15.ひっそりと慎ましく
早朝、まだ山里が寝静まっている時間に、シルヴィオはそっと宿を出て、雪を被った山脈地帯や森林地帯から流れてくる『気』を深呼吸して自らに取り込む。新鮮で力あふれる『気』が全身に染み渡っていくのをシルヴィオは感じていた。
街中は雑多に色々な『気』が乱れ飛んでいて、力となる純粋な『気』を取り込めない。こういったことも、ごく最近気づいてきたことだった。
人間でも森林浴をすると元気になるといったことは聞く。人間も本来『気』というものを意識できる存在なんだろうけれど、街中ではそれが難しい。
『気』を感じられるところは、僕とおんなじなのにね。
シルヴィオは大きく伸びをしてから、丘を降りて山菜採りの仕事をしに里山に向かった。
切迫流産と診断されてから数週間後、出血も無くなったのでライラは久しぶりに宿の外へ出た。まだお腹は膨らんできていないが、この中に新しい命が宿っていると思うと、ついお腹を撫でてしまうライラだった。
「もう大丈夫なの?」
仕事が終わって帰ってきたシルヴィオが心配げに声をかけてくる。
「うん。ずっと宿の中にこもってたから、外の空気を吸いたくなったの」
「外の空気……じゃぁちょっと近くの森を散歩しようよ、いい場所見つけたんだ」
「そうなの? 案内して?」
今朝、シルヴィオが『気』を取り込んだ場所に来た。里山を見下ろせる高台の丘だ。
「わ~すごい絶景! 空気も美味しい」
「美味しい?」
シルヴィオが首を傾げて尋ねる。
「ほら、街中よりは空気が澄んでて気持ちいいっていうか」
「ライラも、『気』がわかるんだね」
「シルヴィオみたく、『気』が見えるわけじゃないけどね。こういうところに住むのもいいかも」
「うん、同感」
しばらく絶景を満喫して、ライラは体の中の空気が入れ替わったような清々しさを覚えていた。
「ここにしばらく住もうか」
ライラの思わぬ言葉にシルヴィオは目をパチクリさせる。
「ここに、小さな動物病院を開くの。需要はあるはず……」
「ライラらしいや」
シルヴィオが笑う。ライラは真顔で本気だ。
「シルヴィオには獣看護師やってもらうわよ、絶対適性あるから」
「できるかな」
「本当言うとね、出会った頃からシルヴィオには獣医師か獣看護師の適性あるんじゃないかって思ってたの。ほら動物と話せるでしょ?」
「あぁ、なるほど……ジャッキー元気かな」
「……仕事で組んでたワンちゃんだよね?」
「会いには行けないな。僕は逃亡兵だから」
「探しているかもしれないね。ジャッキーちゃんだけじゃなく──同僚とか」
シルヴィオは思い当たる同僚がいるようで、深刻な顔になった。
「定住はできないかも。ライラ、僕といると各地を転々とすることになる可能性が」
すると、ライラは笑って言った。
「いいよ~さすらいの獣医師かぁ、かっこいいじゃない!」
集落に降りると、シルヴィオの仕事仲間のおばちゃんが慌てたように通りを走ってくる。
「おばちゃん、どしたの?」
シルヴィオが声をかけると、おばちゃんは飼ってる猫の様子がおかしいと言うのだ。この山里には動物病院がないようで、民間療法を試してみるために薬草を探しに行くところだという。
「あの、妻が獣医なんで、ちょっと見せてもらっていいです?」
「獣医さんなの? 診てもらえる?」
その猫はしきりと耳を気にしている。おばちゃんが予想を言う。
「あたしゃ、耳ダニかと思ってね」
ライラは猫ちゃんの耳をよく観察する。外耳炎が原因でなる耳血腫であることをおばちゃんに伝える。でもこの山里には麻酔薬や抗生物質などない。ライラが手術道具を宿に取りに行っている間、麻酔の代用になる植物と抗生物質に似た効能のある薬草等があったら採ってきて欲しいことをシルヴィオとおばちゃんに伝える。
二人が該当する薬草を採ってきてくれたので、ライラはまず麻酔の代用品を猫に嗅がせ、猫の意識が飛んだ間に、手早く手術をして血腫を取り除いた。そして菌が繁殖しないよう、抗生物質の代用品の樹液を患部にぬり縫合した。猫が患部を引っ掻いたりしないよう顔首の周りに硬めの紙を巻いた。
「お姉ちゃん、ほんとに獣医さんなんだね。手際もいいし。ありがとう」
「お薬の代用品を採ってきてもらったので、助かりました。私だけでは何もできませんでした。こちらこそありがとうございます」
ライラはホッとした。この山里には薬の原料となる薬草などがあって、それをシルヴィオとおばちゃんが間違えずに採ってきてくれたおかげだった。
この話は、山里に素早く駆け巡った。そして山里の人々はライラとシルヴィオを改めて歓迎してくれた。
しばらくはこの山里に逗留することになった二人は、慎ましやかにひっそりと暮らすことにした。
ライラはここでお産し、男の子が生まれた。見た目は人間の赤ちゃんだが、その泣き声は隣接する森林地帯の動物たちを騒つかせた。