28 ミンダ
薬草師一級の合格の通知証。
それが送られてきたとき、ミンダはまるで我がごとのように喜んでくれた。
お祝いの食事だといって、アドルの街でなかなか人気のある『アンジ』という名の食堂に連れていってくれることになった。
『アンジ』の店主はミンダの食料品店のお得意様でもあり、フィアも顔見知りの店主だが、店に食べにいったことはまだなかった。
ミンダと連れ立って、店に着くと、
「薬草師第一級おめでとう!」
と店主から拍手でむかえられ、居合わせたほかの客にまで拍手された。
突然の歓迎とその大きな拍手、ついでに店員の一人から可愛い花束までフィアは驚きで店の入り口で固まってしまった。
あまりのフィアのびっくり顔に、アンジの店主はいつものおっとりした笑顔を向けて説明してくれた。
「いやぁね、もうフィアさんが試験だってことで、ミンダさんは試験のずっと前からそわそわしっぱなしでねぇ。『大丈夫だろうか?』『あぁ、フィアはやればできる子なんだ。でも緊張で答えがすっとんぢまうってこともあるだろう?』とか言ってさ、大丈夫だろうか大丈夫だろうかって野菜を運んでくるたびに繰り返すもんだから、僕も応援しなきゃって気になってねぇ。本当に合格がめでたいよ。今日は大いに食べて飲んでいってくれ」
アンジの店主の言葉に驚いて、フィアは隣のミンダを見た。
フィアの前ではミンダは「できるさ、不安がってないで、とにかくやるのみさ!」と大きく励ましてくれていた。だがその実は、陰でとても心配してくれていたのだ。
胸がじんと熱くなるフィアの前で、ミンダは頬を染めながら、「アンジの若旦那! あんた、もうよけいなこと言わないでいいよ! ほら、フィアも私も腹が減ってんだ、うまいもの食わしとくれ!」と言った。
その照れ隠しの声が、ちょっと上ずっていて、フィアはとても胸があたたかくなった。
「……ありがとう、ミンダ。その……本当に本当に……」
フィアがそう言うと、ミンダはまるで怒るような早口で、
「や、やだねこの子ったら。あんたが頑張った結果だよ、ほら、はやく座りな」
と言って、席までずんずんとフィアを引っ張っていく。
予約席と書かれた紙のある席に、すこしの迷いなく連れて行ってくれるミンダ。前々から、この試験結果の通知日を、どれだけの思いでフィアと共に待ってくれていたのかわかる気がした。
アンジの食堂は人気なだけあって、どれもこれも美味だった。香草の効いた鶏肉のソテー、早春の野草の新芽を生かしたサラダ、身体の芯からあたたまる根菜がたっぷり入ったスープ。ふわふわのパンに、旬の果物。そして、どっしりとしたバターの濃くと柑橘の酸味が絶妙なバランスで合っているバターケーキ。
けっして洒落た飾りのある店ではなかったが、どれも身体にゆっくりと幸せがしみこんでくるような味わいを出す店に、フィアはお腹も心もあったかく満たされていく。
共に食事を分け合うミンダもまた、始終笑顔だった。
フィアはミンダと共に暮らし、その食事や生活がとてもつつましやかなのを知っていた。
もちろん自分のあばら家での貧困とくらべたらずっとずっと良い暮らしではあるが、たとえ食料品店の売り上げが良い日が続いても、こういう食堂に何度も通うような暮らし方はしないのだ。そんな彼女が、フィアを連れ立って祝いの席を用意してくれたことが、フィアはたまらなく嬉しかった。
あたたかくて仕方がなかった。
もしかしたらミンダもまた、若い頃かいつか、なかなか苦しい生活を経験した女性なのかもしれないとフィアは思っていた。女一人で店を構えていること一つにしても珍しいことではあったし、アドルの街で聞くかぎり、ミンダはアドルに来てからずっと「一人」だということだった。
以前、ミンダの家に居候になるときに、ミンダは娘がいるといっていた。でも遠いところにいるというような言い方だった。きっと離れ離れになっているのかもしれない。
豪快に笑い、明るく接してくれるミンダだが、あまり自分のことは話さない。その皺の刻まれた顔、白髪の混じりのひっつめ髪のミンダの幸せを、フィアは共に食事を分かち合いながら願うのだった。
