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6 望み


 町の中をウィーゼンは紫龍の手を引いて、どんどん歩いていく。町はずれまで来て、また紫龍のあばら家がある村に続く森の近くまで来たときに、やっと歩調を緩めた。

 それまで小走りで必死についてきていた紫龍は、息が弾んで言葉が出ない。

 立ち止まったウィーゼンが、腰の袋から陶器の水筒を取り出し、コルクの栓を抜き紫龍に手渡してくれた。紫龍はそれを口に含み、やっと生きた心地がした。


 乾いた喉を潤していく水。

 一息ついて、水筒をウィーゼンに帰した紫龍は、ウィーゼンが見つめていることに気付いた。

 まなざしがかち合いそらせずにいると、ウィーゼンの方が動いて、腕にかけていた布を広げ紫龍の頭からそっとかぶせた。ベールのように髪を隠す布は森の木漏れ日でやわらかな陰影をつくる。

 紫龍は黙って布端を手にとり、街に行くときのように布で髪を包もうとした。

 だがウィーゼンは紫龍の手を自身の手で止めた。


「……すまなかった」


 ウィーゼンがそう言ったので、紫龍は驚いた。


「さっき……布を手にして戻ってきたら、紫龍に手を上げようとしている男にカっとした。紫龍が世話になった者なのかもしれんが、許せなかった。一刻もはやく、あいつから引き離したかった」


 ウィーゼンの言葉に、紫龍は心の内でなっとくした。

 紫龍に確認することなく、宿屋の息子と縁を切らせるまねをしたことに対してあやまっているんだ。

 金を払ってくれたのはウィーゼンだというのに。


 紫龍は首を横にふった。


「いい。私も前から、あの宿屋の息子は気に入らなかった。手を切りたいと思ってたところなんだ。それに……」


 そこまで言って、紫龍は口をつぐんだ。

 『夜に使う宿のあては、他にもあるから』ということまでは口にできなかった。ウィーゼンではない男と使う宿があるなんてこと、口にしたくなかった。

 変わりに別のことを口にした。


「それに、こちらこそすまない……あの金袋……」


 口にしたとたん、金貨のギラギラした色が思い出された。宿屋の息子の前に散った金貨の打ち合う音。 

 心がいっきにしずんだ。

 そんな紫龍をウィーゼンはふいに抱き寄せた。


「いいんだ。それよりも……紫龍。さっきのそれ……」


 サークレットの包みを抱える紫龍の手を、その上からウィーゼンは穏やかに撫でた。


「つけて、見せてくれないか」


 そう願われた。

 宿屋の息子に投げつけた金貨の額は相当であったろうに、それを紫龍に求めることもない。

 それはまさに、紫龍にとって、ウィーゼンは息子から紫龍を買い取った証に思えた。


「紫龍。さっきはゆっくり選べなかったが……嫌でなければつけてくれないか」


 ウィーゼンの気持ちは、もうサークレットにいっているようだった。

 装飾品で紫龍を飾りたいウィーゼンの気持ちはよくわからない――けれど、紫龍は請われるまま人形のように頷いた。

 無言で包みを開けた。丁寧に箱におさめられたサークレットは、木漏れ日に照らされてきらりと光る。

 静かな銀と、小さな紫水晶の粒がいくつも連なる繊細な細工。

 紫龍は手にしたこともつけたこともないそれを前に、一瞬どのように扱えばよいのかと戸惑った。それを見越してか、ウィーゼンが紫龍の止まった手を手伝うようにして銀の細い鎖を手にとる。そして、布をはずした紫龍の銀の髪の上に華奢な王冠をかぶせるかのようにつけた。

 ちょうど額の真ん中に一番大きな紫水晶がくるように整え、ウィーゼンは微笑んだ。


「よく似合う」


 男の嬉しそうな声。

 その響きに、紫龍は笑おうとした。

 だが、うまく口の端が動かない。

 

 生きてきて初めてつけた装飾品、しかもウィーゼンのような逞しい剣士に、飾ってもらえた。

 似合うといわれて、微笑みを受けて――……

 自分の人生にはありえないほどの幸福な日、のはずなのに。

 

