15.再会の抱擁
オズボーン動物病院の忙しい一日がまた始まる。受付を済ませた飼い主たちが家族である動物を連れて、待合室に座る。
ガラス張りの診療室を見ながら、オーべ・ノルビが相棒の兎を抱いて熱い視線をライラに送っているが、ガラスの向こうではライラが茶色の小型犬を診察している。
「リンパルさん、ココアちゃんのお腹の調子は至って健康です」
「でも昨日の夜、水っぽいウンチがでたんです」
「今朝は?」
「今朝はなんでもなかったですが……」
「ん~~水っぽいものを多く食べた時は水っぽい便が出るときがあります。今朝はなんともなかったのでしたら心配いらないと思います。検査の結果も異常ないですよ」
「よかった。ココア、だいじょうぶだってっ」
「パパさんは心配性ですね~ココアちゃん。でもそうしていつもココアちゃんを観察することはいいことです。いつも気にかけてあげてくださいね」
「はい!」
リンパルは褒められて目を輝かせた。この動物病院では患畜の飼い主と職員のプライベートな付き合いは禁止されていると、この間ライラ本人から聞いたばかりだが、往診してもらえるか食い下がってみた。
「往診は基本的にしていませんが、重篤な子の場合は責任者である院長がお伺いします」
「院長先生が……ですか。ライラ先生は?」
「私は行なっておりません、もうしわけありません」
「わかりました。また来ます!」
「はい、お大事に~」
獣看護師が意味ありげにライラに目配せする。
「何? どうしたの?」
「次のノルビさんも、ライラ狙いですよ」
「……えーと、次の方、ノルビさん。『ミルク』ちゃんどうぞ~」
「こんにちは! 爪切りをなかなかさせてくれなくて」
「はい、うさちゃん爪切りですね」
獣看護師が四人がかりでミルクちゃんを取り押さえる。兎は弱い動物とみられがちだが、その蹴りの威力は侮れないのだ。
爪の切り方をライラがノルビにレクチャーする。ノルビはコツを掴もうとライラに近寄る。
その様子をリンパルが悔しそうに振り返る。
「リンパルさん、お会計おねがいします」
「は、はい──」
爪切り終わって、ノルビはしばらくライラの香りに酔う。ライラは香水をつけているわけではないが、ノルビにはとても甘美な香りに思えた。
「ノルビさん、聞いてますか~?」
「はい、もちろんです!」
「ご家族やパートナーがいらっしゃれば、お手伝いをしてもらってください」
「パートナーは今、いないんです。ライラ先生は?」
ライラはノルビの質問はあえて無視して、つづける。
「爪が伸びっぱなしなのはいけないですから、一人でやるのに無理だと思ったらまたいらしてくださいね」
「ライラ先生、またお願いします!」
「はい、今回の爪切りは終わりましたよ」
「ありがとうございます!」
ライラはノルビを会計係のほうに見送ってカルテに記入する。ドアから会計を済ませたリンパルが、ライラに手を振っていた。
開いたドアの隙間から、鮮やかな青色がみえた。そしてリンパルと入れ替わるように一人の軍服の青年が入ってきた。
「ライラ!」
照明に煌く銀髪は短く、精悍な顔つきの軍服の青年──ここのいるはずのない見覚えのある笑顔で現れた人物にライラは目を瞠った。
ライラにはまるでスローモーションに映った青年シルヴィオは、躊躇いもなくライラの腰を抱いて高く抱き上げた。
「え、シルヴィオ? どうして」
「ライラ、逢いたかった!」
「なんで? いつこっちへ?」
言いたいことはもっと違う言葉だが、ライラの唇から紡がれる言葉は疑問符ばかりだった。涙が勝手に溢れてくる。
私、どんなに君に逢いたかったかわかる?
ライラの胸にシルヴィオは顔を埋めてくる。
待合室の飼い主たちはその光景を見て囃し立てる。飼い主たちの興奮に動物たちも騒ぐ。
「ちょっと、あの、いま診察……」
シルヴィオはライラが診察中なのにも構わず、彼女をお姫様抱っこした。別の診察室から、オズボーン院長が騒ぎに気付いてライラの診察室に入ってきた。
「こんなところでイチャつくな! シルヴィオ、外行ってやれ!」
「じゃぁ院長、ライラは今日は半休で!」
シルヴィオはそう言って仕事中のライラを攫って行った。
後に残されたのはその様子を冷やかす飼い主たちと、騒ぐ動物たちと、唖然とした獣看護師たちと呆れた院長と、そしてショックを隠せないリンパルとノルビだった。
「ちょ、シルヴィオ下ろしてってば、恥ずかしいっ」
「嫌だ、ライラの家まで抱いていく」
「私の家、知らないでしょ!? 下ろさないと案内しないから」
「公園でもいいし、ちかくの宿でもいいし」
「案内するから、お願いだから下ろして~」
道行く人の興味津々な視線が二人に集中している。
シルヴィオは渋々ライラを下ろしてから、ライラの肩を抱いて彼女の頬にキスを落とす。
往来でキスを続けようとするシルヴィオの口を、ライラは手で塞いで問う。
「いつ、こっちへ?」
「昨日の夜、仮配属になった」
「連絡くらいしなさいよ」
「びっくりさせたかった」
そう言って、シルヴィオはライラをきつく抱きしめた。
「……苦し」
「ごめん」
シルヴィオが少しだけライラを抱く力を緩めた。
ライラはこの感情の名前がやっとわかった。シルヴィオとの年の差を考えると決して抱いてはいけない感情だと、今まで自分の心に言い聞かせてきた。自分は保護者で姉がわりだとずっと自分を抑えていた。
でもそんな理性を吹っ飛ばすほどの勢いで、最初からシルヴィオに惹かれていたのだとライラは気づいた。
私は姉としてではなく、一人の女としてシルヴィオが好きなんだ。
こうして再び抱きしめられて、今まで留めていた感情が涙と共に堰を切ったように溢れてくる。
ライラもシルヴィオの背に腕を回して抱き返した。
「おかえり。……待ってたよ。約束──ちゃんと覚えてる」