1 晴れた朝
紫龍がふと目を覚ましたとき、横で眠るはずの男はすでにいなかった。
手をのばし床をさぐれども、隣の敷布は冷えている。ただ、使い古した敷布の薄い感触があるだけだ。
身をおこすと、自身の長い銀髪が顔にかかり、紫龍は髪をかきあげた。
窓の木戸を閉めきってしまっている室内は、その傷んだ木戸の隙間からこぼれる光りが小さく差し込むだけで暗い。夜目がききにくい紫龍には、ほとんど何も見えない。
「ウィーゼン?」
声を出す。
昨夜、絶えず喘いだ後、水も口にせぬままに眠りについたせいだろう、乾いた声しかでない。痛みを覚えた喉に、紫龍は眉をしかめ喉をさすり、もう一度しぼりだすようにして男の名を呼んでみる。
返事はなかった。
紫龍は素肌の胸元のふくらみを隠すようにして、寝床の上掛けを身体に巻きつけ立ちあがった。
ちょうどその時だった。低く重たく風が唸るような音が聞こえた。
紫龍ははっとして、手探りで窓の木戸を押し開く。古く傷んだ窓の軋む音が響き、いっきに眩しい光が部屋を満たす。
紫龍は咄嗟に目を細めた。
「起きたか、紫龍」
落ちついた太く低い声がした。その声はとてもあたたかく穏やかで、昨夜、床の中で名を呼んでくれたときの甘い熱気は影をひそめていた。
「紫龍?」
再び名を呼ばれ、紫龍はまぶたをあげる。
広がる視界の先に、大振りの剣を手にした浅黒い肌の男が、朝日を受けて立っている。
まばゆい光の中に立つ剣士ウィーゼンは、黒の癖毛を武人らしく後ろでひとまとめにし、下履きと靴だけで上半身は逞しく鍛え上げられた身体をさらすという、いかにも朝稽古の途中という姿であった。
紫龍は目を細めた。
年は三十半ばだと言っていたが、中年にさしかかるというのに背にも腰回りにまったく無駄な肉がなく、がっしりと鍛えられた筋肉がしなやかな鎧のような体つきだ。それは多くの男の身体を見てきた紫龍もほれぼれとするものだった。
眩しい想いでその姿を目に焼き付けた紫龍は、再び名を呼ぼうと唇を開いた。だがしかし、視界に入ったものの鋭さに息をのんだ。
男の右手。その手は剣の柄を握っていた。そして、いつも鞘におさめられているはずの剣は、抜刀されて、鋭い刃を見せていた。
磨かれた刃が朝日を照り返している。明らかに鈍ではない剣を目の当たりにして、紫龍は胸がズキリと痛むのを感じた。
さきほどの唸るような音は、きっとこの大きな剣によるものだったのだろう。
――ウィーゼンが私を買ってくれるようになって二年経つけれど……朝稽古なんて初めてだ。
心の中で湧いた疑念を必死で押さえて、口をひらく。
「風が唸ったのかと思った」
そう紫龍が呟けば、ウィーゼンは屈託なく笑った。
「剣の音はめずらしいか」
男の無邪気な笑いに、紫龍はすこしほっとした。そして素直に頷いた。
「私の客には武人もいるが、基本的に剣はいつも鞘におさめられているか、寝台の横に立てかけられているものだから」
紫龍の返事に、ウィーゼンがほんの少し眉を寄せた気がした。
その表情で、紫龍は自分の返事が「商売女」としての「色」を微かに含んでいたことに気付いた。
紫龍はとっさに話題を流すように次の言葉をつづけた。
「それに、私の故国の者たちは、そんな大振りな剣は使っていなかった」
そう言うと、ほんの少し強張っていた顔をみせていたウィーゼンも、紫龍の話題に合わせてきた。
「……あぁ……紫龍はシーリン地方の出身だったな。あちらは細身の剣が主流だったか」
紫龍がうなづくと、長い銀髪がさらさらと鎖骨をなでるようにして落ちた。光を受けた髪はきらきらと輝いている。この髪の色と色白の肌、華奢な身体つきは西方の辺境に住む少数民族の特徴に近い。
紫龍が肩にかかる銀髪を払うようにしてウィーゼンをみると、ウィーゼンは目を細めた。
