33 錆色と銀色
二人っきりになった部屋で、ウィーゼンがフィアの方を向いて言った。
「時間をもらってすまない。近くに腰かけてもらえないだろうか」
フィアはウィーゼンの枕元に丸椅子を置いて座り、ウィーゼンに自分が近くにいることを示すためにそっと手に触れた。
「……昔語りを、聞いてもらえるだろうか」
ウィーゼンの目はフィアの視線からはずれてはいたが、その黒い瞳は毎日足繁く通ってきた薬草師に向かっているに違いなかった。
フィアは了解を示すため、ウィーゼンの手をそっと撫でた。
窓の外ではしとしとと雨が降っている。
雨の降る音の中に、ウィーゼンのしっとりとした低い声が言葉を紡ぎ始めた。
「……私は……エディからお聞きかもしれないが、元はギーリンランドル軍にいた。王都だけでなくいろんな地方にまわる身で、ひとところに落ち着くことがほとんどない生活をしていた。それで満足していたし、また当時私はそこそこに強くて……そうやって自分の力を求められることは誇りでもあった」
そこでウィーゼンは言葉を切った。
「そんな私が……恋をした」
胸がどきりとして、フィアは思わずこくりと息をのんでしまった。
その先を聞いてみたい気がしたし、自分が聞いたら傷つく内容かもしれないとも思い、フィアは怖かった。
目の前のウィーゼンは、話かけている薬草師がフィアだとは思っていないことだろう。まさかフィア第一級薬草師として王都にいるとは思っていないだろう。
そんな自分に語られるウィーゼンの「恋」がどんなものなのか、その先を聞くのにフィアはすこし怯えた。
そんなフィアの想いは知らないだろうウィーゼンは、話をつづけた。
「……その女性も……その時、私のことを慕ってくれていた。そうして思いが通じた頃に、言ってくれたんだ」
「……」
「彼女は、『私を望んでくれた。それだけで自分に価値が生まれたような気がする』って言ったんだ」
フィアはウィーゼンの顔を見つめた。ウィーゼンの語った言葉を……自分は言った気もするし、そうでなかった気もする。
ただ、フィアはその言葉が切ないと思った。
男に愛されて望まれて初めて自分に価値ができたように感じるのは……とても綺麗だが、同じ女として物悲しいと思ったのだ。
もしかつての自分が言ったのだとしたら、それくらいに自分は追い詰められていたんだろうか。
ウィーゼンは話をつづけた。
「そのときの私は……その言葉を聞いてね、何を馬鹿なことをいっているんだと思った。人の価値など、最初からあって当然だ、と。私が望んで彼女が喜んでくれるのは嬉しいが、私が望まなくても、彼女の命に尊い価値があるのだから……と。思っただけでなく、私は彼女にそう言った。そうしたら、彼女は、さびしそうに笑った」
「……」
「なぜだか……ずっと、本当にずっと……あのさびしそうな笑顔は忘れられなかった。その後、彼女とは別れた。別れるときは身を切られる思いがしたが……でも、ふと思い出すのは、その時のさびしそうな笑顔だった。愛しているのに……こんなに愛しているのに、どうしてそんな笑顔をさせてしまったのか。そういう顔をさせてしまったから、別れることになったのだろうか――答えはきっと出ないんだろうそう思っていた」
ウィーゼンがふうっと息を吐いた。
その息遣いから、また薬の効き目が薄れて痛みが出て来たのだと悟る。
フィアはいつもの要領でウィーゼンの身体を寝かせようとした。
だが、彼は片手でやんわりとフィアのはたらきかけを断り、姿勢を戻した。
「……どうして、寂しそうな顔をさせてしまったのか。考えつづけていたが、数年前の戦いの後、今、この状態の元になる傷を負って……すこしずつ身体が思うように動かなくなったとき、私はふと思った。私は彼女の置かれた世界を少しも知らなかったんだと」
ウィーゼンは瞼をおろした。思いを馳せるようなその表情をフィアは見入った。
「……それまでの私は、言えば、『生きた剣』だった。人に用いられ、重宝がられ、そして自分でも強いと自負しているような剣だった。軍の中では悲惨で陰湿な暴力を受けたこともあったが、それでも、場所をかえれば自分が用いられる自覚があって……そう、あの頃の私は自分が錆びてゆくことを知らなかった」
フィアは思わずウィーゼンの手を握っていた。
淡々と静かに話してくれているが、その話の内容は、男として、人として、その一番深くにある呻きをさらけだしてくれている気がした。
ウィーゼンの低い声はフィアの耳から入り、フィアの身体のうちに染みてゆく。フィアはもっとウィーゼンを知りたいと思った。
彼の声、言葉で自らを埋め尽くしたいと願った。
