12 嵐
自分の悲鳴で目が覚めた。
飛び起きて、とっさに回りを見る。
誰もいない……身体を縛られたように感じたのは、寝汗にまみれた身体に寝床の布が絡みついただけのようだった。
大きく息をして、それでもまだ誰かが潜んでいるのではないかと恐れながら、窓の方をみる。
夜鳴き鳥の声がかすかに聞こえる。まだ夜は明けていないようだった。
紫龍はなんとか身を起こしたものの、湯を沸かすだけの力ははいらず、水瓶から水を汲み、身体を拭った。
ランプをともすと、宿屋の息子が乱暴を働いたせいで、身体のあちこちに痣ができているのがわかった。
爪や歯があたったのか切り傷や擦り傷もあり、水が染みる。
紫龍は身体にうかびあがった紫や青いいろの痣を何度もこすった。赤い痣などは、さらに傷ができるのではないくらいに、何度も何度もえぐれるくらいにこすった。
こすって消えるわけではない。
この傷も、この身にあったことも。消えるわけではないのは頭ではわかっていた。
けれど、すべて消したかった。こすってこすって、こすり続けたら少しでも何かが今よりもましになるんじゃないかと思った。
すりすぎて、皮膚が擦り剝けてきてやっと、手を止めた。
手を止めたら、今度はふつふつと腹のなかで湧いてくるものがあった。怒りのようでもあり、悲しみのようでもあった。
あぁ、そもそもこの傷ができないよう、抵抗などせねばよかったのだろうか。
あの男も怒鳴っていたではないか。『どのツラ下げて、まっとうな女みたいな顔して拒んでんだよっ』と。
結局はすべて無駄なことだった。
抵抗したって、守るものなど何もないのに。
無駄なのに。
ここ数日の薬草の勉強も。……ウィーゼンを信じたことも。
全部、無駄かもしれないのに。
いや、でもまだ、心の中ではまだ信じている。
ウィーゼンは、たしかに最初は『仕事』で私と一夜を共にし、『仕事』で偶然を装いこのあばら家に通ってくれていたのかもしれないが、その後に私を好きになってくれたのではないか……と思っていた。
そうでなければ、わざわざ王都まで行こうと誘ってくれるものか。
私はシーリンから離れて久しい。私から引き出す情報は何もない。そんなこと数回通えばわかっただろう。それでも通ってくれたのは、私を特別だと……心が何度もそう叫んでいた。
けれど、そこによぎるのは、あの宿屋の息子の言葉。嘲笑。
……騙されている。これからも、騙される。
そういう想いがよぎってしまう。
その想いをすくって、冷めた自分が心の中で言う。
銀の髪であること、西方から来た人間であるからこそ紫龍を選び今まで通ってきていたのだとすれば、宿屋の息子が言うように、王都に行こうというのも何かの罠なのではないか、と。
この銀の髪や紫の目という外見が何かに利用されようとしてるだけなのではないか、と。
信じたい……。
でも、自分自身こそがウィーゼンを信じ切ることができないでいた。
****
宿屋の息子との一件の後、悶々としたまま家にいる日が続いた。
あの宿屋の息子の言葉が離れられず、信じたい気持ちと信じられない想いに揺れ動く日々だった。
自暴自棄になり、再び夜の街に立ってやろうかという気持ちになった夕暮れもあったが、幸か不幸か宿屋の息子がつけた痣や傷がまだ癒えておらず、客に買われても白けさせるのがせいぜいだろうと止めた。
逆に、朝から夜まで涙が止まらぬ日もあった。なぜウィーゼンがここにいないのか、会いたくて会いたくて仕方がなくて、ただそれだけが頭も心も占めてしまい、自分でも呆れるくらいに涙が出た。
