16 選ぶ道
見知った森を懸命に抜けた。
追ってにみつからないようにと獣道をかき分け森の中を通り抜けたからか、安物の靴はずいぶんと傷んでしまった。靴底がやぶれかけており足を痛めてしまうだろうが、それでも、捕まらなかったことに一番ほっとした。
なんとか街道沿いまで来たとき夕暮れにさしかかっていた。雨期が過ぎて夏季の今は、日が長いのがありがたい。夕暮れ時からもしばらくは空が明るいので、とにかく宿のありそうな町に行きつかねばと考えた。
道は、今まで通ってきた森を背に、三方に分岐している。
通りなれたトエルの街につづく東方へと行く道。
前にウィーゼンと歩いたリドの町に続く、南へ行く道。
そして北西に進む道。おそらく両親が幼い紫龍を連れて通ってきた道だ。この北西に進む道の最終地点は、国境の砦。ウィーゼンがいるはずの砦に続いているのだった。
三叉路の前を幾人もの人が通り抜けていく。馬車やに乗った人もときどき通ってゆき、そのたびに砂煙が舞い上がった。
三方の道を眺め、そのそれぞれの道を進んでゆく人をみやりながら、紫龍は、暑さで前髪をかき上げたとき、自分の前髪が馬車がまきおこした砂埃でガサガサになっているのに気付いた。
染めた後に切った前髪をあらためてつまんでみる。
「ガサガサだな……洗わないと」
そうつぶやきながら、なんとなく心が軽くなるのを感じた。
錆び色の髪。赤茶けたその色は、銀にくらべて暑苦しい……だけど、紫龍の眼には明るく映る。
銀の髪のときは布で巻き込んで外出して、身売りのために立つ裏路地についてから髪をさらしていたから、こんなに砂まみれにならなかった。
だがいまは、陽光にさらされ、砂埃にさらされて自由に風にふかれている。
夏の暑さで汗ばんだ肌に砂埃なんて心地悪い感触しかないはずなのに、紫龍は、今、自分の髪が風にさらされ、砂埃を受けていることに自由を感じた。
錆び色の髪で道を選ぶ。
今まで、東につづく道には何度も通った。身を売ってきた東のトエルの街に続くからだ。もう行きたいと思わなかった。トエルの街をもっと東に進めば王都に続くはずだというのも、なんとなく知っている。はっきりした道はわからないが、方角的にはそうだったはずだ。だが、王都を目指すほどの気持ちにはまだなれなかった。
ならば、ウィーゼンとの思い出のある南側のリドの町につづく南側に行こうか。ウィーゼンが言うとおり、シーリンとの国境から離れるにはうってつけの道かもしれない。リドになら今から急げば宿屋に泊まることもできるだろう。
……だが、前に宿屋の息子に出会ったのがリドだと考えると、行くのがはばかられた。あんな奴には二度と会いたくない、それが本音だった。
そしてもう一つ心残りなのは、もう南方へと進んでしまっては、一生ウィーゼンに会うことがないのだろうと思えることだった。
では、北西の道なのか。
ウィーゼンがいる砦の方へと続いてく北西の道。
砦までいきつくには、リドと同じくらいの小規模の町がいくつかあるはずだった。一番ここから近いアドルの街ならば、日が落ちきってしまう前に着くだろうし、女部屋の相部屋にはなるだろうが、まともな宿に泊まれるだろう。
薬草の店というのは、町ごとにあるものだから、きっと今もっている薬草や薬液を売れば少しは足しになるだろう。
そこまで考えると紫龍の胸は希望で高鳴った。
今までの道中、銀髪だとばれていない。染め粉はまだまだあるからしばらくは錆色に染め続けられるはずだ。
その間にもしできることならば、仕事を探せるかもしれない。薬草に関わる仕事、それが無理でも……身体そのものを売って男に抱かれる以外の仕事を探そう。自分の身や手を使って、なんでもいい技術を身に着けられるようなこと……。
砦の方向に進むということは『銀の髪を染めて、ここを離れろ』というウィーゼンの意志に反してしまう気はした。
