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苦手な方はご注意ください。

ネットで「お姉さま」と崇めていた相手が〇〇だった話

作者: 虹星まいる

 あね【姉】


 暴君の異名。妹のことをオモチャにして遊ぶ悪鬼。人でなし。


 姫野(ひめの)仁恋(にこ)(2020)『ニコちゃん辞典(第一版)』


 ◆


「ちょっとお姉ちゃん! それ私のプリンなんだけど!」


 姫野家のリビングに甲高い怒声が響き渡る。声の主である姫野ニコはトレードマークのポニーテールをみょいんみょいんと跳ねさせながら肩を怒らせていた。


「おー……?」

「なにその顔!」


 ニコが牙を向けた先、ソファでくつろぎながら優雅なティータイムを過ごしていた姉のミヤコは妹の顔を神妙な面持ちで眺めるだけだった。

 しばし手元のプリンに考えを巡らせたらしいミヤコは、眼鏡のブリッジを指で押し上げて「ふっ」と小馬鹿にしたような笑いを漏らした。


「これがニコのプリンだって? 冷蔵庫に入っていたのだから、家族共用のものだろう?」

「ちがわい! それは私がお小遣いで買ってきたプリン! 三十分も並んで買ったの!」

「……そうかそうか。私のために買ってきてくれてありがとう」

「ちっがーう!」


 頓珍漢なことを言う姉に、ニコは必死の形相を浮かべる。年相応にかわいらしい(かんばせ)には縦横無尽に皺が刻まれた。

 そんな渾身の怒りをぶつけられてもミヤコはけろっとしていた。


「そも、このプリンがニコのものであるということを証明できるのかい?」

「できますー! プリンのカップにマジックペンで『ニコ♡』って書いてあるやろがい!」

「んん?」


 ミヤコは手の内にあるカップを目線の高さまで持ち上げ、吟味するように観察した。次いで、思わずというように失笑した。


「ああ、確かに何か書いてあるね。しかし、余りにも字が汚いものだから読むことができなかったよ。象形文字かな?」

「あああああぁぁぁぁぁ!」


 ニコ、キレる。

 発狂した少女は助走をつけてロケットダイブを敢行する。余裕綽々(しゃくしゃく)といった態度で薄ら笑いを浮かべていたミヤコの額にニコの頭が突き刺さった。

 ゴツン、という鈍い音とともに星が散る。中身が入ったままのプリンのカップが宙を舞う。ミヤコがかけていた黒縁の眼鏡も吹き飛ぶ。


「いつもいつもいつもいつも、いーっつも私のプリン食べやがって! プリン返せ!」

「いたいっ! やめろ! そこはプリンじゃない、おっぱいだ! 放せ馬鹿者!」

「プリンを食べられなかった腹いせに、その駄肉を食いちぎってやる!」

「恐ろしいことを言うな!」


 プリン一つで全力の喧嘩。

 この後、ミヤコが謝罪の意味を込めたプリンを弁償するまでキャットファイトは続いたのだった。


 ◆


 姫野ニコにとって姉の存在は目の上のたんこぶだった。

 姉妹で折り合いが悪く、口を開けば喧嘩に発展する。幼少の頃は仲良し姉妹として近所でも有名だったのだが、いつからかすっかり今の有様になってしまった。


 さて、そんなニコにはミヤコとは別に「もう一人の姉なるもの」がいた。それは、ニコがネット上で知り合った「イヴ」という女性だった。

 ニコとイヴの出会いは三年前にさかのぼる。当時、中学一年生だったニコは初めてプレイしたオンラインゲームで人間関係のトラブルに巻き込まれたことがあった。

 ネットの知識や閉鎖社会のコミュニケーションに疎かったニコは顔も見えない相手から吐かれる暴言に怯えていた。そんな折、彼女の前に現れたのがイヴだった。


『この場は私に任せてください。もう大丈夫ですからね』


 イヴの手によってニコが抱えていた問題は瞬く間に解決した。

 窮地から華麗に救いだしてくれたイヴに対してニコは憧憬を抱くことになり……気が付けば、お姉さまと呼ぶようになっていた。

 三年ものあいだ絶えず交流を続けてきたイヴとニコの間柄はネット友達以上の「何か」にまで進展している。


『イヴお姉さま、こんばんは~』

『こんばんは、ぽて丸ちゃん』


 ユーザーネーム「ぽて丸」ことニコはSNSを開き、(くだん)のイヴとチャットに耽っていた。毎週月・水・金曜日の二十時からは二人きりで過ごす。いつの間にかできた暗黙の了解だった。

