波にもまれるガラスの破片
海はきょうも凪いでいる。
しょぼくれた雑種の犬を連れて、のったりと散歩をしているじいさん。波打ち際に木の棒で何か書いてはキャッキャとはしゃいでいる高校生カップル。そして、ぼく。昼下がりと呼ぶには日は傾きすぎているし、夕暮れを待つにはまだ早すぎる。そんな時間の浜辺。
「りんたろーう」
制服姿のミナミが視界に入る。ぼくの姿を見つけて、大きく手をふり、たたたっと駆け寄ってきた。波打ち際からすこしはなれたあたりを、並んで歩く。
「なんでここがわかったの。ていうか、なんで制服」
「昼休み、こっそり学校に潜入してみたの。そしたら、あんた、今日もずる休みしたっぽいじゃん。もしかしたらまたボーッと海でも見てるんじゃないかと思って。ほら、はじめて会った日も、そうだったでしょ」
「しかし、こっそり潜入って……大胆だなあ」
「スリル満点だったよ」
ぼくはあきれてため息をついた。
今朝、ぼくはミナミに合鍵をわたして家を出た。沙雪に約束した手前、今日は学校に行くつもりだったのだ。でも、ぼくの足は勝手に町をさまよい、公園や図書館で時間をつぶし、途中パンなんぞ買い食いしながら、最終的にはここに行きついた。田舎ゆえ、人目についたらすぐに父さんの耳に入るだろうし、どこにも暇つぶしの場所がないのだ。
「あーあ。どこにも行けなくてヒマ。倫太郎はいいなあ」
「なんで」
「学校行けば友達に会えるし。楽しいじゃん、なのにさ」
ちらりとぼくを見やる。
「……なんかいやなことあんの。学校で」
「べつになんもないよ」
本当だ。でも二学期になってから何かが変わった、そんな気がしてしょうがない。友達の話とか先生の話とか、どこかちぐはぐな感じがするんだ。本当の自分はべつのところにいて、今いるのはニセモノで、ニセモノの自分がニセモノの友達とニセモノの会話をしているような、そんな違和感。
「ボーッとしてる」とか、「ひとの話をぜんぜん聞いてない」なんて言われることが増えた。そして、なんだかひどく疲れるようになった。学校みたいな人間がたくさん集まる場所。始終、浮かないように気づかったり、空気を読むことに神経使ってなきゃいけない場所。ちょっと前まではあたり前にこなしてたのに。
ミナミはぼくの話をじっと聞いていた。ひと言、「ふうん」と言うと、足もとに落ちていたみずいろの石を拾った。ガラスの破片が波に洗われて、角が丸くなったやつだ。
「なにがあったか知らないけど」
ミナミはしずかに続ける。
「あんた今、波にもまれてる最中なんじゃない? 時が経てば、このガラスみたいにギザギザがなくなって、触ってもけがしないくらい丸くなるよ。そんな日がきっと来る」
はい、あげる。そう言ってミナミはそのみずいろのガラスをぼくの手のひらにのせた。ガラスを陽にすかしてみると、それはミニチュアの海のようにきらきらまたたいた。
「あれ。のぼれるかなあ」
ミナミが物見やぐらみたいな監視台を指さした。シーズン中、ライフセーバーなんかが、海水浴客に異変がないか見張るために使うやつだ。
「ほんと、高いトコ好きだね」
「バカだっていいたいわけ?」
やんややんや言いながら俺たちは監視台にのぼって、ふたり並んで腰掛けた。
「あのカップルさあ、合い合い傘でも書いてんのかなあ」
ミナミのはねた髪が潮風に揺れた。
「バッカみたいだよねえ」
「なにが?」
「恋愛してるひとたち」
ミナミはカップルをつめたい目で見つめて言った。
「あたし、A・R・Rの会長なんだ」
「A・R・R?」
「アンチ恋愛連盟、の略」
ミナミは頬にまとわりつく髪をはらいのけながら言った。
「まわりの女子がさあ、年がら年中男子の話ばっかりしてんの。好きな人がいないっていったら、天然記念物でも見るみたいな目で見られるんだよ。やんなっちゃう。猫も杓子もカレシつくっていちゃいちゃして、やれクリスマスだバレンタインだって浮かれて。そんな軽薄な風潮にあたしは異議を唱えたいわけ。で、同志をつのって結成したのがアンチ恋愛連盟」
血気さかんに熱弁をふるうミナミ。ぼくは半ばあきれつつも聞いた。
「で、A・R・Rって、具体的にはどんな活動してんの?」
「……とくに何も」
そんなことだろうと思った。教室の隅っこで、男子の話で盛り上がるクラスメイトを憎憎しげに見つめるミナミの姿が容易に想像できた。なんだかめちゃくちゃ可笑しい。
「なに笑ってんの」
ミナミがぼくの手の甲を軽くつねる。ぜんぜん痛くないけど、ぼくは、いててて、なんて大げさにさわいでみせる。ミナミは眉をつりあげてぼくをにらんだ。
みずいろの海の上の、空のさかい目ちかくで、銀色のビーズをこぼしたみたいに光の粒がきらきらと跳ねている。
ふうん。アンチ恋愛、ね。
「だったらさ、あんなこと言うなよ」
思わず口をついて出たつぶやきは、思いがけず、やけに不満げに響いた。
「あんなことって?」
「その、となりで寝ていいよ、とか、そういうこと」
自分で言ってて、かあっと胸のあたりと顔じゅうがあつくなった。
「言ってないよ、そんなこと」
「言ったよ、ゆうべ」
「言ってない。幻聴? 妄想? 欲求不満なんじゃない?」
ミナミはああいやだ、とでも言いたげにちょっとからだをずらしてぼくとの距離をひろげた。
なんだよ、欲求不満て。そもそも、欲求不満じゃない中二男子なんてこの世に存在するのか?