けれど、少しでも砦に近いところに進めば、ウィーゼンの動向を知ることができるのかもしれないと期待する自分もいるのだった。
まだ未練があるのだ。
去ったウィーゼンに問い詰めたいきもちもあるのに、純粋に会いたい恋しい気持ちも同居する。
潔く気持ちを切り替えられない自分に呆れつつも、右腕につけたサークレットから作り替えた飾りをしゃらりとゆらす。
頭につける飾りは、「あの人のことを忘れないため」なのだとしたら、腕につける飾りにも何か意味があるんだろうか。そんなことを思って苦笑する。馬鹿みたいだ。
でも……髪は染めた。すくなくともこの道中、皆から振り返られることも、変な視線を感じることもなく、ここに立つことができた。
髪を風にさらして、人ごみに紛れるなんてこと、今まで経験したことなかったことだった。
この姿の今なら……ちょっとだけでも、近づいていいだろうか。
何も、砦に邪魔しにいくわけじゃない。
ウィーゼンのことを探ろうとするわけじゃない。
ただ、彼がどういうところで暮らし、どんな風に紫龍のところまで通ってきていたのか後をたどってみたかった。
紫龍は、北西に向かって続く道を歩きだしたのだった。
****
まだ空がうっすら明るい頃、アドルの街についた。
紫龍が知っているトエルやリドの町でも、夏季は夜風を味わうようにして、明かりをともした食べ物の屋台が並ぶことが多かったが、アドルの街もそのようで屋台がいくつもならび、香ばしい肉を焼く匂いや甘い菓子の匂い、外のテーブルで酒を楽しむ者たちなどが大通りに見られた。
治安は良いとも悪いとも噂に聞いたことがなかったが、たどりついてみると落ち着いた町に感じ紫龍はほっとした。
薬草や薬草辞典などいろいろ詰まっている大きな籠を背負っている出で立ちは、ここまでの道中で出会ったおしゃべりな農夫に、『親御さんの手伝いかい? 街に野菜を売りに行く手伝いをするなんて、えらいねぇ』と言われた。誤解も混じっているきがしたが、ギーリンランドルの人として不審がられず髪色や服装が自然に見えるのだと思い胸をなでおろした。
だが、さすがに夜に歩いているのはまずいだろう、籠を抱えて、表どおりのまともで荒れてなさそうな宿屋を探す。
森を抜けるときに傷んだ靴が、もう限界に来ていた。足裏に石の感触が伝わってくるくらいにすりきれている。
明日は、一番に靴を買うが修理先を探そう、そんな風に思いながら大きな籠を抱え歩き、一階が食堂で二階が宿屋になっている比較的明るくて清潔そうな店を見つけて入った。
だが交渉は難航した。
夕食時なこともあり人でにぎわう食堂で、大きな籠を抱えて入ってきた女一人の客を、その食堂の料理人を兼ねた店主らしき初老の男は、呆れた顔で、鼻のしたのちょび髭をピンピンさせながら言った。
「空き部屋? ないよないよ。どこぞの世間知らずの農夫の娘さんかしらんが、帰りそこなっちまったんなら知りあいの店や親戚んちに泊まらせてもらいな」
「金なら……なんとかある」
紫龍が言うと、男は呆れた顔から、心配そうな顔をした。それから小さな声で言った。
「おまえ、見かけねぇ顔だけどよ、どこの田舎から来た娘っこだ。今日は一人なのか、父親や男兄弟は?」
「いや……きょ、今日は……私ひとりで……この町もその……初めてで……」
「ははぁ、いつもは父親や男兄弟といっしょに街に野菜売りに来て、宿に泊まれてるんだな」
「あ、あぁ」
「……あのなぁ、覚えておけよ、宿ってのは女一人では泊まれないもんだよ」
「女部屋の相部屋もあるだろう?」
紫龍が尋ねると、主人は息をついた。