「でも、その後状況が大きく変化した。……人を切り、斬られた。怪我をし……その傷は自分の手には負えないくらいの深手となった。この通り、屈強と言われていた男が膝をついて呻くくらいに」
自嘲的に言ったその言葉の苦しさ、男としての自信や誇りが打ち砕かれていく様がフィアには流れ込んでくるような気がして、思わうフィアは唇を噛んだ。
「私は……自らが錆びついてゆくように感じた。どうしても錆びてゆくんだ。心も身体も。病だとか怪我だとかで身体が動かないという意味じゃない。もっとなんというか……自分の存在価値がわからなくなっていくということ。命があることそのものが苦痛になって、自分がここにいることをそのものがあきらめになってしまうような……虚しい心地だ」
ウィーゼンの言葉はフィアの胸に迫った。
触れた手から、彼の心の奥の底の見えない沼のいくらかが伝わってくるように思えた。
そしてフィアには、ウィーゼンがエディを退室させたのもわかる気がした。二人で話したいと言ったのは、ウィーゼン自身の望みだったかもしれないが、同時に、エディに聞かせられないと思ったのかもしれなかった。
エディはウィーゼンの中に希望を見ている。世話をしているのはエディだが、エディはウィーゼンの存在があることで自分を立たせているところがある。そんなエディにウィーゼンが自分の存在の揺らぎを聞かせてしまうのは忍びなかったのかもしれない。
「希望を持って前に進まなければと思っても、どこにその希望をおいていいのかわからない――……。痛みと苦痛、いや物理的なものもそうだが、自分がなぜここでまだこうして息をしているのか意味がわからず、もう何もかもあきらめてしまうようになっていた。そんなある日、ふと気づいたんだ。かつてあの人は、『私を望んでくれた。それだけで自分に価値が生まれたような気がする』と言っていた。それは、逆にいえば、あの人は俺のような者にすら”望まれなければ”自分を見失うくらいに、闇の中にいたということだ」
ウィーゼンの手に添えているフィアの手に、そっとウィーゼンのもう片方の手が重なった。
握りはしない。
節度の保たれた、ぎりぎりの触れ方。
「その人は……ある強い獣の名前を使っていた。その名前は私の好きな伝説の獣だ……古代文字だけを見れば好ましい、美しい名前だと私には思えていた。でも……今ならそこにある物悲しさを少しは感じ取る自分がいる。強い名前をつけねばならいくらいに、暗闇にいるということを。名前ひとつでも、他者に『欲されるもの』をわざわざ名付けて自分を売らねばならない……それくらいに追い詰められる意味を、生き方を……少しはほんの少しは考えらえるようになったんだ、私も」
ウィーゼンが微笑む。伏せ目がちに穏やかに。
それは痩せて陰影がふかまった今だからこそ、前よりももっと静けさと深さと、そして優しさがにじみでている笑みだった。
しばらくウィーゼンはじっとしていた。
雨の音だけがウィーゼンとフィアを包んでいる。しっとりとした空間に、時々ひさしから落ちる雨滴がぴちゃりと跳ねる音が混じる。
ゆっくりとウィーゼンはそのしとしとと降る雨に包まれた空間を味わい、吸い込むように息をした。そしてゆるゆると息を吐いてから、また話し始めた。
「……あの人との出会いと別れは、私はとても……とても、言葉にできないほどに……私の宝なんだ。そして、同じくらい、この雨期に通い続けてくれたあなたに感謝している」
「……」
「錆びつかせていた私に、潤いをくれてありがとう」
ウィーゼンはそこまで話して、苦しくなったのか、咳き込んだ。フィアは思わず彼の背をさすろうと手を伸ばした。
大きな背なのは変わりない。
けれど、ずいぶんと痩せた。
布越しに彼の背骨を手のひらに感じた。
さすると、腕飾りがしゃらりしゃらりと鳴った。
……ウィーゼンがくれたあの飾り。壊されても手放せなかったもの。
咳をすると身体の痛みが呼び起こされるのだろう、ウィーゼンの眉が寄せられ何かに耐えるような表情になった。
だがその咳のあいまにも、ウィーゼンはどこか笑みをふくませてフィアの方に顔を向け言った。
「……これ以上あなたを拘束するのは、きっとよくない。冷静に考えても、私の身体に回る毒の存在を認めたくない国の者たちがあなたの存在に気付けば、よくないことが起こるかもしれない。……だから、もう、このくらいで……良い。本当に……大丈夫だから」
咳のあいまにそういうウィーゼンに、フィアはいつのまにか首を横に振っていた。
やるせない思いが心に吹き荒れていた。
なぜ……なぜ、ウィーゼンがこんなめにあっているんだ。
シーリンの毒が回って生まれた痛み、なぜそんなものを抱えながら生きていかねばならないんだ!
