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母さんのこと

            

 家に着くと、カーポートに父さんの車が止まっていた。珍しいな、もう帰ってるのか。

 日は沈んだけどあたりはまだ明るい。携帯を見るとまだ六時前だった。なんだかいやな予感がした。海での、陽気であかるい気分が、空気のぬけた風船みたいにしゅるしゅるとしぼんでいく。

 ぼくらは裏手にまわるといつものように自分の部屋の窓をあけ、あたりに誰もいないことを確認してからミナミだけ中に入れた。そして自分は普通に「ただいま」なんて言いながら玄関のドアを開けた。

「おかえり。倫太郎、なんだその格好。」

「いや、ちょっとね。友達とふざけてて」

「……そうか。じゃあ早く着替えてきなさい」

 父さんはいつになく神妙な面持ちだ。ぼくは着替えて応接間に入った。ガラスばりのローテーブルにはティーカップがふたつ。中身はほとんど減っていなかった。

「さっきまで、先生がいらしてたんだ」

「……先生が、何で」

「心当たり、あるんだろ?」

 父さんは話のとっかかりを探して、こほんと咳払いをした。わざとらしい。

 ぼくは合皮のソファに腰を下ろした。テーブルを挟んでちょうど父さんと向かい合わせになる。ぎゅっ、と黒い皮がきしむ音がした。校長室みたいだ、いつも思う。昔からぼくに説教するときはかならず応接間だった。だからこのソファに座ると条件反射的に気が滅入る。

「もう、一週間以上も、学校を休んでいるんだって?」

 何も返すことばがない。

「すっかりだまされたよ」

 父さんはいらいらとせわしなく膝小僧をふるわせ、タバコに火をつけた。

「タバコ、また、吸いはじめたの?」

「ん、まあな」

 父さんは一年前に、何度目かの禁煙宣言をして、それからぼくの前では一切吸わなかった。ほんとにやめてたのにまた最近吸い始めたのか、あるいは、やめられずにかくれて吸っていたのか。

「だまされてたのは、ぼくの方じゃん」

 ぼくがつぶやくと、父さんはぽんぽんと灰皿に灰を落とし、

「その通りだな」

 と、低くわらった。いや、そうじゃなくて。タバコのことじゃなくて。うまく脳みそから言葉が降りてこない。からからと喉ばかりかわく。そうか、だから大人はお酒を飲むのかな、なんてぼんやり思った。

「倫太郎。さっきのあれ、誰にやられたんだ?」

「さっきの、って」

「ずぶ濡れだったじゃないか」

 ああ、と気の抜けた声が漏れ出る。そうか、父さん、いじめを疑ってるのか。

「心配しないでも、友達とはうまくいってるよ。いじめられてるわけじゃない」

 ほっ、と父さんの表情がゆるむのがわかった。

「本当か? 心配かけるとか、思わなくていいんだぞ」

「ほんとだよ」

 もしほんとにぼくがいじめにあってたとしたら、父さんはどうするだろう。ちょっとだけそれを知りたい気もした。

「じゃあ、やっぱり母さんのことがショックだったんだな」

 ため息をつくように父さんは言った。

「そりゃあね」

 何と答えてよいかわからず、ぼくはそんな風に言ってみた。あくまで、ライトな調子で。父さんはゆっくりとタバコの煙を吐き出す。口から、鼻から、ふううう、と。ああもう制服がタバコくさくなるじゃん。酒くさいのよりタバコくさいののほうがぼくは苦手だ。

「そりゃあ、そうだよな」

 父さんは言った。ぼくに合わせるように、ライトな調子で。父さんも何と言ってよいかわからなかったんだろう。

「行きたくないなら、無理に行かなくていい」

 いたわるようにぼくに言葉をかける。

「自分のペースで、ゆっくりとやればいいから」


 その日の夜ごはんは父さんがつくった。豚肉とキムチの入ったチャーハンだった。しまったなあ、ミナミはおなかをすかせているだろうに。捨て猫をかくれて飼ってるみたい、ってミナミ言ってたっけ。あのときのちょっと拗ねたような顔を思い出す。

