大きな家の住人たち1
「姉さん……」
そこに居たのは、男が一人とその男の使い魔。そして、見覚えのある女の石造だった。ピクリとも動かないそれを覗き込むと、左目が抉られて陥没している。そこには水が溜まりピチャピチャと絶え間なく降る水滴が水紋を作っていた。
雨の日だった。カサなど差しては居なかったが、そんなことはどうでも良かった。雨避けの魔法を使うことも忘れ、服は濡れて重たい。
雷鳴。
それは彼、いや、彼らの心の中を代弁しているようだ。
誰がこんなことを!
そんな言葉では足りない。
何を言っても満たされない。
先ほどまで生きて動いていた女が死んだという事実は変わらない。
「ヴズズ……」
男が傍らに控える使い魔を呼ぶ。
「だから言ったろ、俺はいつか役に立つって」
「黙れ」
ニヤリと笑う使い魔は、男の背丈の半分程度しかなかった。
立ち上がった男は小さく言葉を紡ぎ、手の中から光る何かを取り出した。
それが何であるのか、一目で分かった。
そんなものをどうする気だ?
問うたつもりが言葉にならなかった。
男はそれを使い魔の左目に近づける。
ダメだ! やめろっ!
叫んで止めたかった。
声は出ないが身体は動く。自分の左腕が男の右腕を掴もうとしたが、その前に男が遠のいた。いや、自分が吹き飛ばされたのだと気づく。背中を強打して仰向けに倒れたが、大した怪我はない。起き上がろうと肘を地面に付いたが、使い魔の魔法が更に身体の動きを止めた。
「邪魔をするな、今いいとこなんだ」
いいところなものか!
止めなくてはならない。男の為にも……死んだ女の為にも。
無様に転げた状態で起き上がることもできず、ただもがき続ける。
「すまん」
こちらに一度、男が俯いた状態から瞳を動かしたのが分かった。そうして……。
ドシンっと、地響きのような音で男は目を覚ました。静かな部屋の中には灯り取りの窓はなく、暗い。時計を見れば短針が十一を指していた。
「朝か……」
正確には昼に近いが、それを突っ込むものは誰もいない。身を起こして暫くぼんやりとする。上の階からはギャーギャーと言い合う声が聞こえてきていて、また喧嘩してるのかと男は呟いた。ベッドから出ると傍らに置いてあった赤いカチューシャをつけて、上半身裸の下はズボンを履いているだけという格好で階段を登っていく。
「うっせぇなぁ。人んちで喧嘩してんじゃんぐっ……」
「うっさい居候!」
ボヤキながら階段を登りきる前に喧嘩の主からブーイングが飛んできた。未だ寝ぼけている男には避けるという手段はなく、眉間にクリーンヒット。男の大きな身体が傾いだ。
「お前、木製のコップって結構痛いんだぜ?」
そんな男には構うことなく女同士の戦いは続く。
どうやら冷蔵庫のプリンを誰が食べたかで言い争っているらしい。因みに、喧嘩をしているのはこの家に住む魔法使いの弟子――ユーリーンと、その魔法使いのファンとして居候をしている妖精――ワフラだった。
人の姿をした女の子としては平均的な身長、百五十シームのユーリーンと、大きめな人形程度の身長、三十シームのワフラが言い合っている光景は、この家の住人全員が見慣れたものだ。
当然、仲裁に入ろうとするものはいない。
「またあいつら喧嘩してんのか……」
「おっはよー、ジン。今日はいつもよりちょっと早いじゃん」
「おう、地響きで起きた」
「あー、なるほど」
声をかけてきたのは今喧嘩をしているユーリーンの使い魔、ルルゥだ。
宙に浮いている姿は十シーム程度しかなく、ジンの顔ですっぽりと隠すことが出来る。薄いピンク色の髪の毛は短く切られていて、背中には茶碗の蓋を背負っている。葡萄柄の服を着ていて下品な話にもノリ良くついてくるし、頭の後ろで手を組む姿は男の子のようだが、実は女の子と知ったのはつい最近だった。
「悪い、まっ平らだったから……」
「死ね!」
そのときに受けた攻撃で、まだ頭にはこぶが残っている。
それを思い出して軽くこぶを撫でながらジンはぼやいた。
「あいつら喧嘩しかできないのか?」
「ほんとにねぇ」
困ったように笑い、賑やかで楽しいけどとルルゥは付け加えた。この家は男――ジンを含め住人が多い。
「このプリンは私が食べようと思って買っておいたのにっ!」
「だから、あたしじゃないってばっ!」
「買うの苦労したんだから、買ってきてよ!」
「聞こえなかった? あたしじゃないの!」
テーブルの上には空になったプリンの容器が置かれている。
なるほど、これで言い争いになっているのか。
どちらがどちらの言い分かなんてことには、既に興味がないので、早々に放っておくことに決めて顔を洗おうとジンは洗面所に向かった。
「あぁ、起きたのか」
洗面所には先客が居た。この家の主に対して先客とは失礼かも知れないが。ホットタオルで顔を拭いていたらしい主は、タオルを洗濯槽に放り込んだ。
冷え性らしく常に長袖を着ていて、髪は真っ黒、服の色も常に黒いから、色白の肌が強調されて見える。
「フェイか、そこ空くか?」
「今終わった」
「じゃあ借りる」
立ち位置を入れ替えて水を出そうとしたところで、ふとジンは手を止めた。
「あいつら、どうにかなんねぇの?」
「こればかりはどうにもなぁ」
苦笑しているフェイは、二日にいっぺん繰り広げられる家を揺るがす程の喧嘩を気にもしていないらしい。
