20 見入る
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「それにしても、あなたが来てくれてよかった。薬草はこれからますます必要になりそうなのです。今、国境は少々緊張状態にありましてね」
「緊張状態……」
「アドルの街でももう噂でお聞きでしょうが、我がギーリンランドルと隣国ケイリが手を結び、シーリンを手に入れるはずでした。少数民族の自治区。長年自治が保たれていたとはいえ、ギーリンランドルとケイリの申し出を受けると踏んでいたのですが……」
そこでエディは息をついた。
「少々の抵抗勢力が生まれることは予想していたのですが、我らの申し出をシーリン全体で全面拒否し、シーリンは完全に戦闘態勢に入ってしまったのです」
「戦闘ですか」
「シーリンの地そのものは、ここからも徒歩で数日かかる僻地ですからね、ここの砦はまだ荒れたようにはみえませんが……。実際には少しずつ負傷者が増えてこちらに運ばれてきたものもいます」
エディのことば、特に「負傷者」という言葉に胸が締め付けられたが顔にださないように必死にこらえた。
だが紫龍の胸の内は「ウィーゼンは、大丈夫だろうか。怪我で苦しんでいないだろうか」という思いがぐるぐると回りはじめていた。
この砦にいるのだろうか。それともどこかにいるんだろうか。
会いたくはない。結局は、会ってもどうしようもないのだ。
でも、心配は募った。
「ギーリンランドルの中枢部とケイリの方針によっては、戦乱が長引く可能性もある。そうすれば薬草や薬の供給は必須なので、あなたが運んでくださって薬師も喜んでいることでしょう」
エディの言葉に頷きつつ、フィアは心の内で息をついた。
エディと話したことで、ウィーゼンが嵐の中に伝えに来てくれたことは本当だったのだということがよくわかった。まだ戦火は広がっていない、けれども、状況はどう変わるかわからない――そういう状態なのだ。
このままシーリンを制圧できるか、もしくは中枢部がシーリンに手を出すのをやめるか、もしくはなんらかの協定が結びなおされるか……その分岐にいるのだろう。
きっとウィーゼンが紫龍の家にとどまる前は、ギーリンランドルと隣国ケイリはシーリンは抵抗することなく自治区をあけはなすとふんでいたのだろう。だからウィーゼンも砦での「仕事」はすぐ終わり、雨期明けにはフィアのところに戻ってこれると言ってくれていたのだ。
けれど、シーリンは抵抗した。
状況は変わってしまったのだ。
そういえば、ウィーゼンとシーリンは瀟洒な剣で戦うという話をしたのを思い出した。フィアの記憶もはっきりはしないものの、シーリンの民は女も男も細く長い剣を扱っていたはずだ。それは遠い記憶の絵本などにも描かれていた気がする。
あんな細い剣で抵抗して、ギーリンランドルが苦戦するというのは、地の利を生かして戦ったりなどしているのだろうか。
銀の髪の民たちが戦っているのだろうか――想像ができなかった。かといって、ギーリンランドル人たちが戦っている姿もよくは知らない。
フィアはいったいどこをどちらを何を応援したらいいのかよくわからなかった。
故郷の自治が守られることを?
それとも、自分がいちおう育ったギーリンランドルの勝利を?
