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9 涙の味


 思わぬウィーゼンからの声に、紫龍は一気にうろたえた。

 あたふたと顔を隠そうと身体をひねる。

 

「な、泣いてなんてっ……。そ、それよりも、め、目覚めたなら何か食事でも……」


 否定しようとすると、腕を取られた。紫龍からすれば暗闇だが、ウィーゼンはどうやら夜でも見えるらしかった。


「俺をごまかすのは、そうとうの手練れじゃないと難しいぞ」

 

 ウィーゼンは軽口のようにそう言うと、紫龍が今しがた涙のしずくをこすった指先をなめた。


「涙の味がする」

「そんなことっ……」

「そんなことあるものさ。涙は塩辛い。紫龍の涙は綺麗だが、塩辛いのはどの人間も同じさ」


 そんな風に言って、かるがると紫龍を抱き寄せて来た。

 肌と肌が触れ合って、紫龍は胸がどきっとさせたが、ウィーゼンはそのまま紫龍の頭と床の間に腕を差し込み腕枕のようにすると、自らの胸板に紫龍を添わせるようにして抱いた。


「まだ何か堪えているのか」


 ウィーゼンが問う。とっさに意味がわからなかったが、先ほどの涙のことを問うているのかと気づき、紫龍は「いいや……ただ切なくなっただけだ」と小さく呟いた。


「切ないとは、なぜ?」

「時が過ぎてゆくから」


 紫龍がそう言うと、ウィーゼンはしばらく沈黙し息をついた。


「……そうだな。そばにいてやりたいが……今の仕事は片付けなければならない」


 ウィーゼンの声がぽつりと響く。

 数日後、この家を離れなければならない。少なくとも今ウィーゼンが抱えているらしい仕事を放りだすわけにはいかない。

 それは雇われ剣士であれば、信用問題にかかわるであろうことなど、すぐに想像がついた。

 あと5日ほどで、ここを出て行ってしまう。ウィーゼンはまた砦へと行く。

 そしてその後。私たちはどうなるといんだろう――……。ウィーゼンと私では住む世界が違いすぎるのに。


 考えすぎれば辛くなるのを悟っている紫龍は、思考を止めるかのようにウィーゼンの身体にぴたりと寄り添った。


「寂しいけれど……今まで、よりずっと幸せだ。ウィーゼンが私を望んでくれた。それだけで……私に価値が生まれたような気がする」

「価値? 俺と関係なく、紫龍自身に価値があってあたり前だ。生まれたときから、その者がもつ命が宝があるもんだろう」

「そうかな」


 ウィーゼンの言葉に笑って返しながらも、紫龍は自分自身に価値があるとはまったく思えなかった。自分が生きているということが「宝」だとは到底思えなかったのだ。

 そうして、ウィーゼンと自分の違い悟り、寂しくも感じた。

 ウィーゼンの大らかで屈託ない態度から見ても、彼は仕事先との砦や王都でも良い仲間に慕われているんだろうと難なく想像できる。そういうウィーゼンだからこそ「人には価値がある」と言えるのだと思った。

 黙って微笑をたたえるていると、ウィーゼンは紫龍の髪にそっと触れた。


「……紫龍は、今まで運が悪すぎたんだ。昨日、薬草師の資格があるといっていただろう? そんな資格まで持ってるなら、王都で大きな薬草店に行けば、どこかに薬草師の仕事の口はみつかるはずだ。つつましい暮らしかもしれないが、その仕事で暮らしていける給金はもらえるはずだ」


 ウィーゼンの言葉に、紫龍はすこし驚いた。


「そうなのか?」

「砦には薬を管理する薬師がいるんだ。薬作りに人生かけてるちょっと頑固な爺さんなんだが、腕はいい。その薬師が、薬草師からいろいろ薬草や薬液を仕入れているのを見かけたことがあるが……けっこう高値で取引しているようだった」


 ウィーゼンはそう言ってから、紫龍の方に向き直った。


「そういや、紫龍は薬草それぞれの売値の相場はわかっているのか?」


 問われて、「いちおうは……薬草店で見比べてはいるが……」と言うと、


「薬草はおそらく品質と連動する。同じ町の同じ薬草店で見比べているだけじゃ、全体的な相場はわからないはずなんだ」

「そういうものなのか?」

「俺の場合、薬草の価格は詳しくないから適当なことはいえないが……。でもな、たとえば武具などは一見同じ形状をしていても、その材質や強度で値段が変わる。ぱっとした見た目ではわからないが、武具の作り手それぞれの技術があり使い心地が違う。品質が高ければ小ぶりのナイフでも高くなる。わかるか?」


