費を請求され、いくら金持ちとはいえ破産してしまう。おしっこで破産、なんて洒落にもならないが。
早乙女家が運営しているこの蘭付属第一日輪学園は、異世界からの難民を受け入れているだけのことはあって、要塞、とそこまではいかないが普通の学校より頑丈に建てられている。生徒のだれかが、休み時間とかに、うっかり魔法を発動させて建物を壊さないように。
いつ、どこで魔王の魔力が目覚めるか、現在の持ち主である五河にも判断し得なかった。大まかには十回に一回程度の頻度なのは掴めたが、まちまちで一週間音信不通だと思ったら、三日連続続く週もあった。
おかげで、トイレをするにもバンジージャンプかスカイダイビングする覚悟で臨まなければならない。駅、コンビニの便所は使えないし、飲食店で軽く一杯、なんてもってのほか。アルコールの摂取は、尿意をもよおす。自宅には修理が何度も入るので、業者とは今ではすっかり顔なじみだ。トイレを爆破する趣味があるんじゃないかと疑われている。
いよいよもって、まずい。膀胱はとうにパンパンだったが尿道を絞めつけるにも限界。耐えがたい尿意に集中力はおかしな方向に向かって、今日の晩御飯なににしようかな、なんて考えるように。
「……そうだ、そうだ!」
トイレを破壊するなら、トイレじゃないところで用を済ませばいいじゃないか。
五河はトイレを飛び出した。内股で。
「なんだ?」
勇者が休憩がてら用を足そうとすると、職員用トイレから五河が血相を飛び出してきた。声を掛けたが、青ざめた顔で不気味な笑みを浮かべ。この世界のニンゲンにもいろいろ悩みがあって大変だ。
自分も、最初こそは手こずったが、このチャックという代物にも慣れてきた。
これから先、どうしたものか。
勇者である以上、魔王軍の残党を狩るのは当然だ。相手があの〈八束腐巫〉となれば躊躇している暇はない。
――ここが、死の街になる前に。
だが、奴は〈十八冥光〉を裏切り、政府によって保護されている。戦争を集結に導いた立役者を、一存で討伐してよいものか。
帰ってきた魔王の話によると、二日後、奴はシエルに殺されるらしい。力を奪うのではなく、今度こそ。そもそも幼女から奪う力などなにもないのだが。
真に危険なのは、やはり、マオだ。弱体化したとはいえど、側にはアガレスがいる。魔王が生きていると知れば、今後奴に続こうとする〈十八冥光〉も現れるかもしれぬ。
この手で倒した敵を除いて――生き残りがいないとは断言できなかった。
無難な手として〈司欲淫王〉と〈八束腐巫〉が殺し合うのを傍観し、魔王の討伐を待つ。奴のティンPOは危険がなくなった後で五河からゆっくり回収すればいい。魔王の力に苦
しんでいたのだ。彼にとっても悪い話ではない。
が、それは。マオを見殺しにするということ。力を失い、人と呼ばれていいほどか弱いあの、幼女を。
それが、自分が今、本当にしたいことなのか。金のため、今後の生活のため。
勇者という生き物は――本能と人間性の間で揺れていた。
「オイなんだアレ!?」
「んなッ!」
隣接するように学校の近くには公園があって授業終わりの生徒の遊び場となっていた。
それが、果たしていつから出現したのか、鬱蒼としたジャングルに囲まれ、高く茂った木々は学校からもよく見えた。