 父さんがフロに入っている間に何か持って行ってやろう。見つかったら、夜食用に、とか何とか言えばいい。

 テーブルをはさんで、ぼくと父さんは向かい合わせで食事をとる。顔をあげると、父さんの顔が視界に入り込んでくる。

「うまいか?」

「うまいよ」

「じゃ、テレビばっかり観てないでちゃんと集中してごはんを食べなさい」

「はーい」

 ぼくは生返事をした。テレビの内容なんてほんとうは頭の中を素通りしてた。

「父さんさ、中学生のときは、モテモテだったんだって?」

 気まずさに耐えかねて、ぼくは適当に話題をふった。なるべく明るい感じの話。

「誰がそんなこと言ってた?」

「自分で言ってたじゃん。こないだ」

「ええ? 記憶にないなあ」

「しょうがないなあ。これだから酔っ払いは」

「でも、モテモテってのは本当だよ」

「じゃあ、なんで母さんにふられたの」

 ぼくの口は、勝手に、不意打ちのように核心をついてしまう。

「なんでかなあ」

 父さんはとぼけた。この話になると、いつもそうだ。

「今はどうなの?」

 一瞬、間があって、

「全然だよ。バレンタインも義理チョコばっか。会社の若いコにはオヤジギャグやめてくださーい、なんて言われてる」

 なんて、かわされた。嘘ばっか。

「倫太郎はいないのか、彼女」

「いないって言ったじゃん」

「好きな子は?」

「いないよ」

 ぼくも嘘をついた。これでおあいこだ。父親にバカ正直に好きな子の話なんかするやつ、いるかよ。

 だけど。それから、いよいよなにも話すことがなくなってしまった。

 ひさびさの、親子水いらずの食卓は、なんだかぎこちない。海でミナミに話したみたいに、正直に父さんにも胸のうちをぶちまけてしまえればいいんだろうけど、なんとなくそれは気が進まない。昔は何でも話してた気がする。ずいぶん遠い昔のような気もするけど。


 その夜のミナミは、しきりに寝返りばかりくり返していた。

 月明かりがカーテンごしに差し込んでいた。明るい秋の夜更けだった。

「眠れないの?」

「……うん」

「こわい?」

 ぼくは、昼間のミナミのことばを思い出していた。ミナミがぽつりとつぶやく。

「こわいよ。だから、となりで寝ていいよ」

 なんで上から目線なんだよと思いつつ、心臓はやっぱり高鳴った。

 ミナミはごそごそと窓側のほうにからだをずらして、左半分を空けた。

「どうぞ」

「どうぞ、って、もともとぼくのベッドなんだけど」

 もそもそと布団に身をすべらせてもぐる。ミナミのからだのぬくもりが残っている。脳みその回線がショートしそうになる。女の子と添い寝なんて、刺激が強すぎる。

「わかってると思うけど、寝ていいって、そういうイミじゃないからね。変なことしたらただじゃおかないから」

「うん」

 うんと言いながらも、心の中では、そんな約束はできないなと思っていた。だって、そうだろう?

 月明かりがミナミの顔を青白く照らしている。それがすごくかわいく見えて、心臓がやばいくらいにどきどきした。ぼくはどうかしている。

「ぼくの母さんは、ぼくと父さんを置いて出て行ったんだよ」

 気づいたらそんな話を始めてしまっていた。本当にどうかしている。

「まだちっちゃい頃。もうよく覚えていない」

 ミナミはかすれた声で、うん、と言った。

「それで、ほかの男の人と一緒になった」

 ばあちゃんが夜中、父さんに母さんの悪口を言っているのを聞いてしまったことがある。普段の優しいばあちゃんからは想像もできないようなひどいののしりようで、まだ小さかったぼくは母さんのことを可哀想だと思った。男のひとと出て行ったというのはうそで、ほんとうはばあちゃんにいじめられたんだ、って無理に思い込んだ。

 父さんもばあちゃんも、ぼくの前ではそんな話はいっさいしなかった。今でも父さんは母さんの話を避ける。

「いちどだけ、母さんはどこにいるのって、聞いてみたことがある」

 あれはばあちゃんが亡くなった年の、春。

「そしたら?」

 ぼくはなにも言わなかった。ミナミはそれで察したようだった。

 ごめんな倫太郎。父さんは言った。母さんはすごくとおいところに引っ越したんだ。飛行機をのりつぎして、それから電車に何時間ものっていかなきゃいけないんだ。それぐらいとおいところだ。

「父さんにも、つきあってるひとがいるんだ」

「うん」

「父さんは、ぼくは知らないって思ってるみたいだけど、そういうのって、なんとなくわかるんだよな」

 シャツにほんのり移った香水の香りとか。電話の会話をぼくに聞かれないようにしてるとことか。

 仕事で帰りが遅いとかいって、じつは彼女と会ってるのかもしれない。

「ま、大人だから構わないんだけど。ぼくだって子どもじゃないし。父親がレンアイしてるとか、想像したら気持ち悪いけどさあ」

「うん」

「でもさ、くっついてはなれて、出会って別れて、そういうの、ひとって一生のうちに何回繰り返すんだろうな。なんかむなしくなる」

 こんな話をだれかにするのは、はじめてだった。

「……そうだね」

 ミナミの手とぼくの手ぶつかって、ごく自然に、つながれた。へへ、と笑ったミナミが照れ臭そうに布団に顔をうずめて、それでも手は離れなくって、ぼくは自分を押さえるので精いっぱいだ。

 抱きしめたい。だけど。

 ミナミとも、いつかはお別れだ。遅かれ早かれその日がくるのはわかっているのに。ぼくはどうして手なんかつないでしまうのだろう。

 夜が永遠に続くかのように月がやわらかい光を放っている。でも、いずれ夜は明ける。明日は来る。別れの日は、来る。ぼくはそれを、知っている。


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