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14 志すもの

 ウィーゼンが去った。


 紫龍は、ただそこに立ち尽くした。

 ずっと立っているうちに、だんだんと力が抜けていって、今度はそこにしゃがみこんだ。

 床が濡れていた。

 それは、嵐の中を訪ねてきてくれたウィーゼンがいた証し。


「ウィーゼン……」


 雨滴を吸い色の変わった木の床を見つめているうちに、視界がぼやけていくのを感じた。


 これっきり、なんだろうか。

 もう会えないんだろうか。 


 信じるとか信じないとか、ウィーゼンが何かを偽ってただとか隠していただとか……さっきまで昂っていた気持ちが、冷えてゆく。


 今しがたウィーゼンが座っていた椅子に目をやり、その先の食卓の上の革袋を見る。


 染粉と種……。

 これだけを残して?

  

 染粉はともかく種まで持ってくるとなると、長期にわたって髪を染められるようにと考えてくれたのだろう。

 それほどまでに争いがはっきりしているというんだろうか?

 それともそこまで心配して、ここまで嵐の中を駆けてきてくれたのだろうか――……。

 そして、別れを告げるみたいにして、去っていくというのか。 


 紫龍の頬はただただ濡れてゆく。

 頬を伝った滴は、ウィーゼンが先ほどの濡らした床に染みこんでいった。



 ****


 

 嵐の夜から数日、紫龍は茫然としたまま、何の気力もわかず、ぼんやりと寝起きしていた。

 宿屋の息子から乱暴を受けたときも伏せってはいたが、まだ気分の浮き沈みがあり、感情の起伏があった。けれど、ウィーゼンが去った後、紫龍は怒りも悲しみもよくわからなかった。なにかもうすべてどうでもよくなって疲れたと思った。

 

 そうしてほとんど伏せっているような日々が何日が過ごしたある日、窓から、それまでにない明るい陽射しが差し込むのに気付いた。

 雨音は消え、小鳥のさえずりが聞こえた。木々が風に揺れているが、嵐とは違う、ささやきのような葉の揺れる音に、雨期が過ぎ去ったのだと頭の片隅で理解した。


 ――雨期が明けた。

 

 そう改めて思ったとたん、ふいに紫龍は自分の目に涙がにじむのを感じた。ウィーゼンが「雨期が明けた頃には迎えに来れると思う」と言ってくれたのを思い出したのだ。

 あの共にここで寝起きした数日間、あれはやはり夢だったのではないかと思い、また枕を濡らした。


 少しのことで心が揺れて涙ぐんでしまう、そんな自分ではいけないと思う自分もたしかにいた。けれど起き上がるのが怖くもあった。

 寝台から起き上がって、何かを口にして、何かを身にまとって、そしてまた生きていかねばならないと思うだけで、途方もなくすべてが苦しく感じた。

 このまま朽ち果ててしまえたらいいのに……。そんなことすら思って、ただ横になっていた。

 


 明るい陽射しが窓から差し込むようになって、二日ほど経ったころ。

 完全に雨期が明けたのか、連日快晴のようで、あばら家の中で横たわっているだけで身体が汗ばんでくるのを感じ、本格的なギーリンランドルの夏の暑さを感じた。

 

 背中にうっすらかいた汗が不快で寝返りを打ったときだった。ふと、粗末な机の上に置いたままになっていた薬草辞典が視界に入り、紫龍は目を細めた。

 両親が譲り受けた薬草の本。

 相当高価な本だったのだろう。質が良く品が良いながらも豪華な装丁は、背表紙が金字で書かれており、光を受けてきらきらと輝いていた。

 視界に入った文字をそのまま読む。


「や、く、そ、う、が、く」


 金にきらめいている文字はシーリンでも、キーリンランドルでも使われている見慣れたもの。他の薬草の本も同じ文字。昔から使っていたものだ。

 ぼんやりそれをながめていた紫龍は、今さらながらに、両親はシーリンから出る際、わざわざキーリンランドルで使われている文字の本を選りすぐって持ってきたのだと悟った。

 紫龍はシーリンで使われていた文字をおぼろげに覚えている。だがすべてではない。両親も教えなかった。この薬草の本で薬草の知識を教えるときも、キーリンランドルでも使われている言葉や文字、草の名前で教えていた。

 それが当然だと思ってきたし、あまりに毎日の生活に追われていて、不思議に思うこともなく来た。

 だが、今、銀の髪を持つゆえに……このキーリンランドルではめずらしい容姿を持つゆえに苦しみがつのってゆく紫龍には、シーリンの容姿を持ちながら、自分には故郷であるはずのシーリンの記憶があまりないことを皮肉に感じた。

 銀の髪をして、キーリンランドル人とは思われない姿をしているのに、シーリンの民としては、シーリンの言葉を断片的に覚えているだけ、文字もいくつか記憶にあるのみ。そのことは、痛烈に胸を刺した。


 ……私は、シーリンの容姿でありながら、シーリンの言葉も文字もまともに扱えない。かといって、キーリンランドル国のことを知っているかといえば、まともにキーリンランドルの文化を知ることもなく、せいぜい客が枕元で話す噂話くらいしか知らない。

 私はいったいなんなんだろう。

 私は……何者なんだろう。

 