 紫龍が頷くと、ウィーゼンは「たぶん、薬草や薬液も同じようなものだ。保存の仕方やその品質で価格差が出るはずなんだ」と言う。それからちょっとウィーゼンは、しばらく黙ってから紫龍を抱き寄せた。


「……そういうことも誰からも教えてもらえずにきたんだろう。店が言うがままの値段で引き取ってもらってたんだな」

 

 言われてうなづく。

 

「考えたこともなかった……。だが、まぁきっと、たとえば私が一人交渉しようとしても……きっといろいろ難しいことになったのだと思う」

 

 少し自嘲的に言うと、ウィーゼンが息をついた。


「俺が、今まの間で気づいていればな……。あのいつもの窓辺に干しているのは薬草だろうとは想像していたが、薬草師だとは思ってなかったんだ。……相場を調べてこれば、さっき市場で助けになったのにな」


 ウィーゼンが自嘲的に笑ったので、紫龍はとっさに首を振った。


「私が言ってなかったんだから……。そもそも薬草師だとは思ってなかったわけだし」


 するとウィーゼンが、「いや……違う」と口をはさんだ。


「俺は紫龍を……」


 ことばが途切れたので紫龍がウィーゼンの顔を見つめると、ウィーゼンは大きな節くれだった手で紫龍の髪をさらさらと手櫛を通した。


「紫龍を深く知るのが怖くて……お互いが近づいてしまうのを恐れて……いろんなことを問えずに来てしまった。……情けないな」


 静かな言葉に、紫龍はなぜか胸が締め付けられるような気がした。

 知るのが怖いというウィーゼンの言葉は、紫龍自身にも当てはまったからだ。ウィーゼンの仕事のことも、今まであったこともなんら問えずにきた。当たり障りのない問いかけしかできなかったのは、紫龍も同じだった。

 そう思ったとき、ふいに問われた。 


「紫龍は、行きたいと思うか、王都に」

  

 突然の言葉に驚く。


「え……行きたいって……王都に? 私が?」

「そうだ。薬草師で食べていけるかもしれない。王都は、それこそ各地から乾燥させた薬草も、また薬草を育てる専門の栽培師がいるはずだから、畑持ちでなくても十分に薬草師でやっていけるはずだ。……行きたいか?」


 身体を売らずに生きていけるのか。

 私が両親から幼い頃から子供の時までに教えられた何かで暮らしていくことが本当にできるのだろうか。

 夢のようだと思った。

 ありえない夢。

 でも、ウィーゼンが手を伸ばしてくれるなら……光の方へ進んでいけるのだろうか。

 

「行けるなら……行ってみたい」

「そうか。……紫龍がそれを望むなら、連れていってやる」


 ウィーゼンの方を向くと、彼がじっとこちらをみていた。


「……すぐにでも連れていってやりたいが、それはできない。俺は雨期の間は砦にいることになるだろう。……だが、大事にならずに決着をつけられれば雨期が明けた頃には戻ってこられるはずだ。そうしたらここに寄って王都に連れて行ってやる」

「ウィーゼン……」

「薬草店もいくつか懇意にしているところがあるから、口利きをしてもらえるかもしれない」


 ウィーゼンの言葉が、次々に紫龍の耳に届く。

 まさに夢のようだ。

 真っ暗な闇の中にいるといあうのに、寄せる厚い胸板から聞こえる鼓動と共に、なにか明るい未来に続く希望が広がってゆくようだった。


 まぶしい……。

 まぶしくて、明るくて、綺麗な世界……。

 そんなところに、本当に私が……?