 ニコは忙しなく文字を打ち込みながらも、自然と口元が緩んでいくことを自覚していた。


『今日は何します?』

『そうですね、面白そうな絵しりとりのアプリを見つけたので、それで遊びましょう』

『はい、お姉さま!』


 ちょっとした戯れであってもニコにとっては喜ばしいもの。

『お姉さまは絵画にも造詣があるのですね!』『そういうぽて丸ちゃんこそ、個性的な絵で惹きつけられます』等々、お互いに称賛しながら遊びに興じる。

 イヴとチャットで会話している最中、ニコは完全に女の顔になっていた。


(イヴお姉さまが本当に私のお姉ちゃんだったらいいのに……)


 あの悪鬼羅刹(ミヤコ)を家から追い出し、イヴお姉さまと一緒に暮らしたい。そして、何かのはずみであんなことやこんなことになって、姉妹以上の関係になれたら……。

 そんな邪な妄想をしながら、ニコは至福のひと時を過ごすのであった。


 ◆


 休日。朝からリビングで伸びている姉を見たニコは言いようのない苛立ちを募らせた。姉と視線が交錯すると、自然と舌打ちが飛び出していた。

 出会い頭に舌打ちをされたミヤコは当然、怪訝な顔をする。


「おいおい、随分なご挨拶だな。姫野さんちのニコちゃんはお姉様に会ったら舌打ちするよう教えられたんでちゅか?」

「……はぁ〜」


 ニコはミヤコの軽口に付き合わず、重たい息を吐いた。


(なんでこんな人がお姉ちゃんなの……)


 ニコが「お姉さま」と慕うイヴと比較すると、ぐーたらミヤコは余りにも余りであった。床に寝転がってポテトチップスを食みながらテレビを見て尻を掻くミヤコを見下ろしながら、ニコは感情のない声音で語りかけた。


「私は悲しいよ。お姉ちゃん」

「なんだ? 説教かい?」

「お姉ちゃんはもう十九歳でしょ。学校にも行かずにフラフラ、フラフラ……」

「いや、今が春期休暇中というだけで普段は学校に行っているのだが」

「年頃の女の子なら、もっと真面目に生きなよ。どうせ恋人の一人もいないんでしょ? もう同級生の中には結婚してる人とかもいるんじゃないの? どうなの? 焦ったほうがいいんじゃない?」