「あるにはあるさ。だが、女部屋っていうのはもともと数がすくねえもんだ。男も女も年寄りも子どもも行きかう大きな街だとか、女の巡礼者が多い聖地の近くの街なら女部屋もあるだろうけどよ。この町がつづく道の行先は国境と砦さ。きな臭いもんなしかないのに、まともな女の客なんてそうそういない。うちでは採算とれねぇから、悪いが女部屋やってねぇし、そもそもこのアドルの街じゃ、女部屋をやってるところはないだろうよ」
「そうなのか……」
声が沈んだからだろう、最初のつんけんした態度を少しゆるめて、主人は少し眉をさげて言った。
「家族や夫婦で泊まるってなら考えようもあるけどよ、女一人で宿に泊まらせて、万が一、男の客と問題が起きちまったら困る。今、泊まっている奴らはそんなにガラは悪くねぇが……それでも男客ばっかりのところに、娘さんを泊まらせるのは俺にもさすがにできねぇんだよ。そもそも満室だしな」
「そうか……」
紫龍は困った。
自分はいつも「身売り」の安宿、裏路地のところに泊まっていた。男と泊まる前提で用意されているような宿屋。
そこからすれば、大通りは、「まともな」女たちも宿に泊まっているように見えた。だが、それは女一人ではなかったか、もし女一人なのであれば、剣士などの腕に自身があるものってことだったのだろうか。
悔しさが募った。
女というだけで、なぜ一室も取れないんだという思い。だが、たしかに男が豹変する場合もあると知っている紫龍には店主の言い分もわかった。万が一客同士で問題があっては、まずい。部屋に押し入る、そこまでいかなくても、下卑たからかいなどをする……いくらでも考えられた。
「すまないが、うちには泊まれねぇ」
最終的な店主のことばに、紫龍はうなづき玄関を出た。
とはいえ、今夜、どうすればいいのか……行く当てがない。それこそ路頭で大荷物で立っているのもまずいと紫龍は思い、思案顔のまま宿屋の脇で立ち尽くした。
そのままアドルの街で残り二軒あった宿屋をたずねてみることにした。
だがもう一軒はもっと乱暴で邪険な態度で断られ、残る一軒は宿に踏み込んだときにすでに店主や使用人の紫龍の顔や身体を値踏みする目つきがいやらしく、不穏な空気を感じて自ら店から飛び出してきたのだった。
ぐるぐると街をまわり、結局、最初に断られた一階が食堂で二階が宿屋になっている店の前に戻ってきてしまった。
やはり野宿よりはましだと。頼み込んでみようか……そう考えたときだった。
食堂の客を見送りのためか、玄関まで出て来たさきほどの店主と、店前で籠を抱えていた紫龍の目があった。
「おまえ、まだこんなところにいたのか」
驚いた顔で、髭をぴくぴくさせながら紫龍を指さした。
「あ、あぁ……他もまわったんだが……」
紫龍が言うと、店主は白髪まじりの頭をかき困った顔をした。
「どこもダメだったか。でもなぁ俺のとこも、あいにく満室だしなぁ。これはあしらってるんじゃなく、本当なんだよ」
店主がつぶやき、紫龍との間に微妙な沈黙が続く。
その時、他方から野太い女の声がした。
「トルテの店主、何やってんだい」
紫龍が声の方向をみると、引き車を引いた白髪まじりの黒い髪をひっつめにした大柄な婦人が店主と紫龍の方を交互に見ていた。
店主がその声にハッとした顔して、すぐに笑顔になり片手をあげる。
「やぁミンダ、こんな夜に野菜売りかい?」
ミンダと呼ばれた女性は肩をひょいっとすくめておどけていった。
「そうだよ、アンジの食堂の店が今夜貸し切りで大繁盛だったのはいいが、途中で野菜と果物が足りないって、使いを寄越してきてさ。今届けてきたところさ。ほんと、あそこの若店主は段取りが悪いよ」
「ははあ、野菜を使いの者に押し付けず、一緒に引き車で運んでやる優しさがミンダの良いところだね」
「トルテの店主、褒めても今日は残り野菜もなんにもないよ、全部アンジの食堂行きさ」
軽口を交わした後、あらためてミンダという女性は紫龍を見た。
「それにしたって、この大荷物の娘っ子はどうしたんだ。町で親とはぐれでもしたかい」