答えはでなかったが、ただ、はっきりしているのは、ウィーゼンには元気でいてもらいたいということだったし、戦いなどなくなってほしいという願いだった。
つらつらと考えなながら、エディ―に紹介されるがままに砦を歩く。
兵士らしき数人とすれ違い、ウィーゼンが持っていたような大きな剣を持っている人も幾人かみかけたが、ウィーゼンとは出会わなかった。
兵士たちはみな揃いの軍服のようなものを着ていた。エディ、そしてすれ違った数人は、色の濃い生地の違う軍服を身にまとっているものもいて、たずねてみると身分や階級によって違うらしかった。
ウィーゼンはそのどちらの軍服も着ていたことはなかった。荷物にも見かけたことはなかった。
宿屋の息子はウィーゼンは軍の中枢の者で「斥候」で、シーリンの動向をさぐるための偵察でと言っていたが、それらこそ嘘だったのではないかと思えてきた。
「雇われ剣士」というのは本当で、こんな軍服も持っていなくて……。
そう思いつつ、でも嵐の夜、「斥候だろう!」と言ったとき否定しなかったことも思い出された。
石造りやレンガ造りのところがあるが、全体的に堅牢であるが装飾がなく、簡素な印象だった。
敷地は広く、庭のような空いたところには、数種の草が陽光に照らされ、放置されたかのように伸びっぱなしになっている。手入れされなくとも、緑の葉は美しくしげり、また夏の日差しに合う、赤や黄色の濃い色の花をつけている枝もあった。
それらを眺めながら、息をついたときだった。
「疲れましたか」
とエディに声をかけられた。
「……いえ、初めてで。砦って思っていたより広くて」
「守りのために、入り組んで建ててありますからね。兵士だけが入れる内部はもっと複雑にできてますよ」
エディがそう笑って答えたとき、突然、少し離れた別棟の向こうから大きな歓声が聞こえた。
びっくりして声をした方を見ていると、エディがフィアに笑いかけた。
「あぁ。稽古試合が始まりましたね」
「稽古試合?」
「あの建物の向こうが中庭になっていて稽古場があるんです。ちょうど稽古試合が始まったのでしょう。この歓声であれば、手練れのものが戦っているのかもしれない。見てみますか。そばで女性の影が見えてと気が散ってはいけないので、こちらの上階の窓から、遠目にはなりますが、試合場を見渡せますよ」
誘われて、フィアはうなづいた。
石造りの建物のひんやりとした階段を上る。
一階は湿気をともなっていたが、らせんの階段をのぼってゆくと次第に涼やかな風が小窓から通り抜けていくのに気付いた。
三階ほどの高さで、エディが窓がある簡素な部屋にフィアを案内した。
「ここからだとよく見えます」
いざなわれて窓辺にたつと、中庭が見下ろせた。砂地の広場で稽古場とおもえる中心の陣地は広くあけ、その周りに引かれた線ぎりぎりまで陣取っている。
「あぁ、今は格闘術のようです。ちょうど今から次が始まりますね」
「格闘術?」
「基本素手で戦うものですよ。実戦でしたら、もちろん武器も入りますが」
エディが指し示す。ちょうど人だかりから二人の男が出て来た。フィアは示された方に目を向けた。
「……二人とも強者ですね。しかも都合よくあの人が出てくるとは」
エディがそう言っていたが、フィアはもうその時、何も聞こえていなかった。
ただただ稽古場の広場の中央に立つ二人に目が釘付けになっていた。
正確にいえば、そのうち片方の大柄な男に、フィアの視線と心のすべてが奪われていた。
そこに立つのは懐かしくて恋しくて。けれど、会いたくなくて……でもやはり一目会いたいと願ってしまう男だった。
様相はフィアの記憶から変わっていた。
黒の癖のある髪は、今、短い髪になっていた。
上着だけ見物の者の方にざっと脱いで投げ渡していたが、エディと同じ色の濃い軍服に身を包んでいた。あのいつも持っていた大きな剣も持っていなかった。
けれど、遠目でも、フィアにはこの人だとわかる……そんな特別な人。
恋しい恋しいと夢見た男。
腕をまわし、抱き合い、頬を寄せ合い、口づけた相手。
宝のような時を過ごし、残酷にも別れを告げた恋人。
けれど、こうして錆び色の髪で新しい一歩を踏み出すきっかけをくれた恩人。
……ウィーゼン。
心の中だけで、恋しい名を呼ぶ。
元気だったのだ。ほっとした。
稽古試合などできるくらいだから、怪我はなく暮らしているのだろう。
……よかった。
試合開始の号令が響いた。
それと共に、フィアの目がとらえられるぎりぎりの速さで、ウィーゼンとその相手の男は前に踏み出し、あっというまに互いの身体を捕えていた。
フィアはそばに立つエディの存在も忘れて、ただウィーゼンに見入ったのだった。