「なんなんだ今日は! 鬱陶しいな!」


 ミヤコは立ち上がり、ニコを見下ろし返す。ポテトチップスの塩が付いたままの人差し指をニコに突きつけ、威圧的に凄んで見せた。


「魅力がないだの恋人がいないだの、さんざん言ってくれているようだが、私を慕ってくれる人だっているんだぞ!」

「妄想おつ」

「妄想なものか! あの人とはもう何年もの付き合いで……そう、付き合っているんだ! 私には付き合っている人がいる!」

「へ~~~~~~ぇ」


 ニコが放ったビブラート混じりの相槌は多分に(あわ)れみが含まれていた。

 かけらも信用してもらえていないことを悟ったミヤコは青筋を立てながらリビングから出て行ってしまった。

 その背を見送ったニコは(ひと)仕事終えましたと言わんばかりに「やれやれ」と首を振り、ミヤコが置いて行ったポテトチップスの残りをありがたく頂戴した。


 ◆


 その日の夜、ニコは予想外の通知に目を見開くことになる。

 イヴから大量のメッセージが届いていたのだ。慌てるあまりスマホを取り落としそうになりながら、ニコは一つずつメッセージに目を通していく。


『こんにちは、ぽて丸ちゃん。少しお話ししたいことがありまして』

『私たちが出会ってから三年という月日が経ちました。これまで一緒にゲームを嗜んだり、他愛もないチャットで盛り上がったりして……』

『顔も声も知らないけれど、私の中でぽて丸ちゃんの存在はかけがえのないものになりました』

『私……ぽて丸ちゃんと直接会ってお話がしたいです』

『一緒にご飯を食べて、一緒に遊びたいです。二人で映画を見に行ったり、公園のベンチに座って思い出を語り合ったり……』

『もしよろしければ来週の日曜日、△△県の〇〇駅前で落ち合ってデートをしませんか?』

『お返事、お待ちしております』


「やばい」


 ニコはスマホを胸に抱えて自室を右往左往し始めた。

 イヴお姉さまと会える。この事実にニコは興奮していた。


「高身長でスタイルよくて黒髪が綺麗で清楚系ワンピースが似合ってお嬢様学校出身みたいな雰囲気を纏っていて言動が上品でお淑やかなイヴお姉さまと会えるんだ…………」


 ニコが考えるイヴ像はまったくの妄想だ。実際のイヴはニコが考えるような人物ではないかもしれない。

 しかし、憧れの人と会うチャンスが降ってわいてきた────ただそれだけで、ニコにとっては十分な動機となる。

「お姉さま」に憧れる少女は無意識のうちにスマホを天高く掲げていた。


『ぜひ、お会いしたいです!』


 ◆


 きたる日曜日。いつもより早い時間に目が覚めたニコは寝ぼけ眼を擦りながらリビングへと足を踏み入れた。すると、そこには既にミヤコの姿があった。


「お姉ちゃん? 早起きだね」

「くくく……今日はちょっとな」


 妹の言葉を受けて不敵に笑うミヤコ。その態度に違和を感じたニコは、じーっとミヤコを見つめる。


「なんか、オシャレしてる? どこかに行くの?」

「…………デートだ」

「……はぁ?」

「デートに行くと言っているんだ! 何かおかしいか!」

「うわっ、なんでキレてんの……って、お姉ちゃんがデートとかおかしいに決まってるじゃん!」

「おかしくないが!」

「おかしいが!」


 朝っぱらから姉妹喧嘩が始まる……かと思いきや、ミヤコはハッとして時計に目を遣った。


「いかん、愚妹にかまけている暇などないのだった……そろそろ出発せねば」

「まだ朝の八時だよ? こんな時間からデートするの?」

「そんなわけないだろう。ヘアサロンに行くんだよ」

「ヘアサロン? なんで?」

「何故って……デートの前に髪を仕上げるのは当然だろう」

「ふ、ふーん。それくらい私も知ってるし」

「なんなんだ一体…………」


 ニコの強がりに呆れた顔を見せたミヤコはそのまま家を出て行った。

 取り残されたニコはというと────


「ヤバいんですけど! 私も今日デートなのに何もしてない! と、とりあえずヘアアイロン!」


 イヴとのデートが正午に控えているニコは慌ただしく準備を始めるのだった。


 ◇


 自宅からバスで二十分ほどの最寄り駅が今回のデートの集合場所である。イヴはどうやらニコの近隣に住んでいるらしく、交通費がかさまないという点で高校生(ニコ)の懐には優しいものがあった。


「イヴお姉さまって、どんな人なんだろう……」


 集合時間の十分前に目的地へたどり着いたニコは不安な面持ちで視線を彷徨わせた。駅前の人影は疎らで、それらしい人がいれば一目でわかりそうなものだが、ニコの想像する「イヴ」は未だ姿を見せていない。

 イヴを待つ間にニコは手鏡を開いて最終チェックを行う。一時間かけて作り上げたシースルーの前髪と、桜色のリボンが映えるチャームポイントのポニーテール。艶の良い柔肌。朱色差す唇。

 トレンドカラーのグリーンを取り込んだ春らしいファッションは幼い見た目のニコであっても「大人っぽく」見える。

 不備はない、と確認を終えたところでニコの後方からコツコツと石畳を叩くヒールの音が聞こえてきた。


「お待たせしました。あなたが……ぽて丸ちゃんですか?」


 鈴を転がしたような声音。ニコの身体は緊張と興奮で熱を上げる。


(やっぱり、イヴお姉さまは私が想像した通りの────)