ミナミはちろりとぼくのほうを見た。
「やっぱヘンタイだ。倫太郎」
「なんで?」
「朝、あのヤンキーくんが来たの」
「ああ。桜井?」
「桜井っていうんだ。窓コンコンってやっててさあ、開けたら、なんか紙切れ渡された。んで、あっという間にどっか行っちゃった」
「紙って?」
「これ」
ミナミは大学ノートの切れっぱしをひらひらさせた。ひょろひょろの字で、
「倫太郎はヘンタイです。はやくここからにげたほうがいい。ちなみにオレは紳士です。」
とあった。ご丁寧に、桜井の住所まで書いてある。
「あほらし」
ぼくはその紙切れをびりびりに裂いて放った。それは潮風にのって、雪みたいに舞い踊りながらどこかにさらわれていった。
ミナミはじっと、その紙ふぶきを見ていた。そして、ぼそっとつぶやいた。
「……ごめん。もしかしたら、言った、かも、しれない」
ミナミの声は波音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。海を見つめてぼくのほうは見ない。耳のふちが赤い。ぼくまでつられてものすごく恥ずかしくなった。
「真夜中に、すごい不安になるときがあるの。このまま戻れなかったらどうしよう、って。こわくて寂しくてたまらなくなって、それで、きっと、つい」
ぼくは思い切って、ミナミの手に自分の手のひらを重ねた。ミナミは一瞬、びくっとからだをふるわせた。でも、払いのけようとはしなかった。
「ばっかみたい。あたしは、ほんとは、ここにいちゃいけない人間なのに」
ミナミがそうつぶやいて、ぼくの胸は思いがけずぎゅっと苦しくなった。
空がだんだん、あわい桃色にそまっていく。ほんのり灰色がかった、わた菓子のような雲のふちからまばゆい光がもれて、金の指輪のように光っている。
ミナミの手に触れると、ぼくのからだの芯にあつい灯がともって、心臓が小鳥のようにせわしなくはばたきはじめる。それでいて心のどこかが海みたいに凪いでいく。
「ね、なにか聞こえない?」
ミナミが言った。そういえば、波の打ち寄せる音にまじって、なにか人の声のようなものが近づいてくるような。
「……い」
なんだ? ぼくらは顔を見合わせた。
「おーい。何やってんだあー。はーなーれーろー」
防砂林のほうから猛烈ないきおいでダッシュしてくる金髪の猿。桜井だ。
「うわ。あいつ、なんでここが」
ぼくとミナミはあわてて監視台を駆け下りた。ミナミはきゃあきゃあ笑っている。
波打ち際のほうに逃げるぼくを、桜井がいちもくさんに追いかけてきてとらえる。
「りんたろーう、なに、いい雰囲気になってんだよう」
いきなりぼくの首に後ろから抱きつくような格好で手をまわし、締め上げてきた。
「く、くるし」
「ゆるさん。ゆるさーん」
「おまえ、なんなの。ミナミのストーカー?」
ざぶん。
くるりと世界が反転したと思ったら、つぎの瞬間、おもいっきり波みたいなのをかぶった。しょっぱい。
桜井が、ぼくをそのまま海につき落としたのだ。
「やめろー。こんなトコでおまえと心中したくない!」
ミナミが砂だらけになって転げるぼくらを見て、げらげら笑っている。
「あんたたち、ばかじゃないの?」
桜井はミナミに気づくやいなや、きゅうにぼくを羽交い絞めしてた手をはなし、直立不動になった。
「あ、ど、ども」
いきなり言葉につまっている。ばかだ、こいつ。
「どうも。紳士の桜井くん」
「あ、はあ」
真っ赤になって、へらりと笑った。ほんと、ばかだ。
「ミナミちゃん。倫太郎に何か変なことされたら、いつでも言って。すぐ助けに駆けつけるから」
「なんだよ、猿のくせに王子様きどり」
桜井はぼくを、きっとキツくにらんだ。触覚みたいな眉がつりあがる。
「桜井くん。じつはさっき、倫太郎がいきなりあたしを……」
おびえたような表情をつくって、おおげさに両腕でじぶんのからだを抱きしめるミナミ。おいおい、悪のりすんなよ。
それを聞くやいなや、桜井はぼくのすねに強烈なキックをいれた。ぼくはたまらずたおれこむ。「とおっ!」なんて雄たけびをあげて、そこにすかさずダイブする桜井。
「やめろってー」
桜井はぼくの両脇をこちょこちょくすぐりはじめた。
「ちょ、そこ弱いんだって、や、やめ」
「どうだ! おまえの感じるツボはぜんぶわかってんだぞ!」
「そんなやらしい言い方すんなよお」
