25 想いのすべて
ウィーゼンが目をみひらいてこちらを見ているのを感じたが、フィアはそれに気付かぬふりをするように口を開いた。
「今まで……ありがとう。これは、返す」
苦しかった。
生活も苦しかった。
けれどフィア……いや、紫龍なりの気持ちで手つかずできた。
ウィーゼンにとっては善意だった金袋。でも「紫龍」にとって、辛かったもの。
そして、これからの「フィア」には……不要なもの。
「私は……あんなあばら家であっても、”我が家”で客はとらない。……再会したときからの逢瀬でもらった金は、最初から手をつけるつもりはなかった。どんなに苦しくとも」
「……フィア」
「ウィーゼンは、その時はまだ、私を情報源と思っていたのかもしれないが……」
ウィーゼンの表情がはっとした表情にかわる。
その表情の変化ひとつひとつを逃す事がないように、フィアは見つめた。
フィアの言葉に驚きと戸惑いを隠せず、フィアの真意がわからず固まったままのウィーゼン。その素のままの表情を愛しい気持ちで見つめた。
フィアは、自分から手を伸ばし、そっとウィーゼンのほほに触れてみた。のびかけの無精ひげもすこしもない頬。洗練された、軍人の姿。
これはこれで素敵だろうが、かつての、伸ばしたままの癖のある髪に無精ひげがちらほらあって、言葉づかいも少々荒い、「雇われ剣士」もやはり素敵だった……と思った。
でも、どちらだってウィーゼンなのだ。紫龍もフィアールカも自分であるように。
「私は、最初から惹かれていたんだ。……あの村の井戸での再会は運命なんだと信じていたくなるくらいに」
くすっと笑ってみせ、そう言うと、ウィーゼンが苦しそうに言った。
「……フィア、前にも言ったが、最初は……任務によってだが、本当に……本当にそれからは……」
なんとか想いを伝えようとしてくれるウィーゼンに、わかっているとうなづく。けれど、隣室にエディいることを思い、それ以上の言葉が重ねられる前に、フィアはそっと人差し指をウィーゼンの唇においた。
そして。
いちど深呼吸し、じっとウィーゼンを見つめ、口を開いた。全身の勇気をふりしぼって言った。
「さよなら、隊長殿」
自分の言葉でウィーゼンの顔が強張るのを見つめながら、フィアは言った。
「ここには、礼を言いに来ただけなんだ。あなたのおかげで……こうして街に髪をさらして出られるようになったから。長居するつもりも……あなたと復縁するつもりもないんだ」
「フィ、ア……」
「あしたミンダと共に砦を出て……南の方にでも行ってみる。でも行先は言わない。……ここで、さよならだ」
その時、腕につけていた元はサークレットだったあの飾りがシャラリと小さな音をたてた。その音を愛しく思いながら、フィアは言った。
「金は返す……。だが、あの飾り……贈ってくれた飾りだけは、もらっておきたい。……気に入っているんだ」
壊されてしまったけれど。
奪われ、壊され……汚されてしまったのかもしれないけれど。
けれど、かけらをあつめて、こうしてフィアを支えてくれている。
ウィーゼンの送ってくれたもの。
あの暖かい七日間の想い出。
大事にしてもらった。大切に抱かれた。いつくしむように見つめられ、雨漏りの修理や大工仕事などを助けられて、一緒に食卓を囲んだ。
……フィアールカと呼ばれた。
この名を取り戻す道を与えてくれた。
――『ウィーゼン……ありがとう』
心からその言葉があふれる。
けれど、口にした言葉は微妙に異なった。
「隊長殿……ありがとう」
フィアが微笑むまえで、ウィーゼンは瞬きを忘れたようにして表情を失くしていた。
フィアがそっとウィーゼンの顔に添えていた手を離すと、気を取り戻したように、ウィーゼンはフィアをのぞき込んできた。
「フィ、ア……これで終わりというのか……?」
「あなたが嵐の夜、言ったことではないか、髪を染めて逃げろと」
「そうだ……そうなんだ、そうなんだが!」
大きな手で自らの額をおさえ、呻く姿。
動揺を隠すことなく露わにするウィーゼンに、申し訳なさと愛しさと悲しさがないまぜになった気持ちになりながら、フィアは表情だけは必死に微笑みをたもった。
「エディも言っていた。私の存在はあなたの邪魔になる、と。そりゃそうだ、敵国の女がここにいてはまずいだろう」
フィアの言葉に、ウィーゼンは首を横に振った。
「フィアはギーリンランドル育ちだ!」
「あぁ、でも、ギーリンランドルの教育を受けたわけでもない」
学校も、もちろん行ったことはない。薬草師の資格証は持っているが、その知識はシーリンの両親から得たものだから、試験を直接受けて資格を持ったにすぎない。
「どっちつかずの私がここにいて、あなたにも砦にもまったく益はない。今はまだこうしていられるが、戦況によっては、この砦そのものも渦中となるのだろう?」
そう言って手を離そうとした。
すると、ウィーゼンがぐっと手を握ってきた。熱い、熱い……手。
「行かないでくれ」
身体の奥からほとばしるような声でそう言われ、フィアは身を硬くする。
そんなフィアの強張った手をぎゅぅっと握り締めて、ウィーゼンは苦しそうに、吐き出すように、懇願した。
「……フィア、私のことを、何を馬鹿なことを言っているとおもうだろう。綺麗だと言い慈しんでいた銀の髪を染めろと言ってみたり、逃げろと言ってみたり。王都に連れていくと言っていたのに、難しいと言ったり……俺の言葉はちぐはぐで……フィアも呆れるだろう……。それでも、フィア」