 紫龍はあまりにウィーゼンの言葉がきらきらと輝きすぎていて、うまく返事ができなかった。そんな紫龍を、ウィーゼンは愛おしげに撫でた。


「共に行こう」



 ****

 


 床で話しているうちに互いの腹が鳴り、二人して笑いあって起き上がった。

 身体を濡れた布で清め、リドの町で買い込んだパンや干し肉、果実を切り分け簡単な食事を並べる。

 

 ランプの灯りで囲むささやかな夕食は、質素なのにこれ以上にないほどに贅沢だと紫龍は思った。そして明日は食卓に森の奥に咲く花を数輪いただいて飾ろうと考えた。

 

 他愛ない話をしながら食事をすすめているうちに、紫龍の名前の話になった。

 ウィーゼンがふいに尋ねたのだ。


「紫龍は、本当の名があるんだろう」

「……身体を売っている女になってからはずっと紫龍だ」


 紫龍がうつむきかげんで答えた。

 身を売る女は、古い物語に残る強い獣の名を交えた源氏名をつけるのがこの国の習慣だった。さらに普段の文字を使わずに、文字そのものに意味を含む独特の古代文字をつかって名づける。

 身を売る者は強い獣の名を持つ。それは、強い獣の名を持つ者と身を交えると運気が強くなる――そんなくだらない迷信にあやかってのことだった。古代文字の名づけといっても、本来学者が知るような知識の上で名づけるわけでもなく、あくまであだ名だった。

 身売りの時だけ源氏名を使うものが多い中、紫龍はいつでも「紫龍シリュウ」と名乗ることにしている。親がつけてくれた名はあった。だが親を亡くした十代半ば、誰も呼ぶことのない名は封印した。

 紫龍は「紫龍」であれば良かった。だれも紫龍が紫龍でないころのことなど求めやしなかった。


 ウィーゼンがそっと紫龍の手に自らの手を重ねた。


「龍か……どんな生きものか知っているか?」


 顔を曇らせた紫龍に気づかい、少し話題をかえたのだろう。その心遣いを感じながら紫龍はできるだけ明るい声で答えた。


「さあ? 伝説か物語か……鱗におおわれた大きな身体をして、空を飛び、強いらしいな。雨を呼ぶんだったかな」


 紫龍が答えるとウィーゼンが頷いた。


「あぁ、俺も古い物語で読んだことがある。幼い頃は、昔話の冒険譚に龍が出てくると心躍らせたものだ」

「ウィーゼンの子供のころか。やんちゃだったんだろうな」

「そう思うだろう? それがな、案外、弱虫で親の後ろに隠れてばっかりだった。本ばかり読んでいたな」

「意外だ」

「十になるかならないかで剣に出会って……憧れた。そうして鍛えはじめたら、今やこの日焼けに書物など破いちまいそうな荒くれの指になった。今は本を読もうにも、すぐに眠くなっちまう」


 ウィーゼンがそんな風に笑うのを聞きながら、幼いウィーゼンに想いを馳せた。大雑把で腕っぷしの強い剣士の態度だが、その食事の仕方や暮らしの所作から、ウィーゼンの出自はなかなか中流や上流の家庭なのではないかと踏んでいた。すくなくとも細やかに子どもの躾けが行き届くような、そんな家庭で育ったのではないかと。

 紫龍はそんなウィーゼンを育てた家族を思い描くも、それ以上に何かウィーゼン個人のことを尋ねるのが怖い気がして、話題を変えた。 


「昔話の強い獣といえば……龍以外にも、麒麟や鳳凰もいるだろう。それから熊や狼も人気で、娼婦の名づけに使うことが多いんだ。ウィーゼンは、どんな獣が好きなんだ?」


 不自然ではないかと気にしつつ紫龍がそう問うと、ウィーゼンは笑みを浮かべた。だがその瞳は紫龍をじっと見つめ、どこか熱を含んで甘い。


「龍だ。”龍”しか好きじゃない」


 ウィーゼンの答えと熱いまなざしに、紫龍は自分の頬が火照るのを感じた。


「そ、そうか……りゅ、龍か。龍が好きなんだな。雨を降らせる龍は、わ、私も好きだ……」


 しどろもどろに返事をしつつ、「龍が好き」という言葉は紫龍のことが好きだと言われたように感じて紫龍は目を伏せた。そんな照れた紫龍をいつくしむように握った手に指をからめ、ウィーゼンが問うた。


「龍は好きだが……紫龍のことは、もっと好きだ」

「な……い、いまそんなこと言われても」

「気持ちを素直に言っただけだ。今まで俺は素直になれなかったから」


 ウィーゼンはそんなことを言いながら絡めた指にそっと力を込めた。


「だからというわけじゃないが、紫龍の本名で呼んでみたいとも素直に思う」

「……ウィーゼン」

「教えてくれないか。ご両親からもらった名を」


 

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