7 想い溢れる
紫龍がそう言うと、ウィーゼンは驚いた顔をした。
「買う?」
「あぁ……そうだ、もう、私を買うな。……ウィーゼンには、ウィーゼンだけには、もう買われたくないんだっ!」
最後は悲鳴のような声になった。
そして、その自分の品の無い金切り声が、心の堰を壊す。
「もういやなんだ……辛いんだ」
「紫龍、何が辛いんだ? 俺といるのがそんなにいやか」
「そうだ。こうして数日共にすごすのも、まるで恋人のように寄り添うのも、買い物にでるのも……」
ウィーゼンの両手が紫龍の両肩をぐっとつかむ。問いただすように、紫龍の顔をのぞきこんでくる。
「嫌なのか? 昼間の楽しそうな顔は偽りだったのか?」
「偽りじゃない、嘘じゃないっ……だけど、嫌だ、辛い」
紫龍が首を振れば、しゃらりとサークレットの銀鎖が鳴る。
その贅沢な音。
それも今は紫龍の心を刺した。
「こうして……金を積まれ、金をかけてもらうような女じゃないんだ、私は。ただの身体を売る女で……ちっぽけで無力で……」
どんどんとこぼれてゆく言葉。
誰にも愚痴ったことはない。愚痴る相手もいなかった。
仕方がないとあきらめて、ただ生活のための薬草を隠れて摘み、干し、調合し、明らかに足りぬ生活費は足を開いて稼いだ……その無意味な日々を、一番憎んでいるのは……自分自身。
涙を流しながら、紫龍はウィーゼンをなじる自分に嫌気がさす。
ウィーゼンはなんら悪いことをしていない。
身を売る女を金で買っただけ。
さらに、暴力をふるおうとしてきた輩から金をだして救ってくれた英雄ですらある。
なのに、紫龍は受け入れられない。
心が拒む。
ちゃりんちゃりんと下品な音を奏でる、金の音。
「嫌なんだ……もう、買わないで」
論理もなにもない。
感情のままに、紫龍はこぼした。涙を、言葉を。
ウィーゼンはそんな紫龍をじっと見つめ、そして――抱きしめた。
「紫龍。なぜ、泣く」
「……嫌だからだ」
「買われるのが、か」
抱きしめられた腕の中で、紫龍はうなづけなかった。
今のいままで、買うな、買わないでとウィーゼンに詰め寄っていた癖に、今になってウィーゼンが買ってくれなければ、もうウィーゼンに会えないのだと、こうして触れ合えないのだと気づいて苦しくなったのだ。
わがままな自分に紫龍は、もうがんじがらめの心で歯を食いしばるしかできなかった。
「……紫龍」
ウィーゼンの声がため息交じりになった。
紫龍は愛想をつかされた証に感じて、肩を震わせた。
「俺と一緒にいるのは、嫌か」
「……」
「俺と寝るのは、嫌か」
「……」
返事ができない。
いや、いやじゃない……。
そのどちらも。
買われて一緒にいるのは嫌。
でも一緒にいることそのものは、望んでいる。
答えない紫龍、いや答えられずにいると、ウィーゼンは紫龍を自らの胸板におしつけるように抱きしめて来た。
「なぁ紫龍。俺が十代やそこらの若造であれば、紫龍の今の言葉で、あぁ紫龍は俺が嫌いで拒んでるんだろうと思っただろう」
そこでウィーゼンはいったん言葉を切った。
大きな手で紫龍の髪をさらりと梳く。優しく手櫛をすべらされる。
「でもな、生憎、俺は中年にさしかかってる。……いろんな戦場も見てきたよ、いろんな人間がいた。……だからかな、言葉がそのまんま『事実』だとは思わない。……いや、思ってやらないんだよ。俺は人の言葉を、自分に都合よく解釈する、ずるい男なんだ」
「……ウィーゼン?」
思わず呼びかけると、ウィーゼンは紫龍の髪に顔をうずめるようにした。
「紫龍が俺に買われたくない……そう言うんだったら、紫龍は俺に、金じゃない今までの関係じゃない、もっと別のものを俺に求めてるって、俺は解釈しちまうぞ」
紫龍はウィーゼンの胸の中で瞬くしかできなかった。
背中をさする大きな手があったかくて、そして胸板もあたたかくて、そして耳にささやきかける声が熱い。
「俺のことが本当に嫌なら、もう顔もみたくないってんなら、今、俺の腕をほどいて帰ればいい。でも……俺は今まで紫龍と過ごしてきて……少し自惚れてきたんだよ、紫龍は俺のことを少しは好んでくれてるんじゃないかってな。でもそれは”他”よりも、多少好まれてる程度なんだと思ってた、少し他より親しく思ってるだけだと」
ウィーゼンの言葉に胸がどきりとした。
「でも、今、紫龍は……涙を見せた。こんな素顔をぶつけられたら、俺は、もっと思いこんじまう。紫龍は……俺から金以外のものが欲しいんだって、うぬぼれるぞ?」
黙りこくる紫龍を、ウィーゼンは少し身体を動かして身をかがめ、顔をのぞきこむようにしてきた。
額と額がくっつきあうくらいに顔を寄せる。
「……なぁ、俺は自惚れたままでいいか? 聞かせてくれ。紫龍は、何が欲しい?」
頬を撫でられた。ウィーゼンの大きな手は、ちっぽけな紫龍を簡単に包み込んでゆく。それが心地よくて嬉しくて、そして怖かった。
ウィーゼンの指先が額の飾りを軽くつっついた。しゃらりと音がする中で「……言ってくれ」と、甘く囁かれた。
「私は……わたしは……」
欲しいものなんて……本当はたった一つだった。
わかっていたけど、わからないふりをしてきた。
手に入らないのだから、自覚するだけでも無駄だと思ってきた。
なのに、ウィーゼンは紫龍に望みを言えという。
……ことばにして、でも、それが消え失せてしまったら……怖いのに。
そう思って震えるけれど、そんな紫龍を誘うようにウィーゼンの手が頬をゆっくりと撫でる。指先が紫龍の震えを吸い取るかのように。
紫龍は息を吸いこみ、吐いた。
そうしてもう一度吸ってから口を開いた。
「私はウィーゼンが欲しい」
一度言葉にしたら、今まで詰まっていた思いがあふれ返った。
「ウィーゼンの気持ちが……全部が欲しいんだっ」
最後は叫びのようになり、それでもこらえきれず、紫龍はウィーゼンに腕を回ししがみついていた。