……フィアの耳に懐かしい、ウィーゼンの「俺」という言葉が聞こえた。それだけで胸が焼け焦げるようだった。
フィアは揺らぎそうになる気持ちを、歯を食いしばって止める。
「俺はお前を放したくない……他の誰かの横で微笑んでいるなんて、嫌だ。俺のそばに……」
取り繕わない言葉。
前の恋人のように過ごした七日間でもウィーゼンは好きだと言ってくれたが、今はあの時のような包み込むのとは違う、もっと欲が剥き出しになったような、望みにすがりつくような言葉だった。
フィアはウィーゼンの言葉を目をつぶって聞いた。
最後のつぶやきまで聞いて、そして……フィアは浮かんでくる涙を散らすようにして瞬きした。
覚悟を決めて、口を開く。
「……なぁ、隊長。……それで、また、状況が変わったら……『フィアの身があぶないから、ここを離れてくれ』と言うのか? 『待っていろ』と言っていたのに『もう待つな』と言ったりするのか?」
フィアを握り締めるウィーゼンの手の力が、ほんの一瞬、ゆるまった。
フィアはゆるまってできた隙間を寂しく思いながら、するりとウィーゼンの大きな手から自らの手を引き抜いた。
「……あなたの言葉は真実なんだと思う。精一杯あなたの心の真実を告げてくれているのだと思う。その時その時の本当の心を言ってくれているんだろう……けれど、あなたの”本当”は状況で変わる。それくらいに、あなたの生きている状況は『私』以外の存在にもたくさん支えられているんだから」
「……フィ、ア」
「いくら真実の想いでも、状況によって変わってゆく言葉を……信じて、それに振り回されて……私は生きねばならないのか?」
フィアはウィーゼンを見つめた。
「あなただけを責めるわけではないんだ。私も、あなたの言葉に振り回されてしまうくらいに、自分の『根』がなかったんだと、今はわかるんだ」
ウィーゼンの黒い瞳を見つめる。
「気づいたんだ。あなたのおかげだ……ウィーゼン」
「……」
「あなたに愛されて、自分に価値があると信じられたから、私は一歩すすめることできた。嵐の夜届けてくれた、あなたの誠意の詰まった染粉が、私を救ってくれたんだ。錆色の髪になり、あのあばら家を出てみて、まだわずかだけど世界が広いのを知った。……うん、私もちゃんと……生きねば。そう思えるくらいに」
「フィア、フィア……」
「シーリンの血を引くからとか……ギーリンランドルで居場所がなくて、身を売るしかなかっただとか……。そういう思いで流されて、人に言われるがままに生きていくんじゃなくて……親が残してくれていた資格とか薬草師の力とか、私自身に、まだあるかもしれない力とか運とか……信じて、自分には未来があると信じて、生きていってみたい」
「フィアっ……フィアールカっ!」
抱きしめようとする腕を、突き放した。
ウィーゼンの表情は、たとえようもなく苦しそうで。
なんてことをしているのだと、思う。
だけど、ここにいても、本当にウィーゼンにも自分にも、そしてウィーゼンを慕ってくれるのであろうこの砦の人たちにも良いことなど無いのだ。
ウィーゼンの苦悶の顔をみて、胸が痛む。
大の男でもこんな苦しそうな顔をするのだ。過去、幾人もの男が床の中で紫龍を組み敷き、醜く喘いで苦しそうな顔をした。それはもっと淫猥でバカバカしいものだった。欲の現れた顔だった。
今、フィアールカの言葉で苦悶の表情を見せる男は、自分の心を開いて、己の気持ちの塊をフィアに見せてくれていた。
素顔を見せてくれているのだ。
隊長、ウィーゼン、どう呼ばれようが変わらぬ彼の中身を。
ウィーゼンは顔を歪めて、呻くように言った。
「……いや、だ」
――大の男が聞き分けがないなんて。
そう思いながら、フィアはウィーゼンを愛しいと、可愛いと思った。
今、フィアだって泣きたい……でも、目の前の人が愛しくて笑みが浮かんでくる。
こんなにこんなに素直でかわいい人。
フィアールカは、苦笑した。
仕方ない、最後に私から突き放してあげなければ――そう思った。
フィアは、精いっぱいの感謝と……そして自分の中にある優しさとか愛情とか「良いもの」と思える気持ちを詰め込んで、口を開いた。
「私はフィアールカという本名をあなたに教えた。でも、あなたはあなたの本名を伝えはしなかった。……ウィリアム・ローウェル隊長殿]
愛しい愛しい気持ちで、囁いた。
大好きだ……愛している、私のウィーゼン。
「ウィリアム・ローウェル。あなたの本当の名、あなたの口から聞きたかった」
恨み言みたいに、最後に責める言い方をして……わざと傷つけて、すまない。ウィーゼン。
「だが実際は薬師ベルドに伺うしかなかった。……これが、私とあなたの立場の差だ。あなたすら自覚がなかった格差だろう? 持つものと持たぬものの差」
ウィーゼンはフィアを見た。衝撃を受けている……そんな顔だった。
「本当の名を対等に告げ合うこともできないのに……未来を共にすることなどできない。さよなら、ウィーゼン」
フィアは、彼が気付かない、気付く必要もおそらくない、世にはびこる不平等さをわざと抉った。
無自覚に自分がフィアを傷つけていたのだということは、ウィーゼンにとって痛みでしかないだろう。それをわざと突いたのだ。
そして、茫然とする彼を部屋から押し出した。
屈強な彼が、細い女の腕に抵抗することもなく押し出されてゆく。
その彼の前で、パタンとフィアは扉を閉めた。
わざと音を鳴らすようにして荒い手つきで、鍵をかけた。
……終わった。
フィアはすべての力が抜けていくかのように、ずるずるとそのまま座りこんだ。




