大丈夫?
話し声が聞こえた。
(ああ、この声は……)
いくつかの名前が浮かんでくる。
……、
……、
……、
思い出そうとすればたしかにそこにあるはずなのに、いざその名を頭の中でなぞろうとすると、するりと消えてしまう。浮かんだはずのその名前は、具体的に思い出す前に消えた。
変だなとは思うものの、それほどの焦りはなかった。
おそらく、耳に届いている声が、今思い出した誰のものでもないから。
(落ち着いて、後から考えれば大丈夫)
みんなの名前、一緒に過ごした時間のことを、思い出せるはず。
「……初等科なら、寮生だよね。アーネスティーナに心当たりを聞いてみようか。午後に会う約束がある」
「属性不明とくれば、魔法都市出身だろうし、『学院』まで通いの可能性もあるよな」
「そうか、有り得る。しかし、よりにもよって属性からとは。先生たちが投げ出したというのはよほどだよね。どうしてまた、ダリウスに」
「聞くな。師匠からの名指しだ。暇に見えたかな。それとも、この優秀な俺を野放しにしておいたら、早晩大成して先生方の地位を脅かすと危ぶんだんだろうか。やれやれだ」
(二人いる。男の人だ)
出て来る名前や単語に思い当たるものがない。何の話をしているのだろう。
起きて直接聞いてしまった方が良いとは思うのだが、身体がおそろしく重くてうまく動かせない。手足に意識を向けても、異常な圧迫感に負ける。瞼も。まるで自分のものではない身体に閉じ込められたようだ。耳だけが音を拾う。
「しかし、起きないな」
(起きてる)
「頭を打つとね。魔導士は多少身体は頑丈に出来ているけど、咄嗟に魔力を防御にまわすだけだから」
「魔力……」
短い呟きとともに、会話が途絶える。
(起きてる。気付いて)
瞼に意識を集中する。わずかに眉が動いた気がした。声が。声を出せれば。
「……………………っ」
思い描いた倍以上の時間をかけて、なんとか唇を動かす。
「ん? 何か言ったか!?」
近くで大きな声がした。
(良かった。気付いた──)
外界とつながったことに安堵した瞬間、身体にかかっていた圧迫が嘘のように消えた。
手足が自分のものとしてなじみ、呼吸が楽になる。
すぅっと息を吸い込むと、目が自然に開いた。
* * *
色を失った石膏のような顔に、青い光が一筋。
息を詰めて見守っていると、瞼がゆっくりと上がる。
夢見るような柔らかい光を湛えた青い瞳。寝台の横に椅子を置き、座って見下ろしていたダリウスは吐息して、なるべく落ち着いて聞こえるように声を低めた。
「サレム、大丈夫か」
「サレム……?」
形の良い小さな唇から呟きをもらし、緩慢な仕草で顔を横に向けてくる。寝起きのせいか、まだ意識が戻り切らないような頼りない目で見つめられて、ダリウスは心臓が跳ねるのを感じた。
──『土』のダリウス。あなたは……
──まるでその日を望んでいるかのような物言いだ
――終わりを望んでいるのか?
(そういうわけじゃない)
──……その言葉、嘘ではないな?
斬りつけるような鋭利な言葉を使う、まなざしの厳しい人物。
サレムの中にいる、サレム以外の誰か。
(どっちだ? 最初に会った方か、後から出てきた方なのか)
「ここは」
「俺の部屋だ。爆風に飛ばされて、頭を打った恐れがあり、ひとまず近場に運んだ」
話を、聞いている様子は一応ある。
しかし、不思議そうな顔で見つめられて不安になる。
「覚えているか?」
「……誰?」
ぽつりと、問われてダリウスは片目を細めた。
「混乱しているのかも」
少し距離をあけて立っていたエリファスが、控えめな声で言う。
「どこから覚えている? いや、覚えていない? ここは俺の部屋で、早朝の待ち合わせをすっぽかされたと思ったサレムが自分でここまで来た。そこは大丈夫か?」
「サレム……」
「うん?」
「サレムというのは」
「それはさすがに。自分の名前だぞ」
「自分の名前──」
まるで心ここにあらずの調子で繰り返し。
ふと思い出したように、掛け布を指で軽く摘まんでおさえて、ゆっくりと上半身を起こす。華奢な肩に、癖のないプラチナの髪がするりと流れた。
「わたしは、サレム……? ここはあなたの部屋。あなたは……」
青い瞳がダリウスに向けられる。
互いの視線が絡む。
「ダリウスだ。『属性不明』の件で指導を引き受けた、研究科の」
「ごめんなさい。あなたが真面目に話しているのは、わかるんです。でも、何を言っているのかがわからない……」
声の調子は、かなりはっきりしてきた。
しかし、依然として何か大きな欠落があるようで、埋められないことに本人も微かに焦りを覚え始めているように見える。
「一時的に記憶に混乱が出ているみたいだね。身体が大丈夫そうなら、一度エルネスト先生のところに行ってみたら?」
やりとりを静かに見守っていたエリファスが口を挟む。
「師匠経由の依頼だからな。身体の方はどうだ、どこか痛むか? 立てそうか?」
ダリウスが声をかけると、サレムはわずかに身体をひねり、寝台から足をおろそうとした。
その姿勢のまま、いきなりぐらりと倒れかける。
ダリウスは咄嗟に椅子から腰を浮かして腕を伸ばし、身体を受け止めた。
「ごめんなさい。なんかまだ、うまく動けないみたい」
「わかった。無理しないで寝てろ」
柔らかさと脆さが同時に腕に伝わってきて、ダリウスはそこに意識を向けまいと自分に言い聞かせる。
「寮や身元のこと、師匠に聞いてくるから、ここでこのまま待てばいい。エリファスはもう少し時間あるか」
「無いことも無いけど、一応ここは『土』の領域だからね。『炎』の僕より、ダリウスが残った方が良いんじゃないか。先生への問い合わせなら、僕が行っても問題ないね?」
「それもそうか……。悪いな」
二人が話す間、サレムはまるで人形のようにダリウスの腕におさまっていた。
その様子に、エリファスは気づかわしげな視線を投げてくる。
「お大事に。僕は『炎』のエリファス。ダリウスと一緒に『学院』を卒業して研究科に入ったばかりです」
口調は穏やかで、人当たりの良い笑顔ともあいまって、見る者を安心させるような誠実さに満ちている。
しかし、そちらに顔を向けたサレムはわずかに目を瞠った。
首を傾げ、窺うようにエリファスを見る。
「何か」
「え?」
「……すいません。何か聞こえて。何かわからないんですけど」
要領を得ないことを言い、俯いてしまう。
(何か、「聞こえ」て?)