 満面の笑顔でニコは後ろを振り返る。


「イヴお姉さま! お会いしたかッ────!?」


 瞬間、その笑みはピキリと音を立てて固まることになる。


 目の前に現れたのは美しい女性だった。


 ニコの想像通り背が高く、起伏に富んだルックスをしている。艶やかな黒髪は先端がウェーブがかっており、白を基調とした衣服は深窓の令嬢を連想させた。


 しかし。


「初めまして、イヴと申します。今日はよろしくお願いします」


 周囲の視線を一身に引き付けるほど麗しく嫋やかな微笑を浮かべたイヴを直視したまま、ニコは口から魂を吐き出しかけていた。


(あの………………お姉ちゃん、なんですけど)


「えっと、ぽて丸ちゃん? どうかなさいましたか?」

「い、いえ……」

「ふふっ、やはり私が想像していた通り、かわいらしいお方なのですね。さあ、手を」

「あ、どうも……」


 イヴ────ミヤコが差し出した手を握ったニコは首をかしげる。


(お姉ちゃん、(ニコ)だってことに気づいてないの? なんで?)


 訝しく思ったニコは舐めまわすようにミヤコの顔を見つめる。そして、普段の姉と大きく異なる部分を一つ見つけ出した。


(お姉ちゃん、眼鏡かけてない……あっ!)


 ニコは猫のようにすすいっとミヤコの懐に潜り込み、近くでその瞳を見つめる。


「あ、あの、そんなに見つめられると照れてしまいます……」

「すみません、イヴお姉さまの目があまりにも美しいものだったから」

「……っ! お、お上手なんですから…………」


 恋する乙女のごとく照れた顔を見せる姉に吹き出しそうになるニコだったが、ミヤコの瞳にカラーコンタクトがはめられていることを見抜き、このちぐはぐな現状に一先ず納得した。

 ミヤコからニコは見えていない。厳密には、ニコの輪郭は見えているが、顔立ちなどの細部までは見えていなかった。普段は度が強い眼鏡、またはコンタクトをしているミヤコであったが、今日はデートということで気合を入れているのか、度が入っていないカラーコンタクトを付けてきていた。


(っていうか、声で気づかないのかよ!)


「はぁ~~~~~~」

「え、えっと、ぽて丸ちゃん、どうかなさいましたか?」

「いえ、なんでもないです…………」

「そうですか。すみません、このようなこと……デートには不慣れなものですから、もしも不備があればお申し付けくださいね」


 くすくすと上品に笑うイヴもといミヤコはサマになっていた。


(お姉ちゃんって本気出せばこんなに綺麗なんだ。本性を知らなかったら絶対惚れてた……イヴお姉さまがお姉ちゃんじゃなければよかったのに………………)


 いつの日か抱いた幻想とは真逆のことを思いながら、ニコはガックリとうなだれるのだった。


 ◇


 ところで、「三年間憧れていた人が実の姉だった」という事実はどれほど衝撃的なことだろうか。

 イヴ=ミヤコという等式が成り立った当初、ニコは戸惑うばかりでそれといったリアクションを示さなかった。

 しかし、時間を経るにつれて少女は事の重大さに気づき始めていた。


(イヴお姉さまがお姉ちゃんってマジか……)


 三年前に交流を持ったあの日からずっと、実の姉を「お姉さま」として慕っていた。

 ニコが毎夜のようにイヴへ思いを馳せる隣の部屋で、ミヤコはぽて丸に思いを馳せていた。


 ニコの中で何かが急速にしぼんでいった。それは希望や憧憬、あるいは初恋と呼ばれる何かだった。

 遅効性の毒が身体を蝕むように、じわじわと喪失感が胸中に広がっていく。


(いったい私は何をやってるんだろう。いつまで「ぽて丸」としてお姉ちゃんに付き合わなきゃいけないんだろう)


 何が楽しくて姉とデートしなければならないのか。ニコは一刻も早く帰宅したかったが、隣を歩く(イヴ)が余りにも楽しそうにしているものだから気まずくなってしまって、己が「ニコ」であることを言い出せないでいた。