大いに食べてお腹いっぱいになった。店の客に、ちょうど歌と楽器が得意の客がいたことから、その人たちが披露してくれる歌に聞きほれる時間もあった。皆で手拍子をして歌いあったり、踊ったり。
フィアは残念ながら流行の歌をよくしらなかったが、これからはちゃんとギーリンランドルの歌を知っていこう、料理ももっと知っていこう、そんな風に思える夜だった。
店を後にしたフィアとミンダ。
初めての体験にお酒も飲んでいないのに頬を真っ赤にしながら、フィアはミンダと肩を並べて夜のアドルの街を家を目指して歩いた。
早春の夜は、まだまだ冷え込む。ストールも外套もかかせない。
フィアは着の身着のままあのあばら家やから出て来たので、まともな外套を持っていないかった。この冬は、ミンダの若い頃着ていたという古い外套をかしてもらっていた。
しばらく夜の街をミンダと歩いていると、初めて会った日の夜のことが思い出された。
人買いから逃げるために薬草と金袋がつまった籠をたくさん抱えていたフィア。引き車をひいていたミンダ。
一緒に引き車をひいて、ミンダの家に連れてもらったこと。あのときは夏で、夜も汗ばんでいた。
そんなことをつらつら考えていると、ふいに隣で同じように黙々とあるいていたミンダが突然、
「やっぱり、行くのかい王都へ」
と言った。
唐突な問いに戸惑いつつも、フィアはうなづいた。
「……合格したら王都に行くって、砦の薬師とも段取りしていたものね……。薬師がどこかの薬店を紹介してくれるんだろう?」
「はい。その予定で……。王都には、勤める薬師や薬草師が寝泊まりできる部屋つきの薬店もあるそうなので、そこにお世話になるかと」
「……王都までの旅費は大丈夫そうかい」
心配してくれるミンダに安心してほしくて頷いた。
「薬草も買ってもらってきたし、ミンダさん無料で部屋を貸してくれて、ごはんまで食べさせてくれたので……」
「そりゃあ当たりまえのことだよ。あんた店番はしてくれるし畑は耕してくれるし……。鍬や鍬の使い方とか種まきとか、叱っちまったこともあんのに、あんた逃げ出さないし……。本当に、フィアは働きものだ。……さびしくなるよ」
最後の言葉がしんと響く。
夜の街とあいまって、フィアとミンダの間にもうすぐ別離がやってくるのをしずかにフィアは感じ取った。おそらくミンダもそうだったのだろう。
たくさん……たくさん、お世話になった。
あったかだったし、時に厳しいときもあった。でも、いつもミンダはフィアを心配してくれた。この十か月、毎日毎日顔を合わせて笑ったりおしゃべりしたり、一緒に食事の準備をして、一緒にわかちあってきたのだ。
「……手紙、書きます。だってその……ミンダのこと、私、お母さんみたいだなと思っていて」
ふいにそんな言葉がフィアの口がすべりでた。しまったと思ったときには、ミンダが驚いた顔をしてフィアのことを見ていた。
「フィア……」
「あ、ごめんなさい。ミンダ、娘さんいるのに……すみません、こんなこと言って」
フィアが慌ててそうあやまると、ミンダはじっと黙っていた。
いつもなら豪快に笑ったりするミンダなのに、その静かでどこか寂し気な仕草がきになりフィアは立ち止まる。
「ミンダ?」
呼びかけるとミンダは小さく笑って、顔を上げてフィアをみた。
「今更だけどねぇ……あやまっておきたくて」
「え?」
「実は……うん、私に娘がいるって言ってたけど、あれ、嘘なんだ」
フィアがミンダの顔をみつめていると、ミンダはフィアの視線から珍しく顔をそらし、そのまま夜空を見上げた。
「……私は、子ができなくてね。それで……若い頃、離縁されちまったんだよ。田舎でねぇ、女を子を産む道具に考えてるような村だった」
ミンダのしゃがれた声のぽつぽつとした語りは、初めて聞くものだった。
「怒りでね、怒りくるってね、私は街で一旗あげてやるって意気込んで、その田舎を飛び出した。……でもすぐに持ち出した金も底をつきてね。当時、私にできることっていったら、結局、野菜を作ることだったんだよ。野菜はねぇ小さなころから作っててね、好きだった。土を触って、次の種はいつまこうか、この畝はどうしようかって考えて、水やって……育って収獲する、すべてが好きでね。それで、たまたま困ってる私に畑の土地をかしてくれる人がいたからねぇ、私、野菜、作ってねぇ……作って作って作りまくったんだ。畑仕事なら苦じゃなもんだからさ、他の人の畑も手伝ったりしてさ」