安定しない心を抱えたまま、紫龍はからりと晴れることのない雨を戸口から見つめ、明けぬ雨期を恨むように曇天を見上げる日々が続いた。
「今夜は嵐か」
降り続く雨が、特に激しく、風もある夜だった。
この嵐だとあばら家が吹き飛ばされそうだなと苦笑しながら、鍵替わりの扉のつっかえ棒を内から強くはめこんだ。強くなる雨足が、屋根も木戸も強くたたいており、あばら家全体が太鼓のようだった。 そこに風も加わり、ぎしぎしと家をきしませる。
静かな夜とは言い難いなか、眠れぬ紫龍は、ランプをともし、千切れた鎖とそこにまだかろうじて連なる小さなビーズを明かりに照らしてきらめくのを見つめていた。
宿屋の息子が力任せに奪った後、残った破片、千切れた鎖。床に散らばっていた小さなビーズや光る石は見つかる限り瓶に集めた。
それらをランプに照らしは眺める。
……ウィーゼン。
贈ってくれた男のことを思い出し、同時に、宿屋の息子の暴言や嘲笑が頭を横切る。
嵐があばら家を潰さんとする音に包まれながら、もしこのまま家が潰れてしまい我が身も朽ち果ててしまったら、ウィーゼンは泣いてくれるのだろうか……と考える。
すぐさま冷静な自分が、そんなことを考えるのはあまりに愚かだと嗤う。裏切られているのに、まだ涙をあの男に求めるのか、と。
反論するように、いやウィーゼンならば偲んでくれるだろうと心が叫ぶ。
紫龍は、千切れた鎖をつまみ、揺らす。
シャラリと微かな音がする。
サークレットとして頭に飾るにはあまりに短くなってしまった鎖。大きな石も失われた。けれど、小さな石だけが残る鎖でも、ランプの灯りをキラキラと照り返して美しかった。
『……髪や額飾り、頭につける飾りをおくるのは、この国では『ずっと俺のことを忘れるな』っていう意味なんだ』
ウィーゼンの言葉が思い出される。
鎖は切れ、頭を飾ることができなくなった。……忘れてしまえってことだろうか。
忘れてしまえたら……いいんだろうか。
このまま雨期が明けて、もし、もしも約束通りウィーゼンがここに来てくれたとしても、私は笑顔で迎えらえるだろうか。
信じられるだろうか。彼が王都に連れていってくれると言っても、その伸ばされた腕が彼の愛情からくるものだろうと……思えるだろうか。
答えの出ない物思いがぐるぐると続く――……。
そんな中で。
ドンドンッ。
激しい雨音とは違う、戸を叩く音を耳が拾った。
ドンドンドンッ。
再び扉が雨風とは違う不自然な音を奏でた。
「誰だっ」
先日の宿屋の息子かと一瞬怯えた。だが、あいつなら戸を叩いてから入るという気づかいすらないはずだと思い当たる。
だが怖くて、戸を止めるつっかえ棒を外しにいく勇気がでない。
その時、息を切らしたような声が紫龍の耳朶を打った。
「俺だ……ウィーゼンだ」
紫龍は目を見開き、扉を見つめた。
……ウィーゼン? まだ雨期はあけていない。しかもこんな嵐の真夜中に……なぜ。
すぐに扉を開けに行けなかった。今までであれば、飛びつくように扉を開いたのに。
今、どんなにウィーゼンを信じたいと思いながら、あの宿屋の息子の言葉が頭の中でめぐっていた。
扉を開き迎え入れてしまったら、裏切られるのではないかと怯える日々がはじまる――……。
だがその時、雨脚が強まったのか一層雨が屋根を打つ音に激しさが増した。
そこに、扉のむこうで小さくくしゃみの音が混じった。
はっと我に返った。
どちらにせよ、雨の中に立たせているわけにいかないだろう……。
自分に言い聞かせるみたいにして心の中に言葉をならべ、紫龍は立ち上がる。戸を閉めるつっかえ棒をそっと外し、戸を開いた。
そこには、びしょぬれで立つウィーゼンの姿があった。