「ぽて丸ちゃん、着きましたよ。綺麗なところでしょう?」

「えっと……?」


 ミヤコと手をつないだまま深慮に耽っていたニコは、いつの間にか周囲の景色が見知ったものになっていることに気が付いた。

 そこは幼いころ、よく姉妹で遊んだ公園だった。


「もう少し早い時期に来れば満開の桜を見ることができたのですが、地に落ちた花びらというのもまた、どうしてなかなか乙なものだと思いませんか?」

「まあ、その……はい」

「ふふっ、今日はお弁当を持ってきているので、一緒に食べましょう」


 公園内に設置されているベンチへ座ったニコは、ミヤコがお弁当を広げている姿を見てギョッと目を見開いた。

 ニコは姉が料理をしている姿など長らく見ていない。だというのに、彼女の手の内にある弁当は明らかに手作りのそれだった。


「料理はあまり得意ではないのですが……今日はぽて丸ちゃんのために頑張って作りました。お口に合うか分かりませんが、食べていただけますか?」

「は、はい……」


(お姉ちゃんのくせに可愛いな! 私じゃなかったら落とされてたかも……っ!)


 ミヤコは妹から見ても「美人」に類する人間だ。そんな人が健気に手料理を勧めてくれるのだから、ニコでさえも心臓をドキドキと跳ねさせることになった。

 弁当の中身は煮物、サラダ、コロッケ、玉子焼きとバリエーション豊富だった。ミヤコから箸を受け取ったニコは恐る恐るおかずを摘み、口へ運ぶ。


「あ、おいしい」

「本当ですか? 嬉しいです」

「私好みの味付けです。おねえちゃ────お姉さまは普段、料理とかされるんですか?」

「恥ずかしながら、あまり……今日はぽて丸ちゃんに食べていただきたくて一念発起しました」

「へえ……」

「昔は趣味で料理をしていたのですが、すっかりそんなこともなくなってしまって」

「料理をしなくなってしまった原因っていうのは?」

「……妹のために玉子焼きを作った時に『美味しくない』と言われてしまって、喧嘩になったことがあったんです。売り言葉に買い言葉というやつで『二度と料理なんて作ってあげない』と激昂してから、キッチンに立つことが億劫になってしまって」

「…………」


 玉子焼きを巡っての姉妹喧嘩。その出来事はニコも覚えていた。

 もう七年も前の話になる。当時小学生だったニコは母の作る甘い玉子焼きしか食べたことがなく、ミヤコが作った塩味の利いている玉子焼きを「マズい」と評したのだ。

 何気なく放った一言が姉の人生に大きな影響を及ぼしていたと知って、ニコは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。

 ニコは当時のことを謝ろうと口を開閉させたが、謝罪の言葉はとうとう出てこなかった。

 代わりに弁当箱の中から玉子焼きを取り、勢いよく口に放り込んだ。

 優しい甘みが口いっぱいに広がった。


「美味しいです。イヴお姉さまの玉子焼き」

「……ありがとうございます。ぽて丸ちゃんはお優しいのですね」

「いいえ、私が優しいのではありません。その妹さんが優しくないんです」

「妹も悪い子ではありませんから……いつか食べさせてあげる機会ができたら、この味付けで出してあげようと思います」

「……その時は、私もイヴお姉さまのために玉子焼きを作ります。お姉さまはしょっぱい味付けが好みですよね?」

「確かに私は塩味が好みですけど……お話ししたことがありましたっけ?」

「はい。けっこう前に。たぶん」

「……?」


 二人が食事を終えると、どこからか風が運んできた桜の花びらが一枚、空になった弁当箱に添えられた。


 ◆


 それから、公園の白砂が夕景に赤く色づくまで二人の談笑は続いた。この頃になると、ニコの中で不思議な変化が起き始めていた。

 目の前の女性は確かにお姉ちゃん(ミヤコ)であるのだが、同時に、お姉さま(イヴ)でもある。

 おかしな表現であるが、ニコはイヴとミヤコが全くの別物ではなく表裏一体の同一人物であることに気が付いた。言葉遣いや態度が違えど、根本となる思想や他人を思いやる考えなどは共通しているものがあったのだ。

 そこで、ニコはずっと気になっていた疑問を口にする。


「イヴお姉さまは普段から丁寧な言動を心がけていらっしゃるのですか?」

「ええっと……実は、日常生活ではもっとガサツといいますか、あまり褒められた態度ではありません。妹と喧嘩をするときも言葉遣いは荒くなってしまいますし……」

「そうなんですね。あの、すごく変な質問なんですけど────イヴお姉さまがイヴお姉さまである理由ってなんですか?」

「それはつまり……私がイヴを演じている理由、ということですか?」

「はい。失礼を承知で申し上げますと、そのお淑やかな性格ってイヴお姉さまが本来有しているものではないですよね」

「あはは……」


 イヴ(ミヤコ)は困ったように頬を掻く。今まで三年もの間、品行方正な言動を心がけて「イヴ」という人物像(ばけのかわ)を作り上げてきたから、あっさりと指摘されることに恥ずかしさを覚えているのだろう。

