13 別離
ウィーゼンのあまりの濡れように慌てて家に招き入れた紫龍は、彼には椅子に座ってもらい身体を拭く布を渡し、スープをあたためなおそうとした。
けれどウィーゼンが遮った。
「……時間がないんだ。すぐにまた仕事に戻らねばならない」
その言葉で、この深夜の思わぬ来訪がさらに不審なものに思えた。紫龍は、
「そうなのか」
とそっけなく返事しながらも、次に何を言われるのかと身構えた。
「あぁ……仕事が思ったより複雑で忙しくてな」
「大変だな」
そう答えながら、紫龍はウィーゼンがいつもの大振りの剣を持っていないことを目で確認する。砦に置いてきたのか、どこかに人を待たせているのか。
どちらにしても、紫龍を迎えにきたわけではない。
さらに、彼のいう「仕事」というものが、宿屋の息子の話が本当ならば「斥候」だとかいうもので、シーリンの情勢などを偵察する仕事。それが複雑で忙しいというならば、シーリンと一触即発の状態なのかもしれないと考える。
けれど、紫龍はあえて尋ねた。
「雨期が明けて……仕事を終えたらここに戻ってきてくれるんだろう? 王都に連れていってくれるんだろう」
かつて、こんな風に自分からねだるようなことを口にしたことはなかった。
けれど、今はすがる思いでそう言った。
するとウィーゼンは俯いた。
「……その話なんだが……難しくなった。砦で任されている任務が長引きそうだ」
「長引いてもいい、待ってる……と言ったら?」
紫龍がたずねると、ウィーゼンは目を伏せたまま唇を一度ぐっと引き結んだ。
沈黙が続く。
ウィーゼンの濡れた黒髪から滴がおちて、木の食卓に染みこんでいく。
彼が膝の上におく手をぐっと握りこぶしにかえたのを紫龍は見つめていた。
嵐が家を揺らし、雨音は大きな騒音となっているはずなのに、今、ウィーゼンと自分の間はあまりに静かだと紫龍は感じた。
「……連れていくことが、おそらく、当分は……出来ないんだ」
歯切れの悪い言葉。いつものウィーゼンとは違う言葉選びに、ウィーゼンは紫龍にはっきりとは話せない何かを抱えているのだと明らかにわかった。
紫龍は、かろうじて、
「あぁ……そうなのか」
と返事だけ、した。
そう口にしながら、「なぜ」と問えないの自分が弱いと思った。
紫龍がまた黙りこむと、ウィーゼンが自分のマントの下から皮袋を取り出した。
「フィア。今日ここに来たのは、これを届けたかったんだ――……。使ってくれ」
「なんだ?」
受け取ると、懐で守られていたからだろうか、袋は濡れておらず、ただウィーゼンの体温がうつったのかほのかに温かだった。
紫龍が皮袋の口をゆるめて中身を食卓の上に出す。
「これは……」
驚きで、言葉が消えた。
それは、髪を染める染粉だった。それも、市場で売られるすぐに染色が抜けてしまうような染粉ではなく、上流階級の者が使うであろう見るからに高価で希少な質の染粉だった。
戸惑いと困惑の表情を隠せない紫龍の前で、ウィーゼンは落ち着いた声で一つの瓶を手にとった。
「これはかなり上質の染粉だから、少量で染められる。しかも一度染めた部分は、落ちない。フィアの銀の髪なら、濃い茶色になるだろう」
説明されるが、うまく頭に入ってこない。
それくらい衝撃だったのだ――染粉を渡されることが。
呆然としている紫龍をよそに、ウィーゼンは説明をつづける。
「それから、これはこの染粉の元となる植物の種だ」
見せられた種子をみて、紫龍はさらに驚いた。
「それは……限定された栽培師しか手に入らない種子だろう!?」
「基本的にはそうなんだが……うまく手に入った。薬草師のフィアだから、育て方、用い方はわかるな? これを育てて加工すれば、染粉はずっと得られるはずだ」
「育て方はわかる……わかるが、なぜこんな貴重なものを……どうして……」
紫龍がたずねたが、ウィーゼンは茶色の種を袋にもどすと丁寧にまた袋の紐を縛り、無言のまま紫龍の手に押し付けた。
「……どうして」
かろうじてそう尋ねるのが精いっぱいだった。
胸を占めるのは、なぜという問いかけばかり。
染めろというのか?
この髪が好きだと言ってくれたのではなかったのか?
それとも、髪を染めたら、王都に連れて行くとでもいうのか?
