12.名づけられない感情
寂しくても悲しくても、泣き暮らしてはいけない。日々食べて寝てそして仕事に向き合う。シルヴィオがいつ帰ってきてもいいように笑顔でいようとライラは決めた。
ここはリンショウ王国で一番評判のいいオズボーン動物病院だ。手抜きはできないし、手抜きをしたいとも思わない。仕事は自分の能力の七十パーセントくらいに留めて余裕を持たせる、という考え方もある。でも命に向き合う現場はいつだって全力だ。
今日も忙しい日々が始まる。
「はい、次はリンパルさん。『ココア』ちゃん〜。診察台へどうぞ。今週はまたどうしましたか?」
ライラは二十三歳、白衣姿も板についてきてた。獣医としてはまだまだだが、『新米』とは言われなくなったし、飼い主たちにもそれなりに頼りにされていると自負しているライラだ。
ココアちゃんの飼い主のクルト・リンパルが、ライラに熱い視線を送っているが、ライラはココアちゃんの診察に集中していてそれに気づかない。リンパルは思い切ってライラに話しかける。
「あの、この近くに新しいカフェがオープンしたんです。今度一緒にどうですか?」
「あら、お誘いありがとうございます。でも飼い主さんとプライベートで会うのはNGなので、ごめんなさいね」
「内緒で──じゃダメですか?」
「お気持ちだけ感謝します。ココアちゃん、特に異常はないですね〜」
「あ、でも時々、耳をかくんですが」
「時々かくようでしたら心配はいらないですよ。ただ耳を床に擦り付けたりして頻繁に耳をかくようでしたら──」
「あ、頻繁にかくんです」
「リンパルさん、どっちですか? ココアちゃんのお耳はとても綺麗ですが、耳ダニ予防薬をお出ししておきましょうか?」
「じゃぁ、一応お願いします」
「お耳のお掃除、今まで通りちゃんとしてあげてくださいね」
「はい。ありがとうございます。ではまた」
次の患畜を呼ぶ前に、ついていた獣看護師がライラにそっと耳打ちした。
「リンパルさん、また来てるし。ライラ狙い、まだ諦めないのかしらね」
「う〜ん。でもココアちゃんの健康診断になってるから、それはそれでいいのかも。幸いココアちゃんは健康だし」
そういう飼い主がちらほらといるが、定期的な健康診断は動物にとっては必要だ。悪いことではない。
今日も院長であるアレクサンデル・オズボーンは不在だ。ちょっと心細いが、それを表に出さないように気をつけながらライラは獣看護師に問うた。
「院長、いつ帰ってくるのかしら?」
「さぁ。皇帝の馬の調子が良くなるまで、皇居の厩舎暮らしじゃない?」
「そっか……」
皇居には専用の厩舎係がいるはずだけど、院長が出向くほど重症なのかしら。院長からは何も連絡ないけど。
夕方が来るのはあっという間だ。
診療を終えて、ライラは誰もいない一人暮らしの自宅に帰宅する。すると寂しさがたちまち襲って来る。ホームシックとは違う寂しさだ。
シルヴィオと会えなくなって一年半が経とうとしている。
ライラは枕の下から、一通の手紙を取り出した。数ヶ月前の日付のシルヴィオからの手紙を、愛おしそおうに抱きしめる。
シルヴィオが軍にいたときはそれはそれで心配だったけど、こうして音信不通になってしまうと不安になる。
信じて待つ事の難しさをライラは改めて味わっていた。
シルヴィオ、どこにいるの? いつ帰って来てくれるの?
ライラは、窓から月を見上げる。ひっそりと光を反射する月は、涙で滲んでぼやけて見えた。
動物は好きだから、動物を飼おうと思ったこともあった。でもそれはなんか違うと思った。
私が愛でたいのはシルヴィオで──他の子たちとは違う。あの子は私のなんなのだろう。弟のような相棒のような……旅をしていたときはまさしくそうだったけれど、今抱いている感情はそれとは似ているようで似てない感情だった。
思い出は美化されやすいから、だから今こんな妙な感情を抱いているのかもしれない。
自分の心なのに、今抱いている感情になんという名をつければいいのか、ライラは考えあぐねた。
ライラは一人で夕食をとる。
今日こそ帰って来るかもしれない。今夜こそ帰って来るかもしれない。
そんな期待はこの数ヶ月間裏切られ続けた。
ライラはため息をひとつついて、食器を片付けた。
そして大事な手紙をまた、枕の下へしまう。
枕の下に会いたい人からの手紙を挟むとその人の夢が見られるっていう、子供じみたおまじないをここ数ヶ月ライラは実践している。でも所詮おまじない。シルヴィオの夢を見たことはない。
それとも、見ているけど忘れてしまっているのか……。
ライラは枕をぽすっと叩いた。
夢でも会えるのなら、会っているのなら、忘れたくないな。