 イヴは一つ咳ばらいをして、(ぽてまる)の質問に答えた。


「私はずっと、妹が憧れてくれるような姉になりたかったのです」


 ミヤコが述べたその理由に、ニコは小さく首を傾げた。姉が言わんとすることが分からず、そのまま黙って続きを促す。


「妹ができた日のことは今でも覚えています。小っちゃくて、かわいくて、私がこの子を守ってあげるんだって未来の自分に誓いました。でも、私は立派なお姉ちゃんになれなかった。あの子と喧嘩ばかりして、つまらないことで意地を張って、いつのまにか理想の自分とはかけ離れていました。私はイヴになることで、やり直しをしたかったんです」


 ミヤコは瞑目し、過去へと思いを馳せているようだった。

 妹が生まれてからの十六年間、彼女はずっと「姉」の立場を全うしようとし、理想と現実の乖離に葛藤してきた。


「私はインターネット上で匿名的に『頼れる姉』を演じることにしました。それが『イヴ』です。ネット上でもいいから取り敢えず演じてみることで、いつか現実世界でもイヴのように振る舞える日が来るのではないか、と考えていたのです」

「なるほど……その考えは上手くいきましたか?」

「いいえ。私は結局、私のままでした。所詮、イヴはロールプレイでしかなかったんです。演じてみたからといって、私の本質が変わるわけではありません。当然といえば当然ですよね」


 ミヤコは自嘲的な笑みを浮かべるが、対するニコは真剣な眼差しで姉の顔を見つめていた。

 姉が抱える思いを知った今、ニコは彼女を笑うことなどできなかった。


「なんか、今の話を聞いててすごく情けないなって思いました」

「あっ……そうですよね、ごめんなさい。ネガティブな言葉ばかり並べて、人として情けないですよね────」

「なに勘違いしてるんですか。イヴお姉さまは立派です。妹思いの優しいお姉ちゃんじゃないですか。情けないのは私です。妹の、私」


 ニコはピョンとベンチから立ち上がり、思いっきり伸びをした。そして、「ついてきてください」と姉の手を取ったニコは、呆気にとられているミヤコを連れて公園の敷地内を回り始めた。

 やがて、廃れた遊具が立ち並ぶ場所まで足を運んだニコはどこか自慢げに胸を張った。


「あの滑り台、私が幼稚園のころは毎日のように滑ってました。だっこして、って言って、お姉ちゃんに抱きかかえられながら滑るのが一番好きだったんです」

「えっ…………?」

「次はこっち。ここの砂場、昔は海辺の砂を使ってたんです。よーく見ると小さな貝殻が砂に混ざってて、より綺麗な貝を見つけた方が勝ちね、ってお姉ちゃんと一緒に日が暮れるまで探したりしてました」

「…………っ」

「あとは……あ、このブランコも思い出ありますよ。同年代の子に意地悪されて譲ってもらえなかったとき、お姉ちゃんが私のために悪ガキたちを追っ払ってくれたんです。あの時のお姉ちゃん、本当にかっこよかったなぁ」


 人気(ひとけ)のない公園を回って、ニコはミヤコとの思い出を語り続けた。

 やがて辺りは暗くなり、切れかけた街灯が明滅する広場には彼女たちだけが取り残される。

 ニコは姉の手を離すと、トンと一歩だけ距離を置く。


 ニコは「ぽて丸」ではなく「ニコ」として姉に向き合った。


「私の傍には、ずっとお姉ちゃんがいたの。生まれた時からずっと。それが当たり前のことだと思ってた」

「ぽて丸……ちゃん?」

「でも、当たり前のことじゃなかったんだね。私、ずっと勘違いしてた。お姉ちゃんの気持ちとか、お姉ちゃんとの付き合い方とか、理想の姉妹になるには何をすればいいのかとか、そういうこと考えたこともなかった。お姉ちゃんに頼りきりだったんだ」