心も頭もなにも整理できずにウィーゼンを見つめるしかない紫龍に、しばらく黙っていたウィーゼンが、いちど深呼吸をしてから口を開いた。
「フィアールカ、聞いてくれ……近々、西方の銀の髪の者達とギーリンランドル軍は一戦を交えるらしいんだ。俺は雇われている砦でその情報を得た……それで、ここに来たんだ」
重々しい言葉に、紫龍は胸がぐぅっと締め付けられる思いがした。
雇われている砦……。
ウィーゼンはあくまで自分は雇われ剣士であるという立場で話している。
紫龍は複雑な思いのまま、ウィーゼンの目を見返す。
真剣なまなざしは、信じて良い気もするし、すべてがごまかしのようにも思えた。
「……ギーリンランドル軍たちにとって、フィアの銀の髪は敵と同様な姿に見えてしまう。ここはギーリンランドルの地、フィアがギーリンランドルに住む者であるとわかっていても、フィアの姿をみて敵軍を思い出し、たとえばフィアに無体をはたらくかもしれない。人買いが動くかもしれない。戦乱がここまで及べば、村や街の人も銀の髪を敵視するかもしれない」
「……」
「黒や茶の髪ばかりの中で、銀の髪は目立つ……だから、染めて……できるならば、身を隠せないか」
「何を言ってるんだ」
「無茶なことを言っているのは承知だ。だが、今、俺がフィアを安全なところまで送ろうとすれば、俺が不在なことで、逆に追っ手がついてしまう。そうなれば、それこそ俺だけじゃなく、フィアにまで制裁がいってしまう。……これしか……これぐらいしか、フィアの安全を守る術が今の俺にはない。どうか髪を染めて、もっと南方へ……」
言葉を並べるウィーゼン。
紫龍は、
「それで……私に髪を染めて、ここを離れろと言うために、染粉と種をわざわざ持ってきたのか……つまりそれは、別れなのか」
とあえて尋ねた。
『別れ』という言葉を口にしたとき、ウィーゼンがぐぅっと一度唇をかみしめた。それから絞り出すようにして、
「……王都に連れていってやれず、すまない。だが、今はフィアに……生きて……生きていて欲しいんだ」
と言った。
そんな言葉が聞きたいわけではなかった。
紫龍は、王都に行けるかどうかが問題ではなかった。
「あやまって欲しいわけじゃない」
「怒るのももっともだ。約束を違えたのだから……。俺も、出来ることならフィアを連れていきたい……だが、今、情勢が悪すぎるんだ。できるならば……できるならば、フィアを迎えにきたいが――……」
「もう黙ってくれっ!」
紫龍はこらえきれず叫んでいた。
ウィーゼンから顔をそむけ、我が身をだくようにして腕を組んだ。
「フィア……」
「もうたくさんだっ! 偽りは、たくさんだっ!」
胸の内がはじけるようにして言葉となった。
「偽りなど……」
「私は……私は知ってるんだ。ウィーゼンは……おまえはっ! 斥候ってやつで……偵察してるんだろっ! 私を調べあげるためにここに通っていたんだろ!」
ウィーゼンから顔をそむけていたのに、明らかにウィーゼンの動揺が伝わってきて、彼の驚きの大きさに、紫龍は自分の叫びが間違っていなかったことを悟る。
胸が切り裂かれる気がした。
「私の……、この私の髪が銀色だから、シーリンを手に入れるための情報が欲しかったから私に近づいたんだろう! 悪かったな、私には何も情報がなくて! 出身はシーリンかもしれないが、残念ながら、ほとんどこのギーリンランドルで育ったからな、何も出てこないさ!」
「フィア、違う……」
「なんだよ、この染粉……種、手切れのための最後の贈り物か? シーリンとギーリンランドルの関係が危うくなってる情報を得たから、だから、お情けで心配してくれたのか? 染めろって? 逃げろって? 馴染みの売春婦が他の軍の慰め者になるかもしれないと心配してくれたのか?」
ガタンっと音をたてて椅子を倒すくらいの勢いで紫龍は立ち上がった。
「フィアっ!」
「もう帰ってくれ……。どうせ、ウィーゼンという名も嘘なんだろう? 王都に連れて行くなんて夢も、寝物語だったんだろう……。いいさ、それで、少しでも夢見て、私も幸せだった! それで、もう充分だから……私が変にお前を……ウィーゼンという名の男を……好きに……好きになってしまったのが、馬鹿だったんだから」
ぼろぼろと涙がこぼれてゆく。
裏切られたわけではない。
そもそも自分は身を売る女でしかなくて、ウィーゼンはちゃんと金を払ってくれる客で、紫龍を直接傷つけた何かがあるわけじゃないのだ。
たしかに小さな約束はあったが、こうして無理になったと告げにきてくれたくらいなのだ――手切れ金変わりの染粉と種まで用意して。
客としては上等だろう。あまりに優等生な客だろう。
なのに、今、紫龍は自分の胸が傷だらけになってだらだらと血が流れてゆくような気がしていた。
