5 買われた女
紫龍に大声で呼びかけにやにや笑いながら声をかけてくる男は、トエルの町にある安宿の主の息子だった。
なれなれしく近寄ってくると、昼間だというのに酒の匂いをさせた息を吐きながら紫龍に顔を寄せた。
「なんだぁ、なぜリドの町にいる? お前の縄張りはトエルの町だろうよ? 縄張り変えんなら俺んとこに、報告しねぇとなぁ?」
「……私が契約している宿主はあんたの父親だ。あんたに報告する義理はない」
「ああん? そんな生意気いえるのかよ。あの父親がくたばったら、宿を仕切るのは俺だぜ?」
店の前で柄悪く言葉を並び立てる男に、市場を過ぎてゆく人は眉を寄せ足早に通り過ぎてゆく。
男の大声を聞きつけたのか、サークレットを包んでくれていた店主が包みを抱えて飛んできた。その表情は、こんな柄の悪い男と知り合いの女が店先にいては迷惑だと言わんばかりのものだった。
紫龍の予想通り、店主は包みを紫龍に押し付けながら、店先から大通りへと促した。
「さ、お品はこちらです。あの剣士さまもそろそろお戻りでしょうし、目印になるあの大木の元へ立たれては?」
言葉は柔らかいが、その目つきは「はやく失せろ」と言わんばかりだった。紫龍は包みを胸に抱えて、言われる通りに歩みだす。
そんな店主と紫龍のやりとりを聞いていた宿屋の息子は意地悪く笑いながらついてきた。
「剣士ぃ? なんだ今日は昼から客取りやってるのか? 金に困ってるのか? なら、つきあってやろうか」
大声でにやにや笑いながら声をかけてくる。トエルの安宿……つまり紫龍が夜の商売で使う宿の主人の息子のことが、紫龍は苦手だった。
今にも肩に手をおきそうな男から逃げるようにして、紫龍は言い放つ。
「昼間に買い物するのは私の自由だ。かまわないでくれ」
強い口調で言い、振り切るように速足で進む。だが愚かな男はそれで引きはしない。
「生意気いうな」
「かまうなと言っているだろうっ」
「前から思っていたがよぉ、おまえ、昼間はそうやって男口調をつかって……なんだぁ、お前の親たちのようにお前も元薬草師になったつもりでいるのかぁ?」
「黙れ!」
「馬鹿だよなぁ。親だって結局身を売るはめになったのに、お前なんて、生粋の商売女なんだよ! 夜の時みてぇに、男に媚びてればいいんだよっ」
そう怒鳴ると、今度は紫龍の肩をわしづかみぐっと引き寄せてきた。その勢いと荒ぶる空気に、紫龍はとっさに殴られるのかと身構え歯を食いしばり目をつぶった。
だが、痛みは降ってこなかった。
「……紫龍、遅くなった」
耳に届く声に驚いて目を開く。
目の前ではウィーゼンが、男の腕をねじりあげていた。
「ウィーゼン……」
「すまない、待たせたな。けっこう飛ばされていたんだ」
紫龍が瞬きする前で、ウィーゼンは腕にかけた紫龍の布を見せるように身体を少しひねった。
そんな紫龍とウィーゼンに割って入るようにして、
「お、まっ……だれだっ」
と宿屋の息子は呻きつつも大きく叫んだ。ウィーゼンは大声にも動じずに、淡々と返事する。
「紫龍に手をあげようとする輩に名乗る謂れはない」
「じゃあ、俺が紫龍に何しようが、お前に関係ねぇだろうよっ!」
「関係はある。今日、紫龍と共に過ごすのは俺だ。今日だけでなく、明日も、明後日も、紫龍は俺と過ごす」
その静かな返答に、紫龍は自分の胸がちくりと痛んだ。共に過ごす……それは、聞こえはいい言葉だが、商売女と客として、と聞き取れたのだ。
紫龍が思ったのと同じように宿屋の息子もとらえたのだろう。
「あぁ? 共に過ごすぅ?……って、あぁ、客かよ。紫龍の客だな」
と呟いて、宿屋の息子は険しい顔を緩めた。そして、紫龍に向けていた声とは一変して、猫なで声をだし紫龍には虫唾がはしるような口調で言った。
「俺はさぁ、トエルの町の宿の者だよ。わかるだろ、春の宿だ。この紫龍の面倒もみてんだ」
紫龍は心の内で、お前に面倒をみてもらった覚えは一度もないっと叫んだ。だが、この場でそれを言い放つ勇気はなく、ぐっと唇を噛む。
そんな紫龍の心もしらず、宿屋の息子はウィーゼンに話をもちかける。
「あんたさ、立派な剣もってるってことは剣士だろ。さすが、いい体格してる」
「……」
「紫龍は綺麗な子だが、痩せすぎだし、淡泊だろ? 数日かけて買うなら、もっと情熱的で長続きしそうな女を紹介してやるぜ?」
そう男が言った途端、ギリッと音がした。宿屋の息子の口から悲鳴があがる。
「いてえっ……てめぇっ、ねじんなよっ……いい女紹介するってんだよ、話せよ、こらっ」
「うるさい。邪魔するな」
それは、ずんと腹に響くような声だった。
紫龍も一瞬身をすくませてしまうようなウィーゼンの声音に、宿屋の息子もいっきに口を閉じた。
そこへ、さらにウィーゼンは言い放った。
「紫龍は私の女だ。金輪際、関わるな」
「なっ!」
さすがに宿屋の息子も意味がわからないと思ったのか顔をしかめた。
だが、そこにウィーゼンはバンッと袋を放った。
男の身体に袋があたった表紙に口紐がほどけ、金属が打ち合う音と共に男の周りに金貨が広がる。
「き、金貨っ!?」
男の目の色が変わった瞬間、
「紫龍は私の女だ。紫龍が過去にお前の宿に世話になったのなら、その金は手切れだ。関わるな」
ウィーゼンははっきりと宣言したかと思うと、唖然とする男を突き放し、かわりに紫龍の腕を取った。
「行こう、紫龍」
紫龍は何がなんだかわからず、ウィーゼンの顔と宿屋の息子の顔を見比べる。
ウィーゼンがぐいっと紫龍の腕をひっぱった。
「行こう」
有無をいわせぬ力だった。
けれど、紫龍をひきずったりはしない絶妙な力加減。
紫龍は、宿屋の男のまわりに飛び散った金貨が目に入り、唇を噛んだ。
……買ってくれたのか。
紫龍はウィーゼンの後に従った。
助けてもらったと思うのに、なぜか心が晴れないままに。