 ニコは一歩、ミヤコとの距離を詰める。


「意地張ってばかりの生意気な妹でごめんね。私もお姉ちゃんのために立派な妹になる。お姉ちゃんがお姉ちゃんでいられるように、私も頑張るよ」

「ぽて丸ちゃん……」


 ニコの宣言に、ミヤコは感銘を受けた────というよりかは、困惑していた。


「えっと、とても素敵な考えだとは思いますが、そういうことは私ではなくぽて丸ちゃんのお姉様に言ってあげた方が……」

「……え?」

「ですから、ぽて丸ちゃんのお姉様に────」

「いや、あなたがそのお姉さまなんですけど」


 ニコはミヤコに密着し、真下から姉の顔を睨みつける。


「お姉ちゃん、私の顔ちゃんと見えてる?」

「あ、あの、実は眼鏡を家に忘れてしまいまして、ほとんど何も見えてないというか輪郭は見えてますというか────」


 ニコは姉の頬に触れると、つま先立ちになって思いきり顔を近づけた。あと少しで唇が触れてしまうほどの距離にミヤコはキョドり始める。


「ち、近いです! めっちゃいい匂い……じゃなくて、お外でこんなハレンチなことできませんやるなら近場のホテルに行きま────」

「早とちりすんな! 私の話を聞け!」

「──っ! その特徴的な怒鳴り声は……」


 赤く色づいていたミヤコの顔色がみるみるうちに白くなっていく。目を細めて穴が空くほどニコの顔を見つめた姉は「あぁ……」と魂が抜けたような声を出した。


「どうしてここにニコがいるんだい? 私のかわいいぽて丸ちゃんをどこへやった?」

「まだ気づいてなかったんかい! 最初から私がぽて丸だ!」

「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。え、ニコがぽて丸ちゃん? 私の三年間の思い出は? 胸の内に芽吹いていた恋愛感情は?」

「そのくだり、私が六時間前にやった」


 ミヤコは力が抜けてしまったのか、ニコに抱き着くようにしなだれかかった。支える形になったニコは自然とミヤコの身体に腕を回す。


「お姉ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫なものか。腰が抜けてしまって力が入らないんだ。ついでに言うと、頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えたくない。このまま私を()ぶって家まで帰ってくれないか?」

「無茶言うな!」


 ニコはベンチまで姉の体を引きずり、ちょこんと座らせた。

 尚も青褪めた顔をしているミヤコは恐る恐る口を開く。


「あぁ最悪だ……どうしてよりにもよってニコなんだ…………」

「それはお互い様でしょ。私だってイヴお姉さまがお姉ちゃんだって知ってショックだったよ」

「これから夜の映画館(ナイトショー)に行って、いい雰囲気になったところでぽて丸ちゃんをホテルに誘おうと思ってたのに…………」

「したごころ!」


 ニコは肩をすくめて溜息を吐いた。


「呆れた。今まで音声通話すらしてこなかったのに、ここに来ていきなりオフで会いましょうって言ってきたのは、そういうことだったんだね…………」

「し、下心があったわけじゃないからな。年下の子とワンチャンあるかもとか思ってないからな!」

「嘘つけ! 下心なかったらデートになんて誘わないでしょ!」

「っ、そもそもニコが『お姉ちゃんって恋人いないよね~(笑)』とか言ってくるからだろ!」

「それで私に声かけたの? あいにく、私はそんなに安い女じゃないんで」

「どうだかな。『お姉さま、スールの恋ってどう思います?』『お姉さまと一緒に過ごす時間は、いっつもドキドキしちゃいます』『お姉さまになら、私の初めてを全部捧げてもいいです』────」