「いや、それが親の手伝いで薬草を売りに出稼ぎにでも来たみたいだけどね、一人だったもんで暗くなっちまって帰り損ねたみたいなのさ。初めての一人のお使いで、」
「……容量悪い子だねぇ。長く町をほっつき歩いて、気付いたら夕暮れ、このまま帰路についたら真っ暗闇の森をとおりゃなならん、だから慌てて宿屋探しってわけだね。そりゃ、家でどれだけ家族が心配していることか」
ミンダの言葉に紫龍は俯いた。
「辻馬車もこの時間じゃないし。どうすんだい」
問われて困って俯いていると、隣で店主がミンダの方に一歩踏み出すのが見えた。
「なぁミンダ、お前さんとこの食料品店、奥の部屋あいていたよな」
「……なに、トルテの店主。うちにこの子泊まらせてやれって?」
「いやあ、何、無理にとはいわんが……。この細腕の娘じゃ、そうそう悪さはできんだろうし……」
店主とミンダが自分の方に視線を寄越したのを感じて、紫龍はどうすればいいかわからず、さらにうつむいた。
「まぁ私もだてに女の一人暮らしを長く続けてきたわけじゃないからねぇ……。ま、女同士、困ったときはお互いさまかね」
「そうこなくっちゃな、今度、奢るよ、ミンダ」
「ふん、材料はどうせ、私が運んでくるんだろ」
そう言いながら、ミンダという女性が、紫龍の前に寄ってきた。
あまりに急な展開で話が読めずにいた紫龍はまばたきを繰り返してミンダをみたが、ミンダは紫龍をじっと見つめた。
ミンダが言った。
「……綺麗な顔してる。これ以上、一人でいるのはまずいよ。私の家に、来な。泊めてやるよ」
「あ……ありがとうございます」
紫龍が返事すると、ミンダは「その荷物、ここに乗せて、ついてきな」と引き車を指し示した。
言われるとおりに薬草や辞典、底には金袋も入った大きな籠を乗せていると、
「よかったな、娘さん。ミンダはこの町の食料品店の女店主さ。気のいいやつだ。安心していい。だがな、これからは街にお使いくるときには、時間に気をつけて来いよ」
と店主に声をかけられた。
トルテの店主に紫龍は何度も頭を下げて「ありがとうございます」と言うと、「はやく、来な、はぐれちまうよ!」という声がして、あわててすでに進みはじめたミンダを追いかけた。
ミンダに追いついた紫龍は、荷車を引くミンダのすぐ横に立った。歩調をあわせながら、ミンダをてつだうように持ちてを取って荷車を引こうとした。
「……なんだい、手伝ってくれなくてもかまわないよ」
つっけんどんにミンダが言ったが、紫龍は「……泊めてくださってありがとうございます」と言って一緒に荷車を引こうとすると、もう止めることはなかった。
紫龍はミンダに歩調をあわせて、引き車を引く。それに合わせてギィギィという車輪の音がする。
靴は壊れたみたいで、とうとう足裏がすれているのを紫龍は痛みとともに感じた。だけど、一歩一歩が嬉しかった。
この初めて出会った人が、家に泊まらせてくれるといった。自分のような人間を……困っているからと助けてくれたのだ。そのことが嬉しかった。
日が暮れて、昼間の暑さがおさまり心地いい。
布を巻いていない髪。ウィーゼンがくれた……錆び色の髪。その色がくれた自由。
「あんた名前は?」
問われたとき、紫龍は少し思案したあと、するりと自然に答えた。
「……フィア」
かつてウィーゼンが呼んでくれた名だ。
もう彼と会うことも、呼んでくれることもないのだろうけれど……。
でも、ウィーゼンが呼んでくれたから再び大切に思えるようになった名前なのだ。そうでなければ、紫龍は身も心も紫龍のまま朽ちるか、またあのあばら家で誰かの暴力にさらされていたのかもしれない。
「フィアか。私はミンダだ、よろしくな」
ミンダは明るい笑顔でそう言った。
こうして、紫龍は自ら名乗って、この時からフィアになった。