「フィア……多くのことを説明している時間はないんだ。だが、出会いは出会いはたしかに任務がきっかけだったが、そのあとは……そのあとここに通ったのは、私がフィアにあいたかったからだ」
熱い言葉だった。
けれど、きりきりと胸が痛み、心がいっぱいいっぱいになっている紫龍には、ウィーゼンの言葉の内容よりも、いつも「俺」というウィーゼンが「私」と自称したことの方が勘にさわった。微妙に丁寧な発語も気に入らなかった。
それはまるで貴族や金持ちたちの話し方に似ていたからだ。切羽詰まった今になってそんな話し方をするのは、まさにウィーゼンが雇われ剣士ではない証拠に思えた。
紫龍は、ぐっと手を握り締めた。
「……会いたくて会いに来てくれていたんだとしても……それを信じたとしても、もうこれからはどうしようもないんだろう? 私とウィーゼンの道は重ならないんだろう?」
「今は……いまは……」
呻くようにウィーゼンが返事するのを、紫龍は遮るようにして口を開いた。
「軍の者ってことは、私の故郷を討つんだろう?」
自分が思っていたよりも、冷え切った声が出た。
ウィーゼンが朝稽古でふるっていた剣よりも冴え冴えとしているかもしれない。
こんな声が出せるのだ、自分は。
刃の声を。
「私と同じような銀の髪の者たちを一掃するのか? 全滅させるのか? それとも屈服させて、奴隷にでもするのか?」
「違う、フィア……フィアールカ。シーリンは強い、討たれたりしない」
「何を! ウィーゼンは、この大国ギーリンランドルの軍のエリートなんだろう?弱気なことを言うな。気をつかってくれなくていい、全滅させるのだと言ってくれていいぞ」
ひやりと皮肉を言う紫龍に、ウィーゼンは首を横に振る。
「本当だ、フィア。シーリンは強い。男も女も戦闘能力が高い、我々は苦戦するだろう――だからこそ、ギーリンランドル軍は銀の髪の者を憎み、敵視する可能性が高いから……これを持ってきたんだ。……情勢によっては、銀の髪というだけで下手すれば、殺される、そんな状況になってからでは遅いから……」
紫龍はウィーゼンの言葉ひとつひとつがわかるようでわかりたくなかった。
遠まわしに別れを告げて、去っていこうとしているようにしか感じなかった。
頑なにウィーゼンから顔をそむけてしまう。
そんな紫龍に、ウィーゼンは語り掛けてくる。
「フィア。フィア……もう行かねばならない。でも聞いてくれ」
声を潜めた。
苦しそうに。
「ギーリンランドルと隣国ケイリは、シーリンを制圧することはおそらくできない……だから、傷ついた多くの兵士が荒ぶり、この森を抜けるだろう。酷ければ、国境あたりまで戦火が広がる可能性もある。銀の髪が見つかれば、きっと無事ではすまない」
「……」
「フィア。シーリンの地は資源が豊富だからギーリンランドルは手を出したが……それは間違いだったんだろう。シーリンの民は強い……その血を受け継ぐフィアを、私はそのまま受け入れたかった。なのに……こんな染粉を持たせるまねをしてすまない。隠せと言ってすまない……だが、本当にこのままでは危ういんだ。俺が……俺が、どこか安全な場所に連れてやれたらいいんだが……」
ウィーゼンはくやしそうに一度唇を噛んだ。それから吐き出すようにため息をついた。
「……運よく嵐が来たから、私も雨風にまぎれてここに来れたが……俺の不在に気づけば、仲間が追ってくる。ここを暴きかねない。……そうすれば、フィアに手が伸びる。俺がいることで、フィアを危険にさらすだろう……もう戻らねば」
ぎゅっとにぎられ抱きしめられた。
拒もうとしたが、拒みきれない自分もいた。
信じたい――ウィーゼンが自分を愛してくれていると。
でも受け入れがたい――ウィーゼンが偽りを並べて紫龍の元に来ていたことを。
好きだからこそ、辛い。
そして、何よりも、今、別れを告げんばかりにして抱擁してくることが。
その時だった。ウィーゼンの唇がそっとフィアの額に触れた。
「……つけてくれていないんだな」
責める口調ではなく、ただ、ほんの寂しそうな声で言った。
壊されたとはいえず、紫龍は沈黙する。
そんな紫龍の黙した姿をどのようにとらえたのか、ウィーゼンが微笑んだ。
「でも、いい。あれを売って金にして、とにかく……身を隠せ」
まなざしがかちあう。
ウィーゼンの濡れた前髪のむこうの目は優しかった。
思わず名を呼ぼうと思う。
けれど、『ウィーゼン』という名が本名でないかもしれないと頭をよぎり、口をつぐんだ。
ウィーゼンは腕を解放し、紫龍の銀の髪を指でそっと流すように撫でた。
「……元気で。……共にあれず……すまない」
そうして、彼は飛び出すようにして嵐の中に戻っていってしまった。




