わすれてた、そういうやつだった
「あら、もう起きたのですか」
目覚めた早乙女五河は、物音のするキッチンの方に目をやった。
寝ぼけた目を指で擦って見てみると、トントンとまな板を叩く包丁の音と、鼻腔を刺激するかぐわしい匂いに覚醒した。
「あらあら。もう……お寝坊さんなんだから」
上体を起こす五河の額を撫でるのは、妖艶な笑みを湛えたエプロン姿の若い女だった。窓から射す朝の光に、湿った唇は桃色に輝いていた。
「すぐに食事の用意をしますね。アイロンをかけておきましたから、早く着替えちゃってください」
トトト、と、スリッパを鳴らし台所に戻る女の後ろ姿を目で追いながら、五河は心中で呟いた。
(…………だれ、だっけ?)
「やだもう、五河様ってば。あなたの妻の、アガレスですよ?」
可笑しそうに笑いながら、アガレスと名乗った女はキッチンから声をかけてきた。心の中で思ったはずが。どうやら寝ぼけて声に出してしまったようだと五河は思った。
まさかこの時、心を読まれた、なんて寝起きの五河は想像もしていなかった。
はて、自分にあんな綺麗な妻なんていただろうか。
というか、いつの間に結婚したのか……。
ひょっとして、自分はまた夢の中にいるではなかろうか。
辺りをキョロキョロと窺う。と、見慣れた自宅の風景に、花吹雪舞う式場をバックに並んで立つタキシード姿の五河にお姫様抱っこされたアガレスの2ショット写真が飾られていた。
それを目の当たりにした瞬間、鈍器で殴られたような衝撃が五河の後頭部に炸裂し、忘れていた、知らない記憶が甦ってきた。
そうだ。確かに、自分は彼女、アガレスと婚約した。職場結婚で結婚式には仕事仲間も何人も来てくれたし、写真はその時撮った。新婚旅行にも行った。夫婦としてはまだお互い遠慮しがちな仲で、逢瀬も、残念ながらまだだったけど、少しずつ、絆を深めていっていた。
こんな大切なこと、どうして今まで忘れていたのだろう。
まるで……そんなこと最初からなかったみたいに。
「五河様……?」
心配そうに五河を見るアガレス。
「……ごめんなさい。今起きます」
敬語で五河は答えた。まるで他人に返事をするようだった。
スーツに着替え、洗面所で顔を洗った五河をテーブルで迎えたのは、美味な香りが漂う料理の数々。上質な油で焼いた焦げ目のついたベーコンに半熟の目玉焼き。ガーリックを塗ったトースト。温かいスープからは優しい匂いがした。
「朝から、贅沢ですね」
豪勢な料理を前に五河は舌を巻いた。
「大好きなあなたのためですもの、腕に寄りをかけましたわ」
得意そうに笑うアガレスは、ささっ、冷めないうちに。と、五河に手で促した。
「じゃあ……いただきます」
スプーンを手にした五河を前に。
アガレスが、にっ、と、八重歯を覗かせた。
だが五河はスプーンを持ったままスープを前に硬直した。
「どうしたの、ですか……?」
五河と向かい合う形で座ったアガレスが、嬉しそうに微笑んだまま問うた。
(なんだろう、おいしそうに見えるのに……)
政府に保護されてからしばらくずっと薄味の食事が続いていたから、こんなご馳走が食べられるだけでも幸せ者だった。
なのに、この匂いを嗅いでいると……食べたら最後、なにか、とんでもないことになりそうな予感に悪寒が五河を背後に襲いかかった。
「さあ。はやく、召し上がってくださいな。さあ、さあ……」
すると、血塗れのようなアガレスの三白眼が背後から伸びた腕にさっと遮られ、五河の意識にかかっていた雲が晴れた。
「騙されるな五河! こいつは大噓つきだぞ!」
アガレスの背中からひょっこり顔を出したのは、アガレスとはちがい五河がよく見知った人物だった。
「マオ、さん……!?」
銀に煌めく髪。空を映したような碧い瞳。なにもかもが人の美を結集したような美しさをした小さな女の子。
五河の受け持つクラスの一人であり……先日、早乙女家の一員となったマオだった。
「もう、マオ様ったら! あともう少しだったのに!」
「全く油断も隙もないな貴様は!! 朝っぱらからこんなもので五河を誘惑しおって」
なにかを悔しがるアガレスにマオが示した小瓶には、毒々しく光る液体が入っていた。
「魅了で五河の反応を鈍らせるばかりか、こんなありもしない事実まで捏造して!」
「欲をいえば、マオ様に抱かれる小生の姿を写真にしたかったのですが、五河様のアレがあまりにも逞しいものに見えて……それと写りたいなど、小生は……イケない悪魔なのです」
「ああいけないな! 犯罪者級にいけないな」
写真を没収し写真たてのあった場所にマオは塩を撒いて供養した。
「お前、この料理に混入させた体液がニンゲンにはどれほど危険が、お前が一番理解しているだろう」
「ご心配にはおよびません。マオ様の力を宿した五河様なら、死にはしませんし、多少……元気になるだけです……」
五河の太い腕に押し倒される己の様子を想像して、アガレスはますます恍惚の表情を浮かべるのであった。
「あの、この前お逢いした方ですよね?」
「ああ。五河も気をつけろ? こいつ、お前を寝取ろうと常に狙っているからな」
記憶を辿り思い出す五河に耳打ちする勇者の声がマオにも聞こえた。
もっとも、マオの眼が黒いうちはそんなこと断じて許さないのだが。
「もっもうよい! 余は行く!」
「お弁当は!?」
引き留めようと風呂敷に包んだ弁当箱をマオに差し出すアガレスを無視し、マオは玄関に向かった。
結局、マオは担任より、早く登校する羽目になった。




