決定した未来
眼前の仇敵の存在も忘れ、アガレスは瀕死となった主を引っ張り出した。
白目を剝いて気絶するマオは、かひゅ、かひゅと、水面から魚のように本能的に酸素を求め呼吸を続けていた。
「マオ様っ!? お気を確かに、マオ様!!」
青ざめ、体温が徐々に失われていくマオを温めようと懸命に呼び掛けるが、破壊を目的に錬成された悪魔に、命を生かす術は知らず。
鼻腔をくすぐるのは、小さな身体から滴る油汗、そこから漂う致死量に匹敵する享楽の甘美。〈司欲淫王〉の根源たる魔力の香りであった。
――否、否。断じて否である!
主の御身は結界に護られていた。万が一、万が一〝その気があったとして〟も、結界内の対象を傷付けるのは不可能。この世が木っ端微塵に砕けても結界内部の無事は保障されていた。
だが、マオの生命を今まさに脅かしている魔力は、間違いなく自分の体臭と一致し。
それが――主がこうなっている原因は、快楽と暴力をライフワークにしている悪魔が原因である決定的な証明だった。
「これを」
いつの間にか側に寄った端末真昼が、膝を折るアガレスに防毒マスクを渡そうとしていた。
「あなたの魔力は、一息で街全体を壊滅する猛毒です。それは、今だこの部屋に充満しています。急がないと彼女の肺が腐って、手遅れになります」
〈司欲淫王〉の出現が観測されて以来、賢人達との共同制作で造られたのがこのガスマスク。完全とはいかずとも魔力に侵された内蔵器官を治癒する働きが期待されていた。〈十八冥光〉との再戦に先駆け実働部隊『カオナシ』のため開発された新装備、その試作品である。
「で、ですが……」
差し出された救いの手を取るのを、アガレスは一瞬、躊躇してしまった。光の属性に寄る賢人が編み出した防衛措置で闇を統べる魔王を助けるのはどうか、と。
このままだと埒が明かないと判断した真昼はマスクを強引にマオの顔に押し当てた。
治癒魔法を肺胞に蓄えたマオが、すぅ、すぅと穏やかな寝息を立て始める。真昼の要請で到着した『カオナシ』によって昏睡していたほかのニンゲンも同じようにマスクを装着され一命を取り留めた。
「お礼は結構。これも仕事のうちです」
「…………」
咀嚼するように口を動かしていたアガレスに真昼は言った。主を救ってくれたとはいえ、人は人。上位種が劣等種に頭を垂れるなど、思い上がりも甚だしい。
……たとえそうだとしても。
真昼の微笑は、そんなアガレスの葛藤をおもんばかったものだった。
「戯れはそこまでにしていただけませんと、さすがの私も、あなたを庇い切れませんよ」
「真昼きゅんはほんとにお堅いにゃあ。ほんのお遊びじゃないかい。てゆ~か~……」
疾風よりも速く真昼と距離を詰めたシエルの胴に載った頭が、直角に折れ曲がった。
「み~んな、アタシらの腹になかよく収まるのが決まってるんだから、なにしたっていいじゃない? 餌の食べ方まで〝スナック菓子〟にとやかく言われたくないかナ」
芳醇な肉のかぐわしい香りに、仮面の隙間から唾液が滴り落ちる。無数の蜘蛛が鋏角を擦らせる音は部屋中を圧迫した。
「あなたたちは、最初から、ぜんぶ、わかっていたのですね。マオ様が、こうなることもわかったうえで小生が、小生をッ! 弄んで――!」
「アタシらを責める権利、アガレスたんにある? アガレスたんだって、楽しんでたんでしょ? ――マオさまの弱体を《・》」
「なん、ですって……?」
「感謝こそされ、真に断罪すべきは。アガレスたん自身じゃないの。まあ……どっちにしろ、もうどうでもいいけど」
どういうことかを、語気を荒げたアガレスは返答を命じた。
言葉は、ニンゲンが編み出したコミュニケーション能力だ。ならば――獣であるシエルは、行動によって要求に応じた。
杖を投げ棄て、装束の袖を剝ぐ。蝋のように白い肌が露わとなる。
「どうして、あなたがッ……!?」
シエルの胸の上で躍る、巨大な心臓。剥き出しの『ハート』から漂う魔力は、世界さえリンゴを潰すように一瞬で砕く破壊の根源。
その光景に似たものを、アガレスはどこか、間近で見た憶えがあった。
誤解ではなく、アガレスはあの時、本当にマオを殺そうとしていた。
シエルもまた、早乙女五河と同じになったのだ。
「マオ様の心臓! どうして貴様が!? それにその身体……!?」
「今でもドキドキしてるにゃ。マオ様の力を、こんなにも近くに感じられて」