言い合う声は収まる気配がない。
内容は未だにプリンだった。どんなに美味しいプリンであり貴重なものなのかを熱く語る声が聞こえてくる。
それをうんうんと頷きながら一通り聞き、フェイは口を開いた。
「問題はな、あのプリンを食べたのが俺だってことだ」
「お前かよっ!」
「あれ、一回食べてみたかったんだよなぁ」
「謝れ。謝って半殺しにされて来いっ! あ、先にこの家の所有権を俺に譲渡してからな」
「半殺しにされるつもりはないし、お前にこの家をやる予定もない」
「お前、この間酒飲んだときに酔いつぶれて言ってたじゃねぇか。家をやるなら俺がいいって!」
「そんなことを言った覚えはないし、酔いつぶれたこともない」
「ちっ」
「いいからさっさと顔を洗えよ」
そういいながらその場を立ち去ったフェイにはいはいと返しながら顔を洗う。
いつも通りの朝だった。
いつも通りの、賑やかな朝。
ジンが寝床に使っている地下室を入れると四階建てになっているこの家には、全部で八人が共同で暮らしている。元々はフェイがユーリーンと住むために作った家で二階建てだったのだが、段々と家族が増えていったのだ。因みに血縁関係にあるものはほとんど居ないし、戸籍上もほとんど赤の他人である。その中でも一番最近居候を始めたのがジンと彼の使い魔だった。
幼馴染のフェイに関する「ある話」を確かめるべく訪問したところ、何となく面白そうだったため勝手に地下室を作ったのだ。地下室は現在酒蔵と倉庫を兼用しており、決して不要なものではなかったとジンは一人納得している。
「ジンー、朝ごはん……ってかもう昼だけど、御飯食べる?」
声をかけてきたのは、ついさっきまで大喧嘩を繰り広げていたユーリーンだった。どうやらフェイの出現により喧嘩は収束したらしい。
彼女はフェイに引き取られてそろそろ十年が経つ。ジンが覚えているのは五歳で懸命に何かを堪えている少女だったため、こんなに大きくなったのかぁと居候を始めた頃には感慨にふけったものだった。二本の三つ編みが良く似合う、素直で活発な子に育っていた。動きやすさ重視ということでズボン姿しか見られないのが、一つ残念に思っているということは秘密だ。家事全般を担っているから、食事の声かけはもちろん彼女から発せられる。
「お前の不味い飯食わされんのかぁ」
「そういうこと言うなら食べなくていいですー」
「喰う喰う、俺腹減った」
いつものやり取りだから、お互い口調も軽い。
「テーブル置いといたから。あと、シーツとか洗うよ?」
「お願いします」
ジンの清潔な部屋と腹具合は彼女に管理されている。
俺も持つならこういう弟子がいいなぁ、と彼が思う程度にはしっかりとした出来る弟子だった。魔法に関しては別だが。
テーブルには、言葉の通り食事が用意されていた。それをいただきますといって食べ始める。パンと玉子とベーコン、サラダの簡単な朝食だが起きたばかりの腹には調度いい。
サラダをつつきながらふと、扉の傍でユーリーンが育てている鉢植えに目がいった。薬を作る一環として育てている薬草なのだが、その隣に一輪の花が咲いていた。
先ほどまで喧嘩をしていた片割れが、疲れて休みに入ったらしい。大きな花は赤く堂々としていて、彼女の性格を如実に現しているようだ。ワフラは花の妖精のため、人形のような二足歩行のときと土に埋まる花の姿とがある。
居候を始めて数日は全く気がつかず、いきなり傍にあった花が人のカタチになったときには心臓が止まるかと思った。それまでジンは妖精なんて会ったこともなかったし、見たこともなかったのだ。
それ以降、道端に咲いている花が実は妖精なのではないかとじっと観察するようになった。
「はい、これジンの分」
ルルゥが自分と同じくらいの大きさの一通の手紙を掴んで持ってきた。小さな使い魔はこれで終りと爪楊枝のような腕を回している。
受け取った手紙は白い封筒で、几帳面な文字が並んでいた。宛名の部分には小さく蜂のマークが入っているだけだ。
それを、パンを齧りながらビリビリと封を破いて中を出す。二枚の便箋に目を通して、喉の奥でふーんと呟いた。
「何々? ラブレター?」
「当たり前だろ」
「女好きも大概にしとかないと、危ないよ?」
「お前、かつて天才と呼ばれた男と張り合ってた俺がそう簡単にやられると思うか?」
「そりゃあ思わないけどさ……。ここらへんじゃないけど、魔法使い達の不審死が続いてるって言うし」
その言葉に、ジンは一瞬だけ目を細めた。
「そんなん、俺がやり返してやるよ」
小さなルルゥの頭を指の先でちょんと突いて、ジンは笑った。
そうして再び便箋を封筒の中に収めると、ごちそうさまと言って席を立つ。魔法で一瞬にして服を着替えて封筒をポケットにしまうと、そのまま外に向かう。
日中にも関わらず暗い空、水の音がパラパラと聞こえる。
今日も、雨だ。
「ジンでかけるの?」
「あぁ、ちょっとな。夜には戻る」
ルルゥに返事をしながら外に立てかけてある自分の箒を手にした。肩に白いネコが乗ってきた。どうやら一緒に行くつもりらしい。
「わかった、言っとく」
じゃあなと後ろに手を振って、地上を後にした。
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