沈む心
台所から奏でられるリズミカルな音が、鼓膜を刺激してシエルは目が覚めた。昨夜は気分の沈みが酷く、食事も取らずに寝ていた為、胃はその事を酷く主張している。
「何も出来なくても、お腹は空くのかぁ…」
ベッドの上で膝を抱えて、心の負の感情が渦巻いているのを、どうにかして収める。頭の中でああでもない、こうでもないと堂々巡りをしていた所、モナカが扉を開いた。
「シエル。今朝は食べられるかしら?スープにしてみたんだけど」
「…食べる」
手早く着替えて席に着き、用意されたスープを見つめた。中には人参、ジャガイモ、キャベツ、ウインナーが入ったポトフだった。朝には少し重いのではと思うが、スープ自体は薄目の味付けで、何も入っていなかった胃には優しかった。例え、具が食べられなくても、スープに染み出した野菜のエキスがしっかりと体に行き渡る。屋敷にいた時も、食事が喉を通らなかった時、モナカはポトフを作ってくれて、何日も同じものを強請ったりしたな。シエルにとって、モナカのポトフは元気の出る魔法の料理なのだ。
「モナカって、まだ初心者講習の講師やってるの?」
「辞めたわ」
さも当然と言わんばかりにモナカは答えた。
「あれならクエスト受注してる方が何倍もマシよ。人を安く使いすぎ」
「えぇ…」
「魔法剣士って成り手が少ないから重宝されるし、剣士の依頼雇用料が銅貨五十枚なら、魔法剣士は銀貨五十枚。銅貨百枚で銀貨一枚になるから目に見えて分かるでしょ。それを元にギルドクエストで高難易度のを受ければ、細々と生活すればどうとでもなるもの」
「ちなみに…講師のお給料って?」
恐る恐るシエルは伺った。相手の給金を聞くなどご法度ではあると躾けられてきたが、それはあくまで雇用者からの見解である。今は、どの職業がどれだけの相場で依頼を受けるべきか、自分で探るしかない。ギルドで掲示している相場と現実の相場が食い違ることなどザラだ。ギルドは剣士は一回の依頼につき銅貨五十枚が相場と言っていても、実際は銅貨十枚~二十枚。難しいクエストを受ければ配当金も増えるが、優しいクエストを狙っていけば、当然の結果でもある。そこから、所得税として一クエストにつき一律でひとり銅貨一枚徴収され、手元には僅かばかりの日銭。ギルドの簡易宿泊所からなかなか冒険者が減らない理由だ。宿屋に止まる為には、雑魚部屋でも銅貨三枚~七枚は必要になる。それに食事となれば…。
そして、ギルドから公式に依頼されるものをクエストと言い、冒険者間でそのクエストに合った冒険者を雇う事を依頼と区別されている。一人でクエストを受ければ、受け取り金額は全て自分のモノになるが、命の保証はない。だからこそ、冒険者同士の雇用依頼が成り立つのだ。魔物と戦った際、生き残る手段として。
そこまでの事を自力で学んだシエルにモナカは驚いた。夢は勇者だ等と宣っていた温室育ちが、現実を知ろうとしている。
「ひと月拘束で銀貨五十枚。そこから色々差っ引かれて、銀貨三十枚ってとこかしら。1人で細々暮らすには…まぁ出来なくはないけど、今はシエルもいるしね」
「すぐに職業を取ってきます!だから捨てないで!」
両手を合わせて拝むようにモナカに乞う。もう、あんな寂しく惨めな思いはしたくない。
「大丈夫よ。焦らずに職業をしっかり身に着けて、一人立ちしてくれれば。旦那様から貰った蓄えもまだあるし」
「そういえば…父さんは?」
あの屋敷爆発事件から父・ルフトに会ってはいない。商才もあるし、商人の職業までは取り上げられていない。元気にやっているとは思うが、やはり心配だ。モナカはそっと目を閉じて、静かに答える。
「今はご友人のお店で働いているわ。でも、今はまだ会ってはダメよ。これは旦那様からの言いつけだから、どこにいるかは教えられない」
なぜだ。と問い詰めたかったが、シエルはそれ以上は聞かなかった。もし、自分だったら、先日まで栄華を誇っていたのに、それが一瞬で奪われ、落ちぶれた姿を見せたいだろうか。
「元気ならいいんだ。あの時、何も考えずに飛び出しちゃったし」
「あの時は本当に焦ったわ」
「だから、ごめんって。でも、あの跡地。どうなっちゃったの?」
「今はもう王族専用の湯治施設になってるわ。まぁ…王様の粋な計らいで、一部を国民に自由に使えるよう開放してるみたいだけど」
そうなんだ…と、シエルは俯きながら返事をした。今でも忘れない。アリス卿の行った酷い行いを。いくらなんでも、あんなやり方があるだろうか。そこで、ふとシエルは疑問が色々と生じた。まず、モナカの腕を見た。
「ねぇ。モナカはもう腕大丈夫なの?」
「魔法薬学の医者にお願いしたから元の位置には戻ってるわ。左腕は利き手じゃないし、家事くらいなら問題ないわ。無理に使わなければ痛みもないわよ」
