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用務員と蜘蛛の児

戦が終わった後、男から勇者として誇りは失われた。


だがそれで、いいのだ。如何に英雄と賛美されようと、流血と業火の中でしか価値のない称号などなくて。


そして、だれでもない名無(ノーバデイ)となった男にも、決して譲られない誇りもある。


「だから先日も言ったはずだ。掃除で出た(ほこり)は赤い蓋のゴミ箱へ。青はプラスチックだと」


朝。登校する生徒たちの喧騒から離れた職員室。

ゴミを回収にやってきた作業着姿の男は青筋を立てていた。


「すみません……」


ポケットティッシュの包みを示しながら。


「俺も貴様も、大人である以前に、ニンゲンだ。まちがえるのは仕方ない。だが子を諭す立場であるなら、ルールはしっかり守ってもらいたい」


なるべく生徒に聞こえないよう、ひそひそと注意すると分男は別したゴミを持ち帰った。

噂に尾ヒレが付いて騒がれたはこちらとしても仕事に支障が出るので。


それからも、静まり返る校舎で男は見回りを続けた。


授業中は校舎の掃除と、破損箇所がないかの指差し点検。体育その他授業で使用する道具もチェックは欠かさない。


大戦後建てられまだ間もなく、壁やその場所は綺麗なものだった。放課後、生徒が毎日丹念に掃除しているのが一目瞭然だった。

マットなどの体育用具にも問題はなく。授業以外にも休み時間のドッチボールで貸し出されているバレーボールは二個ほど痛みが出ているから、買い替えるよう要相談である。


「ふぅ」


午前の業務が全て終了し、チャックを下げ首の風通しをよくした男はため息を一つ。


用務員室の壁かけ時計を見ると、昼休みのチャイムまでまだ少し余裕があった。


据え付きのウォーターサーバーで喉を潤して、続いて二杯目を注いだ紙コップ片手に男は座りながら座敷のテレビを点けた。

料理番組を五分ほど、ぼーっと眺めながらふと……男は呟くように思った。


――学校(ここ)は、居心地がよすぎる。


不満があるわけではない。最初は強制されて始めたこの仕事にも慣れてきた。

昔と変わらず体力勝負。だが剣を振るっていたあの頃よりはよほどやり甲斐があった。


ただ一つ、ここ数日憂いていた心配も、なにごともなく済んでいる。


紆余曲折ある。が、魔王は……その配下と今もこの世と共存している。

このまま不吉な予感が杞憂に終わってくれればよい。


『でも、貴殿はこの平和ボケした世界に物足りなさを感じている』


自分以外だれもいないはずの用務員室に、男の内心とは別の声が響いた。

声のした方角。それは、あぐらをかいた男の肩からだった。


鋏角を動かせた一匹の子蜘蛛が、爪ほどの身体からは思えないような声量を発していた。


「何者だ?」

『ご安心を。怪しい者ではありません。って、この恰好じゃ説得力ないか?』


ころころと、まるで子猫のようなかわいらしい声。本来のものか、それとも、揶揄(からか)うためにわざと変えているのか。


肩に乗ったまま、蜘蛛は続けた。


『政府の遣いで参りました。ぜひ一度、有名な勇者様のご尊顔を拝見したいと思いまして』

「また、あの男の企みか」

『いえいえ、真昼きゅんは関係ありません。立場上、上からの命令と先に前置きしておいた方がなにかと()()()()()()()()()のに都合がよくなりますから』


と、いうことは。

勇者への接触は、こいつの独断という証拠。そして、奴と同じくたとえ独断専行しても世間には知られない……国の表には出られない重要人物。


賢人、ではない。

潔癖な連中は蜘蛛(クモ)百足(ムカデ)といった不浄な生き物を忌み嫌っている。


「降りろ……臭い」


なにより、この蜘蛛からは、腐った千の屍体の臭いが纏わり付いていた。


「乙女に向かってなんてひどい。でも、いくら君が嫌っても、君はアタシらを殺さない」


よほど口が軽いのか。()()()()()()()ことも含め次々と素性を露わにしていく。


……ちがう。


奴は……全てをバラしても、勇者が攻撃してこないと確信し、この状況を楽しんでいた。


『そーいう運命なんだにゃ!』


キシッ……と。子蜘蛛は鋏角を擦り合わせた。

含み(わら)うようなその様は、未来を預言するかの如き。


「すいません!」


と、男の視線は、用務員室の閉め切られた扉に向いた。


入口の前で、とある一人の男子が肩で息をしながら手に膝をついていた。


遠目からはニンゲンに見える。だが毛深く尖った猫のような耳、口元から覗いた八重歯と生やした長い尻尾が、男同様この世界本来の住人でないことを物語っていた。


「なんだ」

「あれ、僕なんです! きのう、まちがってティッシュの袋捨てたの」


『あれ』とは。

先ほどの職員室の一件だろうか。


「……わざわざ教えに来たのか?」

「おじさんが、先生に袋を見せてたから……」


尻尾の力が抜けた少年に、男は嘆息した。


怒られる、と、男子生徒は自身の袖を掴み、男の言葉を待っていた。


「なら……謝るべきは俺ではない。授業が始まる前に、早く職員室に行け。それから、今度は廊下を走るな。焦らずとも……お前なら間に合う」

「うっ、うん!」


気がつくと昼休み。

少年は外で待たせていた友人の元に戻っていった。


蜘蛛の気配は、気が付けば絶たれていた。


異なる同士の世界の少年少女が、同じ蒼穹の下で遊ぶ光景に。


男は失った、世界を救う勇者としての血を滾らせながら、こう思った。


世界の命運を賭けた戦いに、たとえ善が勝ったとしても。

悪は、この世が続く限り決して滅びることはない、と。

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