微笑みながらそう話すが、一人で村を出て、一人で畑仕事をする。それはどれほどの苦労と踏ん張りがあったことだろうとフィアは思った。
「まぁ、そうやって野菜育てて作りまくってたらね、たまたま砦の料理人が私の育てた野菜を気に入ってくれてねぇ、取引するようになって。それで、女一人身でただ借りた畑で暮らしていくのは将来が心配だからさ、お金ためて最初は畑になる土地買って、次はそこで育てた野菜を売る場所として小さな店と家を構えた。店もまぁ、うまく時流にのってねぇ。まぁうまくいってる。十分幸せだと思ってきたよ。でもねぇ、ずっと、ずっと心にあったんだよ。子どもがいてくれてたらなってね」
空を見上げていたミンダは一度足を止め、ぐいっと伸びをした。
そして大きく息を吸い、吐いてから言った。
「もう男はこりごりさ。旦那なんていらない。恋人ってのも欲しいとは思わなかった。でもね……いつくしむねぇ、愛する相手がねぇ……欲しくてねぇ」
「ミンダ……」
「あんたと出会った夜、一緒に引き車引いてくれただろう? あのときさ、あぁ娘ができたみたいだって、思ったんだよ。なんでだかあんたのことが心配だなって思ったし、これから住まいがないって聞いた時、いてもたってもいられない気持ちになった。でもね、あんたに、どうしてそんなに親切にしてくれるんだって問われたとき、あたし怖くてね。自分のこのフィアを心配したり気にかけちまう気持ちは、子どもが欲しくてでも育てられなかった女の……ただの押し付けなんじゃないかと思われるんじゃないかって……」
ミンダは空を見上げていた顔を、フィアの方に向けた。
「それでね、ついね、娘がいるって言っちまったんだよ。嘘ついちまって……すまない」
「そんな……」
ミンダがついた「嘘」はだれかを傷つけるそういうものではなかった。でも、ミンダは手を伸ばし、フィアの背をそっと撫でた。
「この十か月、誰かの代わりじゃなかったよ、フィア。お前のことを可愛いと思い、幸せになって欲しいと心から思ってるんだよ。遠慮しないで、困ったらいつ帰ってきてもいいんだよ。誰かの代わりじゃないんだ。それを言ってあげないとって思ってたんだ」
ミンダの言葉がフィアに優しくしみ込んでいく。
フィアは自分の瞳から涙がどんどんこぼれてくるのを感じた。
涙なのに、辛い涙じゃない。
嬉しくて、あたたかくて、優しい涙だった。
「いつか、世の中がもうすこし落ち着いて、あんたも銀の髪で堂々とあるける時代がくるといいね。いつか見てみたいよ、銀の髪……あんたの紫の瞳にぴったりじゃないか。似合うだろうねぇ」
ミンダの声がしみわたって、フィアは止められない涙を手で拭った。
フィアは、最終的にはそばにいるのが愛情であり、想いを遂げることだと思ってた。でも、いつでも帰ってきていいんだよ、そのままのあんたでいいんだよ――そういうミンダの言葉が、やさしくフィアに降り積もって、愛情にはいろいろあるのだと知った気がした。
ミンダがいてくれる。こうして愛してくれる。それだけで……幸せなのだ。
また涙がこぼれて拭った。
涙を拭ったとき、しゃらりと腕飾りの音がフィアの耳を打つ。
ふいに、色鮮やかにウィーゼンの黒い瞳が思い出された。
同時に、痛烈に自分の告げた別れを思い出す。
……あぁ、私は拒む愛しかあげられなかった。好きだからこそ、あのとき、拒むことであのひとを守れるんだと思い込んでいた。
でも……ちゃんと愛していると、大好きだと、そばにいられなくとも、別れるけれども、あなたを愛しているんだと……そうつげる想いの告げ方もあったのだ……。
フィアは思った。
もし私がちゃんとこれから自分の足で立って生きて……顔をあげて生きていくなかで、もしもウィーゼンに次に出会えることができるなら……。
そんな都合のよいことはないのだろうけれど。
でも、もし出会えたら……。
こうしてミンダがフィアを存在そのものを支えるように愛してくれたように……ただ、見返りを気にせず、愛せるだろうか。