笑いすぎて腹筋が痛い。目とか口とかに砂だの海水だのが容赦なくはいりこんでくる。
「あははははは」
ミナミは行儀の悪い犬っころみたいなぼくらを見て笑っている。こわれた機関銃みたいにすごいいきおいで笑っている。桜井も笑う。ぼくも笑う。途中から、何がおかしくて笑ってるのかわからなくなった。
こんなに笑ったのは、ひさしぶりだ。
遊びに飽きて、ぼくらは、砂浜に体育ずわりして放心していた。じゃんけんで負けて飲み物を買いに行っていた桜井が帰ってくる。ぼくとミナミのあいだにずいっと割り込んで座る。
「はい、ミナミちゃんはミルクティ。倫太郎はコーヒー。しっかし、缶コーヒーなんて、おっさんくせえよな」
「おっさんで悪かったな」
熱いコーヒーはずぶ濡れになって冷えたからだにじんわりと沁みた。秋の陽はすっかり傾いて、水平線のちかくにある。
「ミナミさあ」
ぼくが話しかけると、ミナミは、うん? と目線をぼくに送った。
「今の、ていうかミナミから見たら未来の……、つまり、二〇一二年の自分に、会ってみたいとか、思う?」
「どうだろ。……ちょっと、こわいかな」
「ぼくは不思議で。今、この世界にはふたりのミナミが存在するんだよな」
「そういうことになるな」
桜井が言った。ぼくはつづけた。
「もし、その、ふたりのミナミが偶然出会っちゃったとしたら……やばいことになるのかな。爆発するとか、どっちかが消滅するとか……」
一拍間があって、桜井とミナミ、二人同時に噴き出した。
「なんだよ」
「ってか、それ、ドッペルゲンガーの都市伝説と勘違いしてね?」
「ド、ドッペルゲンガー? それって、自分とまったく同じ姿かたちをした存在ってやつ?」
「そう。同じ姿の人間が合いまみえると片方が消失すんのさ」
「えー? ちがうよ」
ミナミが口をとがらせた。
「この世には同じ顔をした人間が三人いて、その三人が一同に会すると爆発しちゃうんでしょ?」
なんだか話がどんどんずれてきた。ふたりの知ってる都市伝説は微妙に違うけど、「同じ存在」が出会うとやばいことになる、っていうのは共通みたいだ。
「なんか、そういうの、やっぱあり得ないことなんじゃないかな。自然の摂理に反するっていうの? みんな本能的にそれを知ってるんだ。だからそんな噂がささやかれるんだ」
ぶつぶつつぶやくぼくの頭を、桜井がはたいた。
「ばーか。大丈夫だよ。十四歳のミナミちゃんと二十八歳のミナミちゃんがまったく同じ存在なんてことはないんだ」
ぼくはひりひりする後頭部を押さえて桜井をにらんだ。ミナミも不安げに桜井の横顔を見ている。
「そもそもだな、生き物ってのは日々生まれ変わってんのさ。つぎつぎに細胞が死んで、新しい細胞に入れ替わってく。昨日の倫太郎と今日の倫太郎、明日の倫太郎はまったく別の存在なのだよ」
桜井は鼻の穴をふくらませて得意げに語った。
「うわー何そのドヤ顔。むかつくわー」
ぼくがまぜっかえすとミナミが好奇心いっぱいにたずねてくる。
「え? どやがお? なにそれどういうイミ?」
「えーと……一九九八年にはないコトバなのか……、うん、ドヤってるってのは、たとえばこういう顔」
「あははは、やだーヘンー」
ふざけながら、ぼくはさっき受けた軽い衝撃をごまかしていた。昨日のぼくと今日のぼくは別人。細胞はつねに入れ替わっているから。ならば、なんでそれでもぼくはぼくなんだろう。
ぼくって、なんなんだろう。
いつしかぼくらは無言になって、めいめいに、心のなかに色んなものを映しながら、海を眺めていた。まとわりつく海風がオレンジ色に染まっている。夕暮れが訪れたのだった。
太陽が赤みを帯びて、吸い寄せられるように海の向こう側へ沈もうとしている。だんだん潮がみちてくる。
ぼくは昔から、潮がみちてくる感じがきらいだった。日が落ちて、ひたひたと海がせまってくる感じ。真っ黒いなにかに飲み込まれるかんじ。それは、たったひとり、夕暮れのリビングで誰かの帰りを待つときの、どうしようもない心もとなさに似ていた。
「きれい。あたし、この夕焼け、きっと、ずっと、わすれない」
ミナミがつぶやいた。横顔が赤く染まっている。ぼくの視線に気づいて、へへ、と照れたような笑みを返した。きゅっと胸が縮んだ。
飲み込まれるもんか。だれかがとなりで笑っている。だからぼくも笑える、そう思った。