次を目指して
いつか見た光景がそこに広がっていた。群青の空の下に、大きな木が一本。その木の枝から紐が下りて板が括りつけてある。その板に腰を掛けて背を向けている女性がいた。シエルは足元の草を踏みしめながら、静かに近寄る。背を向けている女性は長く厚い純白のベールを身に着けており、時折吹く風にそれが靡くのだが、表情すら窺えなかった。
「また…会ったね。あなたは…誰なの?」
その声に反応してか、女性は振り返る。だが、顔にはベールで影がかかっている。口元だけは見えた。笑っているようにも感じる。
「あなたはいつまでもお寝坊さんね」
凛と通るその声にシエルは記憶を揺さぶられる。どこかで聞いたことのあるこの声を…忘れてはいけない、この声を。
「どこかで会った事…あるんだよね!だって、凄く懐かしい気持ちが溢れてくるんだ!」
「それはとっても嬉しいわ。でも、思い出さなくていい事なのよ」
「だったら、なんで俺の夢に出てくるの?」
「…私もまだまだ未熟なの。貴方に忘れられたくない…そんな感情が残っていたから」
「顔を見たら思い出せるかもしれない。だから、お願い」
「私と貴方が出会うのは、同じ時間に深い眠りにつく時。話がしたかったら、いつでもいらっしゃい。時間の許す限り、お話ならいくらでもしてあげる」
シエルは違うと言いたかった。自分がしてほしい事は、その顔を見る事。そのベールの奥にある表情を知りたい。それなのに、喉の奥が何かに絡みつかれていて、声が出ないのだ。この前は、周りが真っ暗になって起きたのだが、今回は違う。女性の後ろから黒い影が現れて、その影からいくつもの不気味な腕が伸びて、女性の腕や身体にしがみついていく。
「お呼び出しが来たみたい…。ごめんなさいね」
「待って!あなたは…まさか…!」
シエルは手を伸ばすが、不気味な腕に弾き飛ばされ、女性に触れることは叶わず、地面に叩きつけられた。急いで身を起こすも、そこには誰も何もいなかった。シエルは大地に根を張る名もない草たちを握りしめ、振り絞るように言葉を吐き出した。
※
「…母さん!」
「私はあなたのお母さんじゃないですよ~」
驚いて目を見開くと天井が飛び込んできて、視界の端にリルルがいた。どうやら、待ちくたびれて眠ってしまっていたらしい。シエルは居た堪れない気持ちになりながらも、愚鈍な動きで体を起こした。リルルはソファーの近くで膝をついて床に座ってる。
「えっと…記憶の消去…でしたっけ」
「試験内容については…。共に受験した方たちの記憶は残してあります」
「あ…ここから真面目な話が始まる感じですか」
間延びした声音から、緊張感の増した口調に切り替わり、シエルは察する。
「よく分かりましたね」
「外用の口調と全然違いますから…ちなみに、理由を聞いても?」
「こちらですと~、冒険者の方たちからウケもいいので~。仕事中も~部下たちも気を使わなくていいっていう~指標みたいで~効率が良いんですよ~」
「ありがとうございます。よくわかりました」
頬に手を当て、クネクネと動くリルルに、シエルは一気に疲れが押し寄せてきて、肩をがっくりと落とす。
「で、真面目な話ってなんですか」
「クリミネルの甘い誘惑には乗せられない様に」
「…え?」
そのタイミングを見計らったかのように部屋の扉が開け放たれ、勇者の防具を纏い、剣を腰にぶら下げたクリミネルが、手に布らしきものを持ってやって来た。その表情は受験していた時の傭兵の時のモノだった。
「おっ!シエル君、目が覚めたっすか?」
「勇者様、人目に触れる場所で…」
「大丈夫っす。ちゃ~んとやるっすよ」
シエルがきょとんとしていると、クリミネルは軽く説明してくれた。
ー勇者の品格・品性・教養を常に意識せよー
これが、勇者になる上で求められる規則事項なのだそうだ。そう言われたら、壇上でスピーチをしていた時も、勇者の風格というものがヒシヒシと伝わってきていた様に思う。それでも、勇者も人間なのだから、気の置ける相手には砕けた対応を取りたいもの。シエルは自分がその意識的位置にある思うと、少し嬉しかった。
「その手に持ってるのは?」
「これ、シエル君の着替え。ないって言ってたじゃないっすか」
そう言われれば、襟の周りから背中にかけて流血した箇所が大変な事になっていた。着替えをあげるよと言った、あの時の他愛のない会話の内容を覚えていてくれてたなんて…。
「クリミネルは本当に勇者なんだね」
「なんすか!それ!地味に傷つくっすよ!」
渡された服をみると、首元まで隠せる黒いインナーと、今身に着けている衣服によく似た緑の衣服があった。クリミネルの説明では、黒のインナーには前回のような奇襲を受けた際に、ダメージを若干抑えられるスキルが発動するらしい。本人が意識していない時にしか発動せず、発動したとしても打ち身青痣は場合によっては免れない。非常に扱いづらいとの説明も受けた。
「咄嗟に振り返って、あ!これ攻撃食らうわ!って、思っただけでも発動しないから、かなり限定的な防具っすけどね」
「ありがとう。でも、これ貴重品じゃ…」
