第五話 Better the devil you know than the devil you don't.(2)
放課後になって、あたしは文芸部の部室へとやってきた。古びた鉄製の扉にノックをして――返事がない。
「失礼します」
声をかけて、ドアを開ける。
一人の女生徒が、机の上に突っ伏していた。
金色の髪が、窓から射してくる西日で、きらきらと輝いている。あどけない容姿で、中学一生くらい……? でも、胸元のリボンは、赤。あたしと同じく、一年生だった。
綺麗な子だ。
天使のようなとか、妖精のようなとか、そういった有り触れた形容詞が似合う。
小さな唇から、規則正しい寝息が聞こえてくる。
部室は、その子だけしかいなかった。人を呼び出しておいて……とため息を吐く。鳥居にも参拝したいし、あと三十分で来なかったら、マジで帰ってやろうと思った。
部室はわりと広い。一教室分を、まるまる使っている。ずらりと並ぶ本棚に、明治から昭和までの文豪の書籍がずらりと並んでいる。中央にオフィス机が囲むように四つ。その一つにパソコンが置かれてある。そこに、机で突っ伏してる子が寝ている。
噂通りなのかなあ。とあたしはその子を見て思う。
この文芸部は、ひるね部と呼ばれてる。
理由は、部員がよく昼寝しているからという真っ当すぎる理由だった。いつ来ても眠っている人が居ると聞いていたのだけど……マジで寝てるとは。
そのひるね部については、あの後、仲の良いクラスメートが話してくれた。
『藤堂様が居られるところです』
あの眼帯をしている先輩は、この学校では有名な人らしい。県内屈指の名家の生まれであることもさながら、その容姿、性格、器量、どれもずば抜けていると嬉々としてその子は話してた。
『眼帯をしているけれど、そこが格好いいじゃない?』
眼帯をしてたら格好いい? とそこは疑問に思ったけれど。
そういうこともあって、元々有名な人だったのだけど。彼女の人気を確固たるものにしたのは、去年の生徒会長選挙だった。
『生徒会長の井上様、知ってるでしょう?』
知ってる――っていうか、たぶん、この学校で知らない人はいないだろう。生徒会長だから、というだけでない。入学式の生徒会長挨拶で、彼女は松葉杖をついて壇上に立っていた。
井上雅美先輩は、二年前に交通事故で、右脚が動かなくなった。以来、彼女は車椅子か、松葉杖をつく生活を余儀なくされた。
そんな彼女は、生徒会長に立候補する。
当然のことながら、周囲は反対したし、そもそも仕事ができるのかという疑問が相次いだ。
それをサポートしたのが藤堂志乃花。彼女は片足が動かなくても、生徒会長の仕事には全く問題はないと主張したのである。
その甲斐あって、井上先輩は生徒会長に当選することが出来た。
疑問なのは、そんな人がいるクラブが、廃部の危機になっていることだ。
『藤堂様ファンクラブというのがあって、その人たちがむやみに近づかないようにしているってのもあるし、恐れ多いし』
しかし、それであたしに勧誘してきたのは、どういうことなんだろう?
「ん……?」
寝ていた子が、のそりと起き上がる。目の色は、青。その両目が、あたしを射抜く。
「おはようございます」
ぺこりとその子に挨拶された。
「……おはようございます。もう、夕方ですけど」
一応、返しておく。あたしを見ていた彼女は、小首を傾げる。
「小日向陽菜? なんでここに?」
あたしのこと、知ってる? 初対面だよね?
「篠原先輩に呼ばれたのですけど。あの、初めて、お会いしますよね?」
聞いてみる。
「……ああ、うん」
同学年の少女は、頭を下げてきた。
「わたし、村雨歩美。よろしく」
歩美……篠原先輩が言ってたけど、この子があのラブレターを書いた人か。てか、聞きたいのは、別にあるんだけど。
「小日向陽菜、です。あたしのこと、ご存じなのですか?」
「……」
ふわ、と欠伸をする村雨さん。目の前のパソコンを操作して、アニメを視聴し始める。おいおい。学校内で、そんなことしていいのか。つか、無視?