……どうして。錆色の染まる染粉を渡したのは、ウィーゼンじゃないか。どうして銀の髪の女に戸惑うなんて。
そう思いながら、頭の半分ではわかっている。フィアと同じ銀の髪の女の兵士に反撃を迷ったウィーゼン。
……ウィーゼンは、自分を……フィアールカを、紫龍を、思い出したのだ。それで反撃の手が遅れて、こんなに傷を負って、苦しんで。
咳き込むウィーゼンのことが、あまりに切なくてやりきれなくて呻くように口をひらいた。
沈黙して、隠していることなんて、もうできなかった。
「……ど、して」
一度唇から声がこぼれでれば、あとは止められなかった。
「……わたしって……わたしだって気づいてるから、その話、するのだろうっ!」
叫んだ瞬間、ウィーゼンが顔をあげた。声のする方――フィアの方に顔を向ける。だがそこから逃れるみたいにして、今しがた咳に合わせてさすっていた彼の背に隠れるようにして、額を彼の背に押し付けた。
「どうして……どうして問い詰めないっ、どうして怒らないんだ!」
彼の背に額をおしつけ、彼の服の背中を握り、叫ぶ。
「ウィーゼンなんてっ……ウィーゼンなんて……」
思わず心の底から呼んでしまうのは『ウィーゼン』という名だった。口にしてしまえば。なんてたやすい。
けれど、口にするまで、どれほどの葛藤があったことだろう。
フィアの中でそれまでの想いが噴出した。
……だって、ウィーゼンのためを思って別れたのだ。私がいない方がウィーゼンにとって良いと思ったから、断ち切れるようにと思ったから、酷い言い方で責めるみたいにして別れを告げたのだ。
……なのに、なぜ。なぜ、ウィーゼンはこんな風に苦しんで、痛んで、そしてまた、今度は彼から別れを告げようとしているんだろう?
私たちは、私たちは……なぜ?
そして、また別れて……苦しさを繰り返すのか?
「ウィーゼンっ! 私は……いやだ」
叫んでいた。
ウィーゼンの背で叫んでいた。
ミンダは、フィアを支えるように愛してくれた。あんな風には、まだ十分にできないかもしれないけれど――でも、もう別れずに、逃げずに、拒まずに……ここに、いたい。
「私は、いやだ。ここにいるっ! ここにいるんだ!」
「フィアールカ」
ふいに名を呼ばれた。
彼の背の服をぎゅうっと握る。
「返事をしてくれ……フィアールカ」
「ウィーゼン……。忘れられなかったっ……忘れたいと願っても、あなたは私の中に刻まれていて……忘れられなかったんだ」
額を押し付けるウィーゼンの背中に、フィアはそのまま顔も涙も押し付けた。
「……サークレットを贈ったからだな。頭の中に残ってしまったか……もう壊してくれていい」
「もう、とうに壊れたっ、とっくの昔に違うものになってるっ。それとも……それとも、私がここにいるのはそれほど、いやなのか」
フィアはウィーゼンに背中から抱きつくようにそっと腕を回した。
痛まないように、包むように。そうして頬をウィーゼンの背にくっつける。
目を閉じて、ウィーゼンの背に頬をつける。
……ミンダも、あやまってくれた。嘘を言ってすまない、と。そして、私が大事なんだと伝えてくれた。
フィアはかつて自分を支えてくれた人を思い出し、勇気を振り絞る。
「ウィーゼン……私は、フィアールカだ。……かつて、嘘をついた」
「嘘?」
「あぁ……大嘘だ。私は……ウィーゼンを、隊長と呼ばれる男を、ウィリアム・ローウェルという名の男を……愛してた」
フィアの腕の中で、ウィーゼンの身体が強張った。
「愛しているのに……嘘をついた。『未来を共にすることなどできない』って、言ったんだ、私は」
「……フィア」
「私は……『本当の名を対等に告げ合うこともできないのに……未来を共にすることなどできない』と。でも……でも、本当は」
フィアは一度深呼吸した。