「僕は使わないし、このまま荷物にしとくのも勿体ないっす。使ってくれる人がいるならその方が…」
どうしてそんな扱いづらいものを持っているのかと疑問に思い、シエルが聞くとクリミネルは少し肩を落とし、魔王軍討伐の遠征先で出会った女性から貰った物だとバツが悪そうに言う。送った本人からしたら、奇襲から守ってくれる便利防具なら!と思ったのだろうが、実際使う側からすると、発動条件が厳しすぎて使いこなせない。そういう詐欺のような商売が成り立っているのだから、世の中とは本当に世知辛い。
それでも、基礎値0のシエルからしたら、とんでもない防具を手に入れたも同然。試験の時に貰った短剣も含めれば、タダで最低限の武器防具が得られたのだ。路銀が全くないシエルからしたら、たまたま出くわした勇者から物を貰うなんて、棚ぼたでしかない。
そんな事を考えていたシエルだったが、クリミネルはリルルにこの部屋を出るように促した。リルルとしても、先程の発言からするにこの場を離れたくないと顔を顰めた。
「思春期真っ盛りの男の子が着替えるんすよ?それぐらい察して欲しいっすね」
「あ…」
リルルは席を外した方がいいのかとシエルに問いかけ、シエルは逡巡した後、「お願いします」と答えた。リルルとしては先程の事があったので、あまり乗り気ではないが「着替えだけならば…」と、後ろ髪を引かれる思いで、その部屋を出た。リルルが出たのを確認したクリミネルは、シエルの着替えを手伝うと買って出てくれた。血で固まった部分は布の柔らかさが死んでいて、確かに脱ぎにくい。
「ありがとう。クリミネル」
「まぁ…傷の具合も確認したかったし…気にする事ないっすよ」
確かに結構な怪我だったのだから、擦り傷切り傷打ち身捻挫。どれが残ってもおかしくなかったし、ベアウルフに立てられた肩の爪痕も少し気になっていた。怪我をして帰って来たとなったら、きっとモナカに怒られる。そんな心配からクリミネルに着替えを急かされても、大人しく従ってしまった。
「凄いっすね。痣のひとつもない」
「嘘だ~。あれだけのベアウルフにのしかかられたのに…」
「本当に傷一つないっすよ。綺麗なもんっすね」
それはそれでモナカに叱られる危険が減ったので良かったのだが、シエル自身も少し怖い。自分が気絶してる間に何があって、今こうして立っていられるのか。
「頭と腕、通せるっすか?」
「それくらいは出来るよ!」
いくらなんでもあんまりだと不満を漏らすシエル。それに笑うクリミネル。もし、自分に仲間がいたら、こんな風に他愛のない事を言い合えるのだろうか。そう思ったら、バラバラになってしまった家族を思い出し、シエルは鼻の奥がツンとした。
「シエル君。君が良ければ、僕とパーティ組まないっすか?」
「え?」
「勇者に憧れてる君なら、僕と一緒にいれば学べることもたくさんあるっすよ。悪い話じゃない」
「でも、俺…戦えない…」
「僕が剣の使い方も教えてあげるっす」
「魔法だって…」
「簡単な魔法なら僕にだって使えるっす」
「だけど…」
中途半端な装備に知識。これでは、最前線で戦う事を必要とされる勇者一行に加わるなど、到底出来ないだろう。
「クリミネルが良くても、パーティの人たちに反対されるよ。絶対」
シエルは眉間にしわを寄せて、泣くのを必死に堪える様に俯き、両手を握りしめた。その手はカタカタと震えている。剣も魔法も使えない冒険者など誰も相手にしないだろうと、何の経験もなく勇者試験に受かれさえすればどうにかなると思っていた自分の甘さに、ふつふつと怒りすら沸いてくる。勇者という職業を本の中の寝物語としか認識していなかった。そんなシエルにクリミネルは笑顔でこう言った。
「仲間なんていないっすよ」
「へ!?」
「魔王城に乗り込んだ時、魔王の姿を見て、皆逃げ出したっす。今日、試験に来たのだって、優秀な人材を引き抜くため…」
シエルの両手を掴み、シエルを下から覗きこむようにして、優しく呟いた。
「君なら誰をも恐れぬ、絶対的な強者になれる。僕と一緒に来てほしい」
「え…いやだって…でも…」
「君のその隠された力が解放されれば、人類は魔王に恐れることもなくなる」
なぜこんなにも絶賛されているのか分からないが、シエルとしても憧れの勇者と同伴出来るとあれば、好奇心の芽が芽生えてきてしまう。こんな自分にさえ、価値を見出してくれる勇者に求められれば、悪い気はしない。でも、シエルには気がかりなことがあった。
「俺…まだ初心者説明会…受けてない」
「……まじっすか」
「あと…冒険者講習も」
「あのエルフはまたやったんすか…」
その口振りから常習的に裏ルートで荒稼ぎをしているようで、ギルド長というのはそんなに給料の悪い肩書なのかと疑いたくなって来た。クリミネルは抱えていた頭を掻きむしり、妥協案を出す。
「じゃあ、初心者説明会と冒険者講習。それが終わった頃に迎えに来るっす。それまでに気持ちの整理、付けていてほしいっす」
「あ…うん。お願いします」
勇者ですら大事にしている初心者説明会と冒険者講習。果たして、それはどういうものなのか。シエルは、これから置かれる自分の状況に、ただならぬ悪寒を背筋に走らせた。