「うわーーーーっ! 私のチャットを読み上げるな!」

「これで私に惚れてないだと? どの口が言っているんだ?」

「ち、血迷っただけだし! というか私が好きなのはイヴお姉さまであって、お姉ちゃんじゃないからね!」

「ふんっ、そんなこと言われずともわかっている。実の妹に好意を向けられたってこれっぽちも嬉しくは……」


 ミヤコはそこで言葉を止めるとニコの顔を真正面から見据えた。

 しばしの静寂。

 春の冷たい夜風が二人の間を吹き抜けていく。


「…………?」

「…………っ」


 ミヤコは不意に、顔をそむけた。

 それが意味することを悟ったニコは頬を染めながら自身の身体をかき抱いた。


「いま絶対へんな想像したでしょ!」

「してないが!」

「してた!」

「そ、そういうニコこそ少し口元が緩んでいたが!」

「うっ……うるさい! 帰る!」

「まてまてまて、歩けない姉を置いて帰るな!」

「もーーーーーーー!」


 二人は夜の公園でやいのやいのと言い争う。結局、ミヤコの身体が動くようになるまでニコは彼女の傍に寄り添っていた。




 姉妹で並んで帰路を歩む途中、ニコは星空を見上げながら小さく言葉をこぼした。


「今日は散々な一日だったけど、けっこー楽しかったよ。お姉ちゃんは?」

「まあ、悪くないんじゃないか。妹の本音というやつを聞けたしな」

「ま、まあね。私もお姉ちゃんの本音聞けてよかったよ。意外とかわいいことで悩んでたんだね?」

「やかましい」


 口をへの字に曲げたミヤコは妹を一瞥する。

 ニコはミヤコに寄り添うと、そっと手を取った。


「ねえ、お姉ちゃん。私たち、ちゃんと姉妹になれるかな」

「……なれるさ。私たちならな」

「次の土曜日は二人で映画行こうよ。今日行けなかったから」

「いいだろう。ただし()()()()は折半だぞ」

「けち」


 口では悪態をついているものの、ニコは満面の笑みを浮かべていた。その姿を見下ろしたミヤコも柔らかく微笑む。

 犬猿の仲だった姉妹は、思わぬ形で新たな道を歩むことになったのだった。


 ◆


「ちょっとお姉ちゃん! それ私のクッキーなんだけど!」


 姫野家のリビングに甲高い怒声が響き渡る。声の主である姫野ニコはトレードマークのポニーテールをみょいんみょいんと跳ねさせながら肩を怒らせていた。


「げっ……」

「今日という今日は許さないかんな!」

「いやっ、その、ニコのものとは知らず……」


 追い詰められたミヤコは参ったように眉を八の字にする。そして、すぐさまクッキーの容器を手放すと、ぺこりと頭を下げた。


「すまない、この通りだ」

「あっ…………別にいいよ。謝ってくれるんなら。もう勝手に食べないでよ?」

「本当にすまない。その、お詫びと言ってはなんだが────」


 ミヤコは頭を上げると、壁掛け時計に視線を遣った。

 針が示す時刻は二十時。いつもなら「ぽて丸」と「イヴ」がネット上で落ち合う時間だった。


「私と一緒にクッキーづくりでもしないか?」

「お姉ちゃんと? 二人で?」

「たまにはそういうのも悪くないだろう?」

「……うん、いいよ」


 彼女たちが「二人きり」で過ごす時間はオンラインからオフラインへと移り変わった。言い換えれば、偽りの姉妹として過ごす時間が実の姉妹で過ごす時間へと移り変わったのだ。

 エプロンを纏ってキッチンに立った二人はぎこちないながらも協力してお菓子を作り上げる。


 その姿は、まごうことなき「姉妹」そのものだった。

姫野美夜恋ひめの みやこ

姉。ネットでは「イヴ」として活動。誕生日がクリスマスイヴだからそこから拝借した。

最近、姉妹ものの百合作品に手を出し始めた。妹のことが気になっているとかそういうことは断じてないからな!


姫野仁恋ひめの にこ

妹。またの名を「ぽて丸」。野菜の中ではジャガイモが一番好きだからこの名前にした。

最近、姉妹ものの百合作品に手を出し始めた。別に、お姉ちゃんのことが気になるとかそういうのじゃないから!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 構成丁寧でいいね。 [一言] こういう短編百合ホント好き。砂糖吐きそう。
[一言] 良い関係ですね。これをきっかけに仲のいい姉妹に成れたようで良かった。ほっこりしました。 にしても象形文字ってww
[良い点] 「おかしくないが!」 「おかしいが!」 ↑ここすき [一言] ああー良き… 先程ちょっと嫌なことがあって寝付けなかったんですが この作品のおかげでぐっすり寝られそうです ありがとう
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