高鳴る鼓動を、そっと両手を添えて強大な力に酔いしれるシエル。主の身体に易々と触れる裏切り者をアガレスは今にでも業火で燃やし尽くしてやりたかった。
「これを見せつけるために、マオ様を呼んだのですか……!」
「まぁまたご冗談を。アガレスたんだって、ほっとしてるくせに。さっきから照れ隠しなんかせずに、素直に喜べばいいのに」
「……どう、いう……意味」
予想だにしてなかった質問返しに、神から生まれた悪魔はたじろく。
だが、判っていた。シエルは、アガレスの本心を。彼女自身も無意識に自覚するのを恐れていた逡巡を、知り尽くして、ここにいた。
だって、……運命は、未来はすでに決まっているのだから。
「小生、が……こうなることを…………望んで、いた……!?」
「〝マオ様に会いたい〟、〝マオ様を守りたい〟、〝マオ様のそばにいたい〟――たい、
したい、やりたい。たい、たい、たイたいタイタいたいたいタイたイたいたイタい――ぜぇ~んぶぜんぶアガレスたんが望んだんじゃない。魔王の時なら、こんなチャンスは巡ってこなかった。今こうして抱き締められるのも、マオ様が弱ったからできるんだよ。おめでとう。大好きなご主人様より強くなれて」
瘴気が渦巻く魔境に、喝采が上がった。
蜘蛛の糸のようにアガレスに絡みつくのは、彼女に贈る――シエルの心からの称賛であった。
「シエルさん」
「なにかにゃ真昼きゅん。お小言なら――」
「戦争を終わらせた功労者であるあなたはここでは贔屓されていますが、これ以上、調子に乗るようでしたら……――その後は、判っていますね?」
普段は物腰の柔らかい態度で生きる真昼の目が、不快感を露わにするようにきらりと輝く、
「……もちろん! だから、この先は任せるねっ!」
挑発的な態度から、一転して、一歩下がるシエル。ニンゲンの威嚇など魔物には虫の羽音も同意で、不愉快こそすれ恐怖は抱かないはず――アガレスはマオを一層強く抱擁した。大きな胸中に顔を埋めた。
シエルと入れ替わりで、アガレスの前に歩み寄る真昼が、面目ないと言いたげにつるりと剃った禿頭を撫でると。
「ご覧の通り、彼女は魔王の脅威から我々を勝利に導いた立役者として、魔王軍幹部でありながら政府の庇護下にあります。ですが、問題もありまして」
「問題?」
眉を寄せるアガレスに肩を竦める。
「強く言えないせいもあって、彼女は度々我々の目を盗んでは眷属である蜘蛛の児を街に放ち、よからぬ企みを巡らせています。このまま放置すれば、地下に張った糸はやがて地上をも呑み込んで、彼女の手に堕ちるでしょう。この街が――〈八束腐巫〉の巣となるのです」
そこまで事態を掌握しておいて、なぜ、このニンゲンはそんな話をここで呑気にしているのか。
過激思想だけでなく、真昼の属する穏健派も〈八束腐巫〉を罷免せよとの声は日増しに強まり、実質、シエルに味方しようとする者は政府には一人もいなかった。
これまで何度も、何十度も、何百、何千、何万度――シエルを駆除する作戦が実行された。立案ではない、実行だ。だがどれも悉く大敗に帰した。これまで命請いとと馬鹿にしていた未来視も、こうも立て続けに見破れては認めるしかなかった。
特に賢人は、これ以上、恥の上塗りは御免と手を出さなくなった。放任は、彼らのプライドの高さが最もな原因だった。
「お願いです。どうか、この裏切り者の蜘蛛女を、あなた方の力で倒してください」
恭しく、深々と、真昼は頭を下げた。同じく〈十八冥光〉――魔王にその魂を奉げた恐ろしい仇敵に。
「悪魔に頭を下げるものではありませんよ。願いを叶えてあげねばならなくなりません。小生に魂を捧げる覚悟は、あなたにあるとは思えませんが」
「ありません。死にたくありませんから」
その愚かさと軽率さ――〈司欲淫王〉を前に正直に命を請う豪胆さに免じ、最後まで話を聞いてやることにした。
「――二つ、答えよ。計画をシエルの前で打ち明けた真意は、そして。どうして……マオ様、なのですか」
「彼女が、この未来を予知したからです」
当然といえば当然の返答だった。
「ですが。あなた方ではないと――早乙女マオが、確実に死ぬからです」
〈司欲淫王〉の暴走から、七日後。国家の支柱を支える者が集結する会議で、シエルは一つの預言を宣告した。
〈八束腐巫〉が主人と再会し――三日後の十一時五九分五九秒。
『異世界殺しの魔王』が、裏切り者に殺される。




