空の裂け目
お師匠様。
耳をくすぐるような甘い声で言われて、ダリウスはつい真顔になってしまった。真顔ついでに口がすべった。
「あざとい」
「あざとい?」
ダリウスは一歩後退して、サレムから距離を置く。
「悪い、今のは口がすべった。顔が可愛いのも、声が可愛いのも本人のせいではない。しかし俺は指導を引き受けた覚えはあるが、弟子をとった覚えはない。持ち上げるつもりなら、やめろ。俺のことは、お師匠様ではなく、名前で呼べばいい」
お師匠様と言われて、少し心が動いてしまった自分をごまかすように、ぶっきらぼうに言う。
(俺、いきなり嫌な奴だな)
ここまできつく言わなくても良かったなと後悔を噛み締めたそのとき、ふわりと空気が揺らいだ。
サレムが、再び距離を詰めて胸元に飛び込んできた。
「……おいっ。こら」
あろうことか、何かを聞こうとするかのように胸に頬を寄せ、ぴたりと耳をあてられる。
「サレム」
「黙って」
逃げようとしたら、細い腕を一本背にまわされた。
(なんだこの姿勢は)
抱き寄せられている。
「……変だな。聞こえない」
サレムは胸元で、小さな声で呟いていた。
「聞こえないって、何が? 心臓は動いているだろ? それとも気づいていないだけで、俺はもう死んでいるのか?」
ぎくしゃくして、緊張しながらダリウスが言うと、サレムはもう一本の腕も回してダリウスを逃がさないとばかりに強く抱きしめた。ダリウスはもはや下を見ることもできずに前を見たまま棒立ちで固まっていた。
ものすごく華奢に見えていたけど、女子の身体はきちんと柔らかいんだな、なんて考えたらもう何かダメだった。
「うん。やっぱり。こんなに近くにいるのに聞こえない。あなたの行動が見えないわけだ」
サレムは自分にだけわかる呟きをもらすと、ようやく腕を放して身体をひき、顔を上げた。
鋭い視線を肌に感じた。
ぞっとするほど澄んだ碧玉のような瞳が、射抜くようにダリウスを見ていた。
「『土』のダリウス。あなたは……」
視線と口調に、違和感。
先程のサレムという少女とは違う。
老成しつつも衰えを感じさせない、何か異種の気配がそこにある。
その時、どこか遠くで烈しい物音がした。音はとても大きい。
二人の視線が同時にほどかれて、ドアの方へと向けられる。
「爆発音……?」
ダリウスが呟くのと、サレムが駆けだすのが同時だった。
一拍遅れて、ダリウスは埃っぽい小卓に持っていた本を置き、サレムの背を追う。
「行くな!!」
渾身の声掛けに、ドアノブに手をかけたサレムが驚いたように振り返った。
ダリウスは駆け寄って、見下ろしながら早口に告げる。
「何があるかわからないだろ! 俺が行くから、ここで」
待ってろ、と言おうとした。
「何があるかわからないから、行く!」
見上げてきたサレムに一喝された。
その勢いで、サレムはドアを開けて廊下に飛び出していく。
(属性なしで、魔法も使えないチビに何ができるって)
サレムは、まるで音の発生源がどこか把握しているかのように、迷いのない足取りで走り出した。
「学院」の生徒は敷地外の寮に住んでいる者が大半だが、研究科になり、実験棟に部屋を得たダリウスはそこで寝起きするのが習慣になっていた。
ゆえにここは実験棟である。どこで何をしているかわからない。
本来、下級生がふらっと足を踏み入れて良い場所ではない。危険なのだ。
それなのに、どれほどの野次馬根性がそうさせるのか、サレムは廊下を走り、階段を駆け下り、どこかへ一目散に向かっている。
(耳が良いのか?)
あの一度の爆発音で、場所を察知したというのか。
一応、そういう解釈は成り立つ。
とすればその直前、ダリウスに見せた振舞いも、多少は理解できる。
ダリウスの、何かを聞こうとした。しかし、聞こえなかった。
(何が聞こえなかったって?)