「座っても良いよ? お菓子食べる?」
困惑してるあたしを見ずに、彼女は抑揚のない声で寛いでも良いと言ってきた。
……こんな所、金輪際来ないのだ。細かいことを気にしてもしょうがない。
お菓子は丁重にお断りして、あたしは彼女の対面に座る。
「……」
「……」
「……何しに来たの?」
何しにって、さっき話したじゃないか。
「篠原先輩に呼ばれて、ここに来ました」
「そういうことじゃなくて」
どういうことさ。と、あたしが尋ねようとしたその時。
「え?」
世界から音が消える。
放課後の雑然とした音、すぐそこにあるグラウンドのかけ声や、先ほどまで発声練習していた演劇部の声、吹奏楽部の音。それら全てが、一斉に。ぷつん、と掻き消えた。
村雨さんの方を見ると、そこには誰もいない。パソコンも電源を切られてる。
割と広い教室の中で、あたしは一人になっていた……なんでさ。
「どっかに隠れてるの?」
村雨さんを探してみるも、どこにもいない。机の下にでも隠れているのかもと思って椅子を引いてみても、いない。
優等生を装った生活の末に、頭がどうにかしたんじゃないのか? と割と本気で思い始めてきたその時。
ドン!
鉄製のドアが、音を立てた。もう一度、ドン! と強い音。
「な、だ、誰!」
あたしが声を出すと、ドアが軋んで、ばあん、とはじけ飛んだ。出てきたのは、あの真っ黒な蛇。氾濫した川のように、部屋の中に入り込んでくる。
背を向けて逃げ出すけど、気付いてしまった。ここは三階で、出入り口は、黒い蛇が今も入り込んでいく扉だけ。つまり、完全に追い込まれてしまっていた。
窓を開ける。地面が遠い。ここが夢なら――ごくりと喉を鳴らした。そんな勇気はなかった。
「痛ぅ!」
足首に痛みが走った。すでに黒い蛇たちはあたしの体にまとわりついていて、肉を啄みはじめていた。皮をむかれていく。
あたしは、悲鳴を上げるのみだった。立っていられなくて、座り込んでしまった。視界が、黒一色に染まっていく。
「退きなさい、ケガレよ」
その言葉とともに、視界が開けた。黒い蛇たちがあたしから離れていく。
なんなのよ、もう。あたしは、目の前に立つ歩美を見上げた。
一体、いつからそこに立っていたのか――煌々と輝く右目に、目を奪われる。
「平気?」
尋ねてきた彼女のその手には、櫛があった。その歯を手でぽきぽき折って、あたしの周りに投げつける。
不思議なことに、その櫛の歯から逃れるように、ケガレたちは下がっていった。
あたしへと歩み寄り、眉根を寄せた。彼女は屈んで、その手をあたしの足へと近づける。そうして、なにか聞き取れない言葉を発する。と、金色の光が溢れ、みるみるうちに、啄まれた足が治っていく。
「村、雨さん?」
「ごめん。眠ったばかりだから、遅れた」
なんだこれ――
夢? 本当に夢なの? そうだとしたら、こんなにリアルなのは違和感がある。そもそも、なんで村雨さんがあたしの夢に? 訳がわからない!
混乱して、困惑する。
「どういうことなのよ、村雨さん」
目が覚めた。あたしは、机に突っ伏して眠っていたらしい……向かいには、村雨さんがいて、寝息を立てていた。
窓から西日が射している。
「――夢?」
違う。右の手の甲にあった傷が、きれいさっぱり無くなっているのだ。さっきまであったのに。
心臓が、忙しなく動いている。
部室の扉が開いたのは、その時のことだった。
「遅くなって悪かったわ……どうしたの?」
異様な空気に、篠原先輩が尋ねた。