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10 かつての名


 問われてすぐには返事ができなかった。

 本当の名前など使わなくなって久しい。もともと親くらいしか呼ぶことのなかった名前だった。


「……もうずいぶんと使っていない。薬草師の資格証にだけ書かれてはいるが、通称は『紫龍』で、もう呼ばれたこともない名だ」


とはぐらかすように返事した。

 けれど、ウィーゼンは小さく粗末なテーブルの上にある紫龍の手に手を重ね、力を込めるように握り、もう一度問うてきた。


「紫龍を名乗る前の名前があるんだろう? 呼んでみたい」

「……」


 紫龍は口にするかどうか迷った。

 誰も呼ばない名。両親亡き今、このギーリンランドルの地において古びた薬草師の資格証だけに記された、文字だけの名。それを今さら口にしていいのかどうか戸惑いがあった。

 紫龍自身は、もうとうの昔に愛着など捨てていた。それは、名を呼んでくれたたった二人の人であった両親を失ったときに封じたのだ。

 けれど、ウィーゼンの望みであれば、再び口にするのも良いのかとも思った。

 

 紫龍はふうっと息をついた。そして長く口にしていない音を出す。

 

「……フィアールカ」


 久々に故郷の発音を口にした紫龍は、一度自分の名を言うと口を閉じた。ウィーゼンはそんな紫龍をじっと見つめた後、


「フィア……ル、カ」


と、たどたどしく発音をまねた。途切れてはいるが、名を呼ばれ、紫龍は胸が熱くなった。

 だがそれを押し殺して、笑みを浮かべた。


「もう……昔の名だ。呼びにくいだろう。紫龍でいい」


 紫龍の手を握るウィーゼンの手に力が入った。


「フィアールカ」

  

 もう一度ゆっくりと呼ばれた。

 その語音が耳に届いたとたん、紫龍は眼裏に、父や母、わずかに残る故郷の晴れ渡る緑の丘を思い出した。


 本当に幼い頃、おそらくピクニックをした緑の丘。淡い青空、小さな花をつける草花たちがさわやかな風に揺れていた。

 父と母が名を呼んでくれた。花を摘んで、両親に差し出すと、母は銀色の長い髪をなびかせて微笑んでくれ、父はゆっくりと紫龍を抱き上げてくれた。父の髪も銀色で、その目は同じ紫水晶の色。

 母が作ってくれる玉子を焼いたものを挟んだパンが大好きだった。それから薬草師で草花に詳しい父がブレンドした、優しい良い香りのするお茶も。細く長い指の父が、静かにお茶を用意する姿は物語に出てくる王子様のように格好よかった。父も母も透き通るように綺麗な人だった。

 

 胸が痛くなる。その後のことを思うと。

 詳しくはわからない。知らされていないが、大人になった今なら薄々わかる。故郷シーリンの地で何か失敗し、あの地いいられなくなったのだ、逃げるようにして追放されるようにして、ギーリンランドルの地に来た。

 その後の暮らしは、子ども心にも日々どんどんと貧しくなっていくのがわかった。それでも、両親が何かと戦い、何かに悲しみ傷つき、けれども必死に紫龍を守り、三人で共にいようとしてくれたのが伝わってきたから、両親が夜に「用事があるから」と出かけ明け方帰ってくるようになっても、良からぬことを勘付くものがあっても紫龍は黙っていた。昼間、草摘みをしていると村の人や子どもに蔑まれたりからかわれても、黙って耐えられたのだ。

 だから、両親が紫龍に薬草師になるべく知恵を伝授してくれたのは、きっと両親にとっても子どもに何かを託す願いであった気がするし、紫龍にとっても心のよりどころとなる時間だった。夢中になって勉強した。この地では手に入らない薬草に関しては両親が持ってきた書物で学んだ。今もあの親の代から何度もめくり何度も読んだ薬草の書物は大切にとってある。それだけは生活に困っても売らずに。


 フィアールカ。

 そう呼ばれただけで、様々なことが頭の中を通りすぎてゆく。

 

「懐かしい名だ。でも、今の自分には不似合いな気がしてしまうな」


 紫龍がそう自嘲的に笑うと、ウィーゼンは顔を近づけて来た。


「綺麗な名だ。……俺はそう呼んでもいいか?」


 真剣な目がのぞきこんでくる。

 