「そっか…あとさ。昨日、剣士の受講で元・王子様が来てたんだけど、うちに来たアリス卿は王妃様の第三王子が生まれたからお祝いの品をうちに運搬するよう頼んだんだよね?」
「そうね。あのくそムカつく貴族は絶対許さないわ」
モナカは普段、おくびにも出さないが嫌いになった人間にはトコトン言葉が汚くなる。冒険者として生きていく中で、女だからと舐められないようにした結果なのだろうが…。見た目が美人なのに勿体ない。
「その元・王子様って王位継承権第五位って言ってたんだけど、それっておかしくない?」
元・王子が五番目の権利をもっているとなると、その前に四人いることになる。それなのに、『第三王子が生まれた』というのはかなりおかしいのではないだろうか。その事について、モナカは答えた。
「王様には側室がいて…まぁ、愛人って言った方が分かり易いかな?その方たちが五人くらいいて、そのうちの一人が産んでるの。それが、王位継承権五位の元・王子様。で、王妃様はこの度三人目をご出産されていて、ここまでで四人。分かる?」
「王妃様が産んだ子供が優先的に権利が貰えるのは分かるけど、もう一人…どこにいるの?」
「いるでしょう?国民からも冒険者からも大人気の…」
「え?もしかして…」
シエルの狭い人間関係の知識の中で、国民からも冒険者からも人気者というのは一人しか思い浮かばなかった。
「現・勇者。シエル・クリミネル。罪の名を持つ悪徳勇者よ。私の大っ嫌いな人種」
「悪…徳?」
「本来、勇者は敵前逃亡したら死罪なの。だけど、あの勇者は情報を提供することで自分だけ免れた。国王は自分に何かあったら、その情報を元に勇者に国民を主導して欲しいと言った。けれど、貴族たちからの強い反対で王位継承権は第二位。あの男は、魔王城で得た知識と情報で優位に立っている。そして、有事の際には国王より強い権力を発揮するの。戦った経験があるから」
「それは当然のことじゃないの?人間、誰だって…そんな」
「もし、裏で魔王と繋がっていたら?人類の文明は滅ぶのよ」
「それは、疑いすぎだよ。いくらなんでも、そんな事考えてたら、なんの取柄もない俺に声なんて…っ!」
慌てて口を噤んだが、一度出た言葉は戻らない。何度も失敗してきて学んできたはずなのに。シエルはまたやってしまったとモナカを見た。想像通り、その眉間には何重にも皺が寄っていた。
「あのクソ勇者に会ったの?」
「勇者試験でたまたま一緒に…」
「まだ一般民としての職業しか得ていないのに、声を掛けてきた?」
地を這うような低音声にシエルは慎重に言葉を選ぶ。地雷に触れたら、そこで終わりだ。
「ちゃ…ちゃんと、初心者講習とか受けてからって約束して…。その後、モナカに会って、一緒に暮らす様になって、顔合わせるタイミングが…」
「あんた個人を見て声を掛けたんじゃないわ。シエル、あんたの中に流れてる母親の血を狙ってるのよ」
「…ドルイドの力のこと?」
「そこまで辿りつけてるのね」
「ギルド長さんが教えてくれた。母さんと知り合いだったって…」
「あんのクソギルド長…余計な事をペラペラと…」
モナカは左手の親指の爪をギリギリと噛む。シエルは、ドルイドとは自然を読む預言者・自然の力を借りる治療術・生贄による転生・蘇生術が扱える者の事であると聞いた。シエルは自分がその予言も術も使えない。本当にその力を受け継いでいるのだろうか。
「でも、俺…予言なんて出来ないし、回復魔法だって使えないよ?」
「いいえ。あんたは知っているわ。母親に記憶を封じられているだけ」
「なんで封じる必要があったの?そもそも、俺、五年前に死んでる事になってたんだよ?それと関係あるの?」
「…それは…」
突如口籠るモナカにシエルは形勢逆転を果たした。今、流れはシエルにある。しかし、モナカは唐突に話を切った。
「これ以上は旦那様に聞くべきよ。私は話を聞いただけだから、確かじゃない」
「だったら、父さんのいる場所を教えてよ!」
「この話は、また今度にして。私も今日は仕事があるの」
食べ終わった食器を片付け始め、モナカは手早く食器を洗った。
「モナカ!」
「薬草採取の護衛任務で遠くの森に行くの。二・三日留守にするわ。ポトフは多めに作ってあるから、それを温めて食べて頂戴」
「…分かったよ」
「探そうとしても無駄だからね」
シエルの考えは読めていて、モナカは釘を刺した。そして、シエルに疑問をひとつ。
「あんた、なんで剣士の部落第したの?ワンツーマンで基本的な剣術教えたわよね?」
「受講で使われた模擬刀が重くて振り回せなかった」
「片手で?両手で?」
「両手で」
「片手剣なのに?」
「片手剣なのに」
「それは確かに落第になるわね」
そんなシエルは本日、魔術師の講座を受ける予定である。