伊藤計劃「ハーモニー」の中心的思想について
伊藤計劃「ハーモニー」のラストは、人間が進化の帰結として、意識を消失するという風になっている。引用すると、次のようになっている。
「社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた」
個人の意識は消失し、人間は純粋な社会システムと完全に一致する事となった。こうした事は小説上の絵空事と思う人もいるかもしれないが、これは極めて現実的な問題であると思う。嫌な事を言うなら、そもそも社会システムと自己を一致させ、その事に何も疑わない人は、この問題の所在そのものを認めないだろう。何故なら、彼は既に「ハーモニー」を達成しているからだ。
伊藤計劃が「ハーモニー」に籠めた思想は、様々なものとつながって見える。例えば、哲学者のシオランだ。シオランは、進化論者と対話した時、学者に対して「人間の苦悩は理論の中にどう位置づけられるのか?」と質問した。すると、相手は「苦悩は理論の中では単なる偶発的なものにすぎない」と言った。シオランは怒り、それ以上の対談を拒否した。
以上の話はツイッターのbotで見たので、事実かどうかはっきりわからないが、非常に興味ある話だ。これは因果系列の問題として考えられる。
例えば、先日、サッカー日本代表はオーストラリア代表に勝利した。するとすぐに「何故日本代表はオーストラリアに勝利できたのか?」といった類の記事が現れる。「勝った」という結果から原因を探るゲームが始まる。
このゲームは行き過ぎると、人間の苦悩や意識を消失させる因果的理論が目の前に現れる事になる。オーストラリアに日本が何故勝てたのか? という問いはやがて、その原因を遅かれ早かれ発見する。すると、「原因→結果」という方向性の中で、選手や監督の迷い、不安、苦悩、努力などは消えてしまう。ある地点aが次の地点bを引き起こすのであり、その方向が必然的なものならば、その必然性の中で、その時々に現れた迷いや苦悩や自由は消失する。(苦悩は深く自由とつながっている)
因果系列を「a→b→c→d→…」と考えていくと、それは必然的なものであり、動かす事のできないものとなる。こうなると、理論としては完璧だが、自由は全くなくなるという事になる。
社会学の創始者はデュルケームだろうが、デュルケームは「自殺論」を書いている。デュルケームは「自殺」は社会的単位として分析できる事を発見した。しかし、自殺が「純粋に」社会的な所産であるならば、社会的対策を適切に施せば、自殺は完全に防げる事になる。その際、社会の関係の上で自殺に「追い立てられた」人間が、どのような内的意識、苦悩を抱えていたかという問題は取り残される。
僕はデュルケームが間違っているなどと主張するつもりはない。デュルケームは適切に問題を扱っていると考える。しかし、デュルケーム的なものをある一方に拡張すると、人間の中から、意識や苦悩の問題を取り除く事になり、「ハーモニー」が達成される。それとは逆に、個に焦点を当てすぎると、どんな集団自殺が起ころうと、「個人の踏ん張りが足りなかったからだ」という事になる。こういう見方もまだ根強い。鬱病の人間に、「根性が足りない」と言い続けるようなものだ。しかし、実際の所、鬱病が純粋に社会的所産であるならば、彼の病は社会から生み出される必然的事象となり、したがって、彼は自分の病と戦わなくて良い事になってしまう。そうなると、彼は救われるのだろうか。
今までを簡単に総括すると、確かに、人間は理論的な所産だと言える部分がある事がわかる。しかし、同時に、人間は意識や苦悩を通じて自由であろうとする存在だとも言える。
伊藤計劃は「ハーモニー」でこの問題をどのように取り扱ったか。答えから言うと、彼はこの問題を完全な形では解決できなかった。しかし、そもそも完全な形での解決が必要なのかどうかという問いの方が、この場合、答え以上に重大と感じる。
そもそも、伊藤計劃が小説という媒体にこだわったのは何故なのか。彼の小説では、大問題は常に小問題と結びついている。三人の少女の小さな物語が、大きな、世界という物語に対して抵抗しようとしている。ほんの些細な感情というものを、大きな問題と対比させつつ、物語を進行させている。
伊藤計劃がもし、小さな物語に、固執していなければ、彼は社会学者になればよかったはずだ。その素質もあっただろう。だが、小説というジャンルにこだわるのは彼にとって、彼自身の小さな肉体が絶えず、世界の中で一つの存在であるという以上に重要だとという確信があったからだ。そんな風に考える事もできるだろう。
大きな問題からすれば、個人のエモーションの部分はくだらないものにも見えるだろう。ある政治家がテレビで「俺達は日本の為に頑張っているのに、今の若者ときたら…」と愚痴っているのを見た事がある。高坂正堯を勉強していて痛感したが、政治とか社会とか経済とかの大きい問題とばかり組み合っていると、小さな、個人レベルの物語は馬鹿馬鹿しいものに見えてきてしまう。自国の領土を増やすとか、外交で得をするとか、そういう大きなゲームにずっと携わっていると、個人レベルの事は馬鹿馬鹿しい事に見えてくるだろう。
これは、作家が、デビューしていくらか立つと、政治的な講演とか言説を成して、真面目に小説を書くのが阿呆らしくなってくるのと同様の現象に見える。「日本のために」という大きい物語にはまりこんでいると、誰と誰が好きだとか嫌いだとか、そんな小さな話は馬鹿げたものに見えるだろう。僕は小説家というのは、「小さな説」になんとしてでも、頑強にしがみつく存在だと思っている。しかし、大雑把な物語にばかり関わっていると「いろんな事は工学的に処理できる」だとか「社会理論が世界を救う」という話になってくる。僕は、人間の希望は決して社会理論によっては救われない場所にあると感じている。