 頭ではそうわかっているのに、紫龍は自分の身が石のようになったと感じた。

 そうして心の中では、金物がぶつかる音がずっと響いているのだ――先ほどの、ばらまかれた金袋の金貨の音が。


 頭の中でウィーゼンに応じなければという理性と。

 心の中でキンキンと鳴り響く金貨の音。

 そして動かない身体。

 

 今、紫龍は自分がバラバラなような気がした。


「鏡がないのが残念だ。家に帰ったら、すぐに見るといい。……本当に綺麗だ」


 ウィーゼンの賛辞。

 先ほどの宿屋の息子とのやりとりなどなかったような、優しく穏やかな言葉。


 なのに。

 紫龍はそこに浸れなかった。

 ウィーゼンが微笑み優し気に紫龍の髪先を撫でるたびに、なぜだか心が叫びをあげる。


 紫龍が一生かかったって稼げそうもない金貨の袋を、ウィーゼンはあの宿屋の息子に投げつけた。

 紫龍を息子の手から救うため? 奪うため?


 ……買い取るため。


 心に浮かんではきりきりと紫龍を締め上げる言葉。心の中に金貨がぶつかりあう音が激しくこだまする。


「紫龍?」

 

 息すら小さくなり、指先一つ動かさない紫龍を怪訝に思ったのか、ウィーゼンが呼ぶ。

 応えなければ……そう思いながら、紫龍は微笑むことができない。

 私は買われたのだから、この人が望む通りに動かねば……そう思うのに。


 紫龍は瞬きした。

 身体が思うように動かない。笑えない。


 好きな人から綺麗と言われているのに。

 こんな美しい装飾品で飾ってもらえているのに。

 私のような女には……身に余る光栄なはずなのに。


 私のような……


 紫龍の紫水晶のような目から、紫龍の心のしずくが流れ落ちた。


 自分の頬を濡らしていくものを紫龍は止めることができなかった。手で拭うこともできなかった。


 心が叫んで泣いていた。

 身が切られるように痛かった。

 過去に、手荒な客が紫龍の身体に傷を残すように痛めつけたことが数回あったけれど、その時の痛みよりも、今、ウィーゼンを前にする今の痛みの方が息もできないくらいに苦しかった。

 血を流していないのに、足元から震えて指先から冷え切って、もう意識が遠のいてしまうくらいに苦しかった。


「紫龍?」


 今まで、暴力的な客も、威圧的な客も、嫌みや暴言ばかりの客もいた。逆にしつこく絡みつくような客もいた。金でつなぎとめるのは当然のこと、贈り物で縛ろうとするものもいたし、紫龍を多額の金で引き取ろうとする者だっているにはいた。

 けれど……そのどれを前にしても、紫龍は自分が傷つけられたと実感することはなかった。

 両親を失って暮らしがどうしようもなくなったときから、すでにあきらめていた。

 こんなもんだろう、こういうものだろう、仕方がないだろう……。

 どこか冷えた目で客を見つめ、客の言葉も行動もすべて流していた。

 それは空に浮かぶ雲を見つめるのとさして変わらない。雲はときに雨雲になり、雷を落とす雷雲になるが、どうしようもない……ただ、だまってやりすごすだけだと。

 そう思ってきた。


 なのに。


 ウィーゼン。


 痛い。

 胸がいたい。

 苦しい。


「……なぜ、泣く」


 戸惑ったようにウィーゼンが言う。

 装飾品を贈られて喜びで泣いているようには、きっと見えないんだろう――それくらいに、今、私は醜い顔をして泣いているに違いない、紫龍はそう思った。


 苦しい――……。

 私は多くは望まないと思ってきたのに。

 ささやかに、ここ数日を恋人ごっこで過ごせたら……そう思っていたのに。

 ウィーゼンはそのように、私にふるまってくれているのに……。


 なのに。


「……もう、私を、買わないでくれ」


 紫龍の唇は、そう告げていた。

 

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