「好きにすればいい」

「……フィアールカ。良い響きだな」


 ウィーゼンはそう言って、紫龍の手を取り、そっと優しく口づけた。

 手の甲に落とされたささやかなぬくもりに、胸が震える。

 フィアールカという懐かしい名前を、自分に戻していいのか……こんな汚れた自分に。

 美しい過去の思い出を封じたのに、それを広げれば、またその愛しい日々を取り返したくなる。

 両親はいないけれど、ウィーゼンにずっと呼んでいてもらいたくなる。

 ……夢をみたくなる。


 紫龍は、フィアールカという呼びかけに返事をするのが怖くて、ただ、口元に笑みをたたえるのでとどめた。



 ****



 その後の数日はあっというまに過ぎた。

 共に寝起きし、料理し、時に森に草を摘みにいった。ウィーゼンは朝と晩の稽古と剣の手入れは欠かさなかったが、それ以外のときは、まき割りや壊れた屋根や家具の修理と、紫龍のために時間を費やしてくれた。

 いつも四苦八苦するまき割りや大工仕事が、屈強なウィーゼンにかかればあっというまに終わるのを、驚きで見ていた。汗をかくウィーゼンに香草で爽やかな香り付けをした水を差し出し、それを飲み干す逞しいのどの動きに胸をどきどきさせた。

 今まで、数刻、もしくは一泊しか過ごしたことがなかったが、数日を共にすると、ますます紫龍はウィーゼンの穏やかな明るさに惹かれていった。雨漏りの修理ひとつでも丁寧に取り組むところ、大きな身体のわりに、ひょいっと身軽に高いところにも木登りもできてしまうことも知った。

 

 それから、ウィーゼンは、朝になると、あのリドの町で買って贈ってくれたサークレットを紫龍につけてくれと声をかけることが多かった。


「特別な外出でもないのにつけたら……落とすと思うと怖い」


と紫龍が言うと、ウィーゼンは「フィアールカは慎重だな」と笑いながら、なぜつけて欲しいと願うのかその理由を教えてくれた。


「……髪や額飾り、頭につける飾りをおくるのは、この国では『ずっと俺のことを忘れるな』っていう意味なんだ」


 紫龍は驚きで瞬きを繰り返した。

 まったくそんな意味があるとは知らなかった。


「身体に身に着けるものを贈るのは……その、身体の束縛を意味するから……婚姻してからが望ましいと言われている。あとは、まぁ……愛人へとか」


 ウィーゼンの言葉にドキッとした。婚姻という言葉にも、愛人という言葉にも。

 紫龍が黙っていると、ウィーゼンが紫龍を見つめた。 


「フィアは……その……他の男から、もらったことあるか?」

「え?」

「……いや、今のは無かったことにしてくれ。俺、格好悪いな」


 突然ウィーゼンはひとりごちると、困ったように苦笑した。その自嘲的な笑いに紫龍は胸がきゅっとなって、必死に首を横に振った。


「ない。受け取ったことはない。ウィーゼンだけだ」


 そう答えると、ウィーゼンは紫龍を抱き寄せた。


「いいんだ。全部、フィアールカを抱き留めるって思ってるんだ。変なこと、聞いたのは、ちょっとした俺の子どもっぽい……やきもちだ」

「信じてくれ、私は……私は」


 自分の身が『紫龍』であったことが辛いと思った。


「フィア。俺を忘れてくれるな」


 何度もうなづく。忘れるものか。


「仕事を終えたら必ず来る……。そうだな、雨期が明けて夏季となれば、戻ってこれるはずだ。その時は、王都に共に行こう」


 抱きしめられる。

 

「ウィーゼン……」


 あたたかい胸に寄り添う。

 幸せと……別離の寂しさと。



 

 曇天の朝。

 ウィーゼンは、紫龍のあばら家を砦にむかって出発していった。

 見送る紫龍の額には、瀟洒な銀と紫水晶の飾りが小さくきらめく。

 

 小さくなっていくウィーゼンの後ろ姿を、紫龍はじっと見つめていた。

 共に過ごした七日間――それは、本当に宝物のようだった。


 ウィーゼンの姿が見えなくなってしばらくして、紫龍はふいに頬に感じる風が重い湿り気をともなっているように感じ、空を見上げた。 

 まだ降り始めてはいないが、風の向きが変わったのか、雲の動きも昨日までとは違った。


「……雨期が来る」


 紫龍の身体にとってはつらい雨期のはじまりだった。

 だが、今年は……。ウィーゼンの約束がある今年の雨期は、明るい気持ちで、雨期明けを待つことができそうだと、紫龍は空を見上げながら思ったのだった。


 

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