ダリウスはもはやサレムの動きを邪魔しないよう、ぶつかったり足を踏みつけないように気を付けつつ追いかけていた。
サレムが目指していたのは表玄関だった。
数人の魔導士をかき分けて飛び出して行く。
何人かが空を見上げていた。
空には────亀裂が入っていた。
「これはまた、見事な」
ダリウスは両腕を開いて、感嘆の呟きを漏らす。
すぐに、きつい目をしたサレムに睨まれた。
「のんきだな」
「空だからな。手の出しようもない」
口笛でも吹きたい気分になりつつ、最近耳にした噂話がふと口をついて出てしまった。
「魔法都市エレミアの最後の日が近づいているっていうあれ、あながち嘘じゃないのかもな」
「まるでその日を望んでいるかのような物言いだ」
集まってざわつく数人の魔導士が、空を見がてらダリウスとサレムにも視線をくれる。
その視線が、止まる。
(サレムの容姿は目立ちすぎるな。昨日今日「学院」に来たわけでもないだろうに、これまで噂にもならなかったのが不思議なくらいだ)
サレム本人は周囲を気にした様子もなく、ダリウスを睨みながら一歩足を踏み出した。
「終わりを望んでいるのか?」
「そういうわけじゃない」
妙だな、とダリウスは違和感を覚えた。
(サレムと、話している気がしない。誰だこれは)
堂に入った話ぶりと存在感が、最初の小動物めいた彼女の印象と重ならない。
まるで彼女の中に、別人が入り込んだような変貌ぶりだ。
「……その言葉、嘘ではないな?」
念押しをされて、疑念が確信にすり替わる。
サレムの中に、誰かがいる。
胸に湧いた言葉を、まさに口にしようとした。お前は誰だ、と。
そのとき、再びの爆発音とともに、いきなり真横の空間が裂けた。
すさまじい爆風が吹き抜け、サレムの小柄な身体が吹き飛ぶのが見えた。手を伸ばしたが、指と指がかすっただけで掴めなかった。
「サレム!!」
ダリウスの身体もまた浮いて、研究棟の壁に打ち付けられた。咄嗟に身をかばうくらいのことはした。それでも、凄まじい痛みに全身が軋んだ。
サレムはそのすぐそばに落ちた。
帽子が飛んで、長い髪が広がる。
「おい、大丈夫か。頭打ったか!?」
すぐに抱き起こすが、目は閉ざされていて、返事もない。
揺さぶろうとした一瞬、青い光が差した。うっすらとだけ目が開いていた。唇が何かを呟いたが、聞き取れない。
「何、なんだって!?」
聞き返すも、サレムは再び目を閉ざしてしまった。何度か名前を呼んだが、もう起きる気配はない。ダリウスはサレムを抱えたまま、自分の痛みも忘れて少しの間呆然としてしまった。
そこに、影が落ちた。
「ダリウス、無事か? その子は?」
緋色のローブがふわりと地面に広がる。
「ああ、エリファス。頭を打ったかもしれない。意識がない」
赤毛に水色の瞳で、端正な容貌の青年はちらりとサレムに視線を滑らせてからダリウスを見た。
「あまり動かさない方がいいだろう。知り合いか?」
「知り合いといえば知り合いだな」
「わかった。では一度、ダリウスの部屋に運ぼう。どうせ他にも怪我人が出ている。見える怪我がないなら、救護所に運ぶよりも自分で見ていた方が良い」
否やという余地もない速やかな判断に、ダリウスは力なく頷く。サレムの華奢な身体を抱きかかえたまま、そっと立ち上がった。
「……だから、首を突っ込むのは危ないと」
今さら言っても仕方がないとはいえ、止められなかった後悔に胸が染まる。眠るように目を閉ざしてしまった顔を見ると、もはや痛恨の極みとしか言いようがない。
周りを見回すと、あの空間のひずみや空の裂け目は跡形もなく消えており、ただ爆風によって飛ばされた魔導士がそこかしこで身体を起こしたり、話し合っている様子が確認できた。
「これは彼女のもの?」
近くに落ちていた帽子を、エリファスが拾い上げる。
「そうだ。悪いな。お前はどこかへ行くところだったのか?」
エリファスは帽子を静かにサレムの身体の上に置き、生気のない美貌に目を止めた。ややしてから、はっと我に返ったようにダリウスに視線をくれる。
「別に。ダリウスの姿が見えたから、一緒に朝食でもと思っていた。まだだったか?」
「あー……そうなんだけど」
朝食前に、サレムと待ち合わせていたが寝過ごしていて、予定がずれこんだところでこれだった。
ダリウスが言い淀んだ事情を汲んだように、エリファスは鷹揚に頷いて言った。
「では、何か食べるものを持ってこよう。ダリウスは部屋でその子についていた方が良い」
「助かる。事情は後で説明する」
そこでエリファスとは一度別れて、サレムを抱きかかえたまま実験棟に引き返す。
視線を落とすも、目は閉ざされたまま。精緻な技巧を凝らされたような色白の顔に青い光が戻ることはない。見ていると、苦いものがこみ上げてくる。
このまま目を覚まさまないということはないと思うが、打ちどころによっては……。
補習の話もまだしていないし、あの奇妙に老成した言動も気にかかっている。
つくづく、ほんの一瞬の出来事が悔やまれて仕方ない。
(あのとき、俺の指は、もう少しで届いたんだ)
考えても仕方がないと打ち切って、なるべくゆすらないようにと慎重に足を運びつつ、部屋への道を引き返した。