「ハーモニー」に戻ろう。「ハーモニー」では三人の少女という小さな物語は、世界全体の「ハーモニクス」という、大きな物語と直結したものとして語られている。このあたりは最近のセカイ系のアニメ・ゲームなどと共通するもので、その影響にあると言ってもよいが、それ以上に、伊藤計劃にはそれを描く事が必要だという根拠があった。
その根拠はつまり、大きな物語だけでは小説にならないからである。あるいは、小さな物語を欠いた、最後のエピローグだけでは、物語にならないからである。もっと言えば、そもそも現実とはそういうものではないという事になる。もし我々が苦悩を消し、意識を消し、自由を消す事によって、大きな存在と一致し、そこで幸福になったとしたら、それは何のための幸福かという問題が出てくる。言い換えれば、自由と幸福の二元対立が問題となる。
自己を捨てる事によって幸福になれるとして、それは果たして幸福なのかどうか。例え不幸になっても自由である方が良いのではないかというのは、古来から続いてきた、人間にとって本質的な問題に思える。
繰り返すが、「ハーモニー」という作品ではそれは解決されていない。むしろ、非解決に終わっているとさえ言えるだろう。女主人公はこう言う。
「たぶん、そうなのだろう。
異議は、ない。 」
女主人公はこんな風に述懐する。彼女は世界が「ハーモニー」になる事には異議はない。少なくとも、意識の表面上ではそう言う。しかし、どう考えても、異議がないはずはない。その証拠に
「この弾丸は、わたしが撃ったもの。
他の誰の意志でもない、わたしが撃ったもの。
わたしが。
わたしが。
わたし。」
という風に、主人公は「わたし」に固執している。これは、理論的な面においては同意せざるを得ないが、彼女のエモーションとしては同意できないという事だと思う。それが、文体レベルで現れている。文体レベルにおける表現と、作者の思想、作者の現実認識が見事に一致している稀有な例を、ここに見たい。
また、同様な繰り返しはエピローグにもある。
「いま人類は、とても幸福だ。
とても。
とても。」
これは主人公の述懐ではないが、どうしてこんなに「とても」を繰り返すのだろうか。ここでは、理論的な側面、論理的には完全に終わった書物の中で、感情レベルで(文体レベルで)、まだ終わっていないという事を示している。そう考える。「とても」を繰り返す意味は、論理的には存在しないし、余計だ。しかし、本来的にはそこで終わってはならないという祈りがそこには籠められている。
こうして考えていくと「ハーモニー」という作品のそもそもの思想は何だろうか。一人称におけるナイーブな視点というのは「虐殺器官」から変わっていない。そこから、ラストに向かって順番に歩いていくわけだが、最後には自分を消失するという結果が現れてくる。自分の消失は即ち、一人称の消失であり、語る主体の消失である。消失させるのは、社会システムである。
一人称が消えていくという小説的な方法は逆に言えば、それを消失させるシステムそのものが肥大化すると、これは消えてしまうのだという事を示しているように思える。時間的に言えば、過去から未来まで順番に論理で折り畳んでいくと、そこに意識の自由、苦悩という「現在」はなくなる。
ベルグソンは時間の空間化を批判したが、ベルグソンの時間は意識の時間だった。渡辺慧が言っていた事だが、時間というものを
未来ーーーーーーーーーーーーーーーー過去
と置くと、「現在」はこの線のどこにも取れる事になり、「今ここ」という我々の実感は消失してしまう。歴史の本を最初から最後まで時系列に沿って眺めても、何故今生きている「私」が十三世紀の人間ではなく、三十四世紀の人間ではなく、「今ここの人間なのだろうか?」という問いに答える事はできない。
今生きている私が私にとってのっぴきならない事態であるとは、論理では語れない事態であるが、この私がいなければ、論理そのものを語る事はできない。世界と、私との継ぎ目に、「私」は存在する。一人称で語るという事は、「私」と世界を繋ぐ役目を負っている。だが、世界が肥大化して、「私」が消えた時、その時、一体、何が残るだろうか。
先日、電通の社員が過労を苦にして自殺したが、一人の社員の魂を踏みつけにしたとしても守らなければならない契約とか義務とかいうものはあるのだろうか。こうした体育会系のシステムにおいて個人は、それではない事を要請される。彼らには、伊藤計劃の提出した問題は見えないだろう。何故なら、その問題は彼らにおいて既に解決済みだからだ。つまり、「ハーモニー」は達成されている。あるのはシステムに適合できない、不適合者だけだ。
伊藤計劃は独特の一人称によって、システムを内部から、疑問に曝した思想家だったと言えるだろう。システムは人間の頭には、大きな物語、必然な因果系列として移る。過去から未来まで、順番に論理を繋いでいけば「今」の自由は消失される。しかし、伊藤計劃の一人称では、その「今」から世界について語るという方法論が徹底されている。それ故、一人称は作品の最後ではその不可能性に衝突し、消えてしまうが、その衝突の余韻を読者である我々は、作者の思想として読む事ができる。つまり、一人称が消え去った場所に、本当に豊かなものがあると考えられる。何故なら、その箇所は一人称では書けないが、伊藤計劃は書けない事を意識して書いているからだ。
伊藤計劃の「ハーモニー」においては、そうした思想が現れていると見ている。世界をシステムに一元化した時、全ては救われるが、救われた世界は果たして良き世界なのだろうか? …が、この問いは、作品そのものからはみだしてしまう。はみだしてもなお、語ろうとして語り得ない事を明らかに感じて書いている所に伊藤計劃の非凡さが認められる。そういう風に「ハーモニー」という作品を考えている。伊藤計劃が示した問題は現在でもビビッドな事柄だと思う。これについては、考えついで、書き継いでいく必要があるだろう。