その言葉にひっかかりを覚えつつ、ダリウスはサレムの身体を寝台の上へと戻し、腕を放す。
身を離そうとしたその瞬間、予想外の速さでサレムに腕を掴まれた。
「どうした?」
「何か聞こえて……。ごめんなさい」
自分でも、自分の行動に驚いたように手をひき、掛け布を掴むとぎゅっと握りしめる。
「何かって、何が?」
「よくわかりません。話し声のような。ここにはわたしたちしかいないのに。もっと別の何かが」
サレムは意識を失う前に「何か聞こえる」そぶりがあった。ダリウスからはそれが「聞こえない」とも言っていた。何か関連があるのだろうか。
(あの時のサレムは、それが何かわかっているようだったけど。今のサレムは……、聞こえているけど、何が聞こえているのか、自分でわかっていない?)
「ダリウス」
名を呼ばれて顔を向けると、もの言いたげなエリファスと目が合った。ダリウスはすぐに了解して歩み寄る。
エリファスは声をひそめて、すばやく言った。
「気を付けて見ていた方が良い」
「そのつもりだ」
「一応言っておく。彼女、あの容姿だ。あんな状態で一人で歩かせたら危ない。意味はわかるな」
ダリウスは無言で頷いた。
ただでさえ、人目をひくのだ。興味本位で声をかける者もいるかもしれない。そのときに、ああも頼りない反応をされては、良からぬ思いを抱かれても不思議はない。
知り合いというほどの仲でもないのだが、一応の事情を知る以上、信頼できる相手に託せるまでは周囲に目を光らせて守るしかないだろう。
「エルネスト先生とはすぐにお会いできないかもしれないし、何人かに声をかけておく。場合によっては、二、三日見ておいた方がいいかもしれない。食事のこともあるだろう」
「助かる」
てきぱきとした口調で言われて、ダリウスは素直に感謝を示した。
サレムの指導を依頼してきた、ダリウスの師匠である『土』のエルネストに事情を話して指示を仰ぐのが一番かとは思うのだが、魔導士というのはいつも決まった場所にいるとは限らず、探しているときに限ってなぜかとても会いづらかったりする。ましてエリファスは直接の師弟関係にない『炎』であり、エルネスト探しに慣れておらず、なかなか見つけられないおそれがあるのだ。
話が済むと、エリファスはすぐに行動開始とばかりにドアへと向かう。
ノブに手をかけ、ドアを開く寸前にふと、振り返って言った。
「ダリウスは大丈夫だよね?」
サレムに変な気は起こさないね? という確認である。
「いらない心配だ」
呆れたように請け負うと、エリファスは抜群の爽やかな笑みを浮かべてみせてから、出て行った。
サレムに目を向けると、ぼんやりとした表情で見返してきた。
「わたしは……、どうすれば……」
空恐ろしいまでに無防備で、ダリウスはエリファスの危惧の確かさを思わずにはいられない。
「何も思い出せないなら、寝ていればいい。寝て起きたら、案外いろいろ思い出しているんじゃないか」
「本当ですか」
「いや、適当言った。ああ、お腹が空いているならパンがある。お茶もいれる。いずれにしろここにサレムのするべきことはないから、そこで寝ていていい」
早口で言い募り、サレムから距離を取るように無闇に部屋を歩き回ってしまった。
視線を感じる。
思い切ってそちらを見ると、あどけなさを残したような顔でふんわりと微笑み返された。
(やばいな)
見てしまったことを後悔しつつ、ダリウスは部屋の隅のカップボードに向かい、乾燥茶葉を詰めた瓶をいくつも取り出して並べる。
お茶を選ぶふりをしながら、心の中で強く念じていた。
(エリファス、早く戻って来い。俺が大丈夫じゃなくなったらどうする)
自分は大丈夫だと請け負った以上、大丈夫でなければならないのだ。
あんな笑顔にいちいち動揺してはいけない、と強く強く思いながら。
このときはまだ、ダリウスは知らなかった。
せいぜい一両日程度の、一時預かりに過ぎないと信じていた彼女が、それからしばらく自分の部屋に留まることになるということ。
これが、彼女との波乱含みの「共同生活」の幕開けであることを。




