02 水に浮かぶ花
「あたしは――――」
少女は語り始める。年相応の柔らかく高い声で。
少女は真っ黒な感情をこの世界に流していく。その人形のような見た目とは裏腹に。
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それはとある小さな家での出来事。家といっても屋根と壁しかない、粗末過ぎる小屋。あたしたちはそこに二人で住んでいた。
「おはよー!」
肩の辺りでバッサリと切られた紫色の髪。水浴びでもしてきた後なのだろう。水滴が髪から滴り落ち、木製の床に吸い込まれていく。
彼女はあたしの唯一無二の親友。そして大切な同居人。いわゆる支え合えるパートナーという関係性。
「おはよう、アヤメ。今日の調子はどう?」
「さいあくだよー、もう。聞いてよーアリスー」
今日もまた始まった。彼女がこういう話をするときは、大体虫が関係していると相場は決まっている。だからそっと耳を塞ぐ。
食事の前にそんなことを聞いてしまったら、食欲が綺麗さっぱり無くなってしまうと思ったから。でも、なかなかアヤメは話し始めようとしない。
「いつも虫の話ばっかりだと思うなよー! そのね、井戸から面白い物見つけちゃったんだー!」
そしてあたしが耳から手を離した瞬間に、一気に話してくる。いつもであれば、これの後にほっぺたを膨らませるというのに。
いつもとは違う行動をした。だから聞いた。きっかけはそれだけのこと。
あの井戸から水以外のものが出たことは無いから、あたしも少し気になったというのもあったりはするけれど。
「どんなものなの?」
「うーん、とりあえず水を入れられそうな容器だったかな。なんかキラキラしてたー!」
とても分かりにくい。アヤメだから仕方ないといえば仕方ないのだけれど。とりあえず伝わるように言うと、井戸の中に謎の容器があった……ということだろう。
「それ、今持ってたりする?」
「ううん、今は持ってないよー。でもとりあえず井戸からは出したー。見るー?」
見たら呪われるとかそういうレアなアイテムがこんなところにあるはずがない。そう、このときは油断していたのだ。なにも起こらないって。
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「ふぅん。それがキミの願いとどんな関係があるんだい?」
目の前の彼女の瞳には、大粒の涙がたまっている。だが僕にはその理由がわからない。僕には感情と言えるものが存在しないから、そもそもわかるはずがないのだ。
この胸にあるのは、止まった心臓とプログラムされた偽物の心だけ。魔眼を作るのに必要なものすら、僕には残されていない。だからわからない。
「……わからないの?」
「ああ。わからないから聞いているんだ。わかりたいから聞いているともね」
「……本当に?」
「本当さ。こんなところに籠ってばかりだと、誰かと関わる機会なんて訪れないからね」
わかりたいからという言葉。それは嘘だ。少なくとも僕個人にとってはだけれど。僕の心は誰かの感情や想いに触れることをあまり好んではいないのだ。
人間の感情はヒトデナシどもを活性化させるだけだから。この体に住む奴に餌を与えるだけになるから。それで生活のための様々なものを得ているというのは皮肉な話だが。
「まぁいいわ。ここにいるとなぜか心が落ち着くから。最後まで話してあげる」
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そんな軽い気持ちでそれに触ってしまったのが最初の間違いだった。触ったのはあたしじゃなくてアヤメの方。あたしの目の前で起こったことだから責任が無いとは言えない。
「ア……ヤメ?」
最初は何が起こったのか、理解が出来なかった。とりあえずわかったのは、アヤメが突然倒れたということだけ。力が抜けたかのように、糸が切れた人形のように。
それが自然現象ではなく、よくわからないものに触れたことが原因なのは一瞬でわかった。でも、相談出来る大人の知り合いなどあたしたちにはいない。
「アヤメっ!」
だからひたすらその名前を呼んだ。なにかの拍子に戻ってくることを期待して。彼女が帰ってくるという僅かな可能性に賭けて。
「アヤメ……どうして、どうして一人で先に行っちゃうの?」
でも、アヤメは帰ってこなかった。どうやったって彼女は帰ってこないのだろう。口の辺りに手をかざしても、何の反応もない。
しばらくすると、彼女は指先の方から青い宝石に変わっていった。彼女の、倒れたときの姿のままで。
空よりもずっと深くて、油断していたら吸い込まれてしまいそうな蒼。あたしはそれを、どうしようもなく美しいと思ってしまった。
「ア、ヤメ……?」
その宝石はアヤメだったから。それはもうアヤメ以外の何者でもなかったから。だからあたしはそれを小屋に運び込んだ。アヤメがいるべきなのはそこしかないと思ったから。