「シーリン地方では、おまえの髪のような瀟洒な剣を使うらしいな。細身の剣など、俺は扱ったことがない。力技が得意な俺にはあやつれんだろうなぁ」
「……シーリンなど、この大国ギーリンランドルからすれば、西方の鄙びた自治区にすぎない。あそこの瀟洒な剣が扱えなくても、何も困らぬだろうよ。あなたが持つ大剣の方が、よほど戦乱で活躍するだろう」
「そうかな」
「……それにしても、なぜ、今日は朝稽古など?……戦が始まるのか?」
問いかけると、ウィーゼンは是も否も答えず、ただゆったりと紫龍の方へと近づいてきた。
あばら家の窓越しに話をするなんて奇妙なものだと思うのに、紫龍はウィーゼンから目をそらすことができなかった。
「ウィーゼン?」
「……国境では、常に小競り合いがおこっているものだ。稽古しておかねば、腕がなまる、稽古の理由はそれだけだ。女にうつつを抜かして剣技の質が落ちたと同業者に笑われたくはないからな」
窓枠に肘をついて紫龍を眺め、ウィーゼンはそんなふうに言って笑った。それから、長い銀髪の毛先に指をのばしてくる。くるくると毛先を指にからめると、するりと放して、髪をもてあそんだ。
数度それを繰り返しながら、ウィーゼンは笑いをにじませた瞳で紫龍に問いかけた。
「……それにしても、紫龍。おまえ、恥ずかしくないのか?」
「なにが?」
「いや、こんな僻地の一軒だけのあばら家とはいえ、半裸に朝日浴びて堂々してられるなんて……気丈な娘さんだなぁと思って。まぁ俺の目には麗しく嬉しいことだが」
ウィーゼンの言葉に紫龍は肩をすくめて答えた。
「娘さんなんて言い方だと、ウィーゼンが遥か年上の男みたいだな」
「まぁ十の差はそんなもんだろう。それで娘さん、いい加減隠さないか」
「別に、ここにはあなたしかいないし隠す必要がない」
「俺の目に、その華奢で白い首筋やら鎖骨やらが映るのを照れたりはしないか?」
「いまさら? あなたは昨夜、油代がもったいないっていうのにランプを煌々とつけつづけていただろう。本当に困ったものだ。なぜ、そんな戯れを?」
紫龍の返事にウィーゼンは、嬉しそうに大口を開けて笑った。
「そりゃぁ目に焼き付けたかったからだ。ランプの明かりに照らされる紫龍はそれはそれは美しかったぞ。今、この朝日の中の紫龍も身惚れる輝かしさだ。しかも、その首筋には俺の名残がある。最高だね」
男の言葉に、紫龍はあえてわざとらしくため息をついた。そうして線を引くようにして、言う。
「まったく、私みたいな商売女に……。嫌われる客そのものだぞ?」
だが、商売女と線引きしたにも関わらず、ウィーゼンは顔色を変えるどころか、さらに明るく笑った。 朝日に負けないくらいのすがすがしさを伴って。
「いいじゃないか。この一週間は、紫龍は俺がひとり占めだ」
あっけらかんとした言葉に、紫龍は一瞬胸が詰まる。
返事ができなくなった紫龍に、ウィーゼンはたたみかけるように言った。
「俺がここにいる間は、お前の相手は俺だけだ。俺の痕なんて数日で消えちまう……でも、それがある間、お前は、俺のものだ」
強い言葉とうらはらに、ウィーゼンの表情は笑っている。
紫龍は、苦しくなって、ウィーゼンの視界からは隠れているであろう自分の手をぎゅっと握りしめた。
自分とウィーゼンの関係を履き違えてはいけないと、自ら律するように。
そして口を開いた。
「あぁ、消えるならいい。消えるまで、だ。……そろそろ朝稽古は終わりか? お腹もすいたことだろう。すぐに朝食を用意する」
痕が消えるまで……。
ならば、痕なんて、一生消えなくていい……そんな風に思う自分を、封じ込めるようにして、紫龍は朝食を用意するという建前を用意して、ウィーゼンに背をむけたのだった。