「名を偽ろうとも、約束を違えようとも、たとえ立場も生きる場所が違ったとしても……それでも、愛して、心だけでも添わせたいと……思っていたよ」
「フィ、ア」
「理想かもしれない、夢物語かもしれない……それでも、すくなくとも私は、私は……ウィーゼンのことが、好きで……好きで……今も、この今も」
フィアは思った。
あぁ、これを言うために。
これを言うために、私は生まれた。そう思ったっていい、と。
「あなたを……愛している」
フィアはそう言い切って、ウィーゼンの背に頬をすりつけた。ウィーゼンが生きているということを味わうように。
しばらくフィアが背中からウィーゼンとぬくもりをわかちあうように身体をよせていると、ウィーゼンの手が、背からまわしていたフィアの腕のそっと触れた。
おずおずと、恐れるように、そっと触れて、腕をたどり手のひらを上から包み込んだ。
痩せてもなお、ウィーゼンの手は大きくフィアをすっぽりと包み込んでしまう。
「……フィア。フィアールカ」
かすれた声で呼ばれ、フィアは胸がつまるような全身が熱くなるような思いにかられながら、「なんだ」と返事をした。
「私は……もう一度、告げてもいいんだろうか。許されるんだろうか」
そう呟くウィーゼンの言葉が震えていた。
その震えすら、フィアは愛しく思った。
フィアは笑ってウィーゼンの背に告げる。
「……出し惜しみしてくれるな」
フィアがそう言うと、一瞬、ウィーゼンが息を飲み込むように黙り、次いで、小さく笑ったのが背に伝わってきた。
そうしてひとしきり小さな笑いを味わうかのように肩をゆらしていると、ふいにウィーゼンはフィアの手を取った。思わぬウィーゼンの行動にフィアが驚いていると、
「それを言うなら、フィア……せめて、このずるい体勢はよしてくれ」
と、ウィーゼンが言い、フィアを背から引きはがすように身体をひねった。
身体をひねるとなるとかなり痛むのか、ウィーゼンが眉を寄せる。だが、そのままフィアを自らの背の方から胸側へとぐいっと引き寄せた。
「っあ……ウィーゼン」
ウィーゼンの両腕に囲われる。フィアが見上げると、ウィーゼンの顔が間近にあった。
「……背だと、俺がフィアを抱きしめられないだろう?」
「ウィーゼン」
「俺に、たしかめさせて」
俺という言い方に胸がうずいた。
ウィーゼンの指先がフィアの顔をたどってゆく。そのフィアの形を確認するかのように頬も唇も、鼻筋も、瞼もまつげさえも。
そうして指でフィアをたどっていったあと、フィアの横髪をゆっくりと梳いた。
ウィーゼンの腕があらためてフィアを抱き寄せる。そしてフィアを胸にかき抱いた。
包むように。
いつくしむように。
……「あぁ、この触れ方は、ウィーゼンだ」と、フィアは思った。そして、ここに帰ってきたのだ、とも。
懐かしさと嬉しさで目をつぶる。ウィーゼンの胸の鼓動に耳を澄ます。
そのときに。
「愛している」
ウィーゼンの言葉が、フィアに届いた。
心臓の音とあわさる愛の言葉。それがフィアの中にあらたにしみ込んでゆく。優しくやさしく、静かに。
しみこんでいく言葉は、フィアの心を潤してゆく。
そうして、フィアの瞳から、涙の粒が新たに生まれた。涙の粒は、頬をたどり銀糸のようにきらめき、男の腕へと伝っていく。
剣を持つには錆びた腕――けれど、その女を受け止めるには十分な強さを宿した腕に。
「フィア……」
「なんだ」
「……フィアの髪、やはり綺麗だな」
ウィーゼンが指先で髪をいじりながらそういったので、フィアは涙を流しながらも笑いつつ言った。
「何色だと思う?」
フィアの問いにウィーゼンもくすりと笑った。
「……何色でも、いい。フィアの髪なら」
そう言って、女の髪……かつて銀色であり、今は錆色の繊細な髪を、男は愛しげに梳いたのだった。