 心の中が虚ろになってゆくようだった。

 自分には何もない。そんな気がして、この寝台に横たわったまま谷底に落ちてゆくような感覚に陥った。空虚なぽっかりあいた穴にはまりこんで、落ちてゆく――……。


 そのときだった。

 風が通った。

 粗末な窓からも、夏の暑さをゆるめてくれる、涼やかな風。

 紫龍は風を感じて目を閉じたとき、その肌を冷やしていってくれる風の中に甘い花の香りが紛れているのに気付いた。


 ……あぁ、家の前のセツの白い花が咲いたのだな。セツは、葉は傷に、根は熱さましにいい……。


 無意識に薬草の効能を頭の中で振り返っていた。

 そこにつながるようにして、


「……父が教えてくれた、最初の薬草。母が、私が切り傷をつくると、よく葉を揉んで手当してくれた」


 過去の想いでがよみがえる。

 甘い花の香りだけでなく、葉を揉んだときのちょっと癖のある苦味を思わせる匂いまで思い出された。

 

「薬草、か……」


 紫龍はふと思った。


 私には、シーリンのたしかな記憶もなく、ギーリンランドル人としての確証もない。

 だけど……薬草は……知っている。


 両親が死んで以降、村の者たちにとがめられるので、あくまで森に自生しているものを摘むしかできていない。だが、両親が生きているときは、どこからか薬草を手に入れてきて、その匂い、感触と共に効能を教えられた。今思えば、あれは身を売った金で紫龍に薬草学を伝えるためにわざわざ薬草を買ってきたり、分けてもらっていたのではなかろうか。

 紫龍に薬草学を伝えるために、身を削ってくれたのではないか。

 シーリンのことは教えてもらえなかった。ギーリンランドルの学び舎には通えなかった。

 だけど、精いっぱい、薬草のことは教えてくれた。


 目をひらければ、あいかわらず古びた机の上にある薬草辞典。

 それを見つめていると、その辞典を開いていた父の真剣な横顔、その隣で薬草を並べ天秤で量をはかりつつ、すこしずつとりわけ乳鉢で擦っている母、二人の背に揺れる銀色の髪の美しさ、静かで落ち着いた横顔に子ども心に憧れたこと――そんなもうとっくの昔に忘れ去っていたことを思い出した。

 薬草のちょっと苦い匂いや、甘い匂い。草によって違う感触。黴を生えさせない干し方、保存の仕方……。

 彼らは時に厳しすぎるくらいに、紫龍に伝えてくれた。


 ……私は……私は、立ち上がれるだろうか。


 紫龍は、胸いっぱいに息を吸った。また香ってくる、セツの花の甘い香り。

 

『雨期は辛いけれどね、このセツの新芽は雨期のおかげで、大きくなる。そうして、雨期が明けると、可愛らしい花を咲かせる。太陽の日差しは苦手でね、こうして大木や家の陰でひっそりと花をつけて目立たないあ。だけど、この葉は……』

『あたし知ってる! 傷によく効くんだ!』

『そうだ、フィアールカ。葉は切り傷、擦り傷に。そして、根は……』


 父の落ち着いた声。母はあまり話さなかった……そう、今なら想像がつく、キーリンランドルの言葉が不得意だったからだ。

 話しても、父に教わるせいか、女らしい言葉づかいではなかった。

 だから紫龍も、なんとか客を取るときには取り繕って女性らしい話し言葉をつかおうとするが、自然体では使えないのだ。

 紫龍はぐっと拳を胸にあて祈るように目を閉じた。

 

 ……言葉すら不自然……そんな私。けれど、両親だってきっと何かがあってシーリンの地をあとにして、ここで、必死にほんとうに必死に暮らし、自分を育ててくれた。薬草師にしてくれた。

 ……私が生きていくのを願ってくれたのだ。


 紫龍は一度息を吸ってから、しぼりだすように言った。

 

「……私は……シーリンの民でもギーリンランドル人でもない。だけど、薬草師だ」 


 紫龍は思い切って、寝台から身をおこした。ずっと横になっていたせいか、頭がくらくらする。落ち着いてから、つくえの上に手をのばした。

 放りっぱなしになっていたウィーゼンから渡された革袋を手にした。

 

 髪を染めて……そうしたら、何か開けるだろうか。

 ウィーゼンを失ったけれど、その変わり、得るものがあるというんだろうか。

 そんな思いと「どこに行っても結局同じだろう」という想いも少し行き来する。


 ただ、このまま雨期が明ければ、また、あのトエルの街の宿屋の息子がこちらに押しかけてくるかもしれない。そうすれば、また一方的な暴力にさらされることになるのかもしれない。


 ……もう嫌だ。あんな目にあうのは、もう嫌だ。


 それなら、せめて髪を染めてみようか。何かが変わるだろうか。

 ここ数日、ほとんど水だけを口にしていたような日々になってしまい、ずいぶんと痩せてしまってふらふらしていた。

 だが、紫龍は足に力を入れて立ち上がった。

 

 薬草辞典を撫でる。

 紫龍は、薬草辞典の隣に置いてある、千切れたサークレットの破片を手にした。

 

「ウィーゼン……」


 結局、初めて恋した人の真実、はっきりしたことは何一つわからない。


 ただ、嵐の中、彼は染粉を届けに来た。

 それほどの何かがあるならば……使ってみよう。

 彼が贈ってくれた精一杯を受けとってみよう。


 紫龍は、思い切ってウィーゼンが残した染粉の入った革袋を手にしたのだった。




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