幼なじみ
水曜の朝、やっとミナミの熱は三十七度まで下がった。まだ彼女はぼくの部屋で寝ている。
きょうは天気もよくて空がすこーんと抜けるように青い。ぼくは庭の植物に水なんてあげていた。庭といっても、物干し台があるだけのせまいスペースだけど。
午後の日差しがやわらかく降り注いで、プランターのアロエについた水滴がきらきらと光った。ばあちゃんが生きてた頃に育てていたアロエ。ほかの植物はみんな枯れてしまったのに、こいつはしぶとい。
それにしても平和だ。ぼくがいてもいなくても世界はこの調子でまわり続ける。いま、ここで生きて呼吸している、そんなリアルな感覚がどんどん薄れていく。
「リンくん」
いきなり名前を呼ばれて、はっとして顔を上げると、眉をうんとキツくつりあげて仁王立ちしている沙雪がいた。いつの間に入り込んできたんだろう。
「ど、どうも」
「どうも、じゃないわよ。いったいいつになったら学校に来るのよ。はい、これ」
ぶあつい紙袋をぼくに押し付ける。
「リンくんが休んでる間の、ノートとプリント」
「ど、どうも」
「どうも、しか言えないわけ」
沙雪は腕組みしてぼくをにらんだ。学校帰りらしく、制服姿だ。
肩にかかるサラサラのながい髪。会うたびにだんだん細くなっていっている気がする、綺麗なアーチ型の眉。やりすぎじゃない程度にみじかいスカート。あらためて見ると、こいつ、ほうきを持って男子を追い回していた小学生の頃と、かなり変わった。少なくとも、見た目は。女の子はいつ、どうやって「オンナ」を磨いてるんだろう。つめの手入れとか、流行の研究だとか、そういうの。沙雪はぼくよりも十歩も、いや百歩くらい先を歩いているような気がする。
「リンくん。来週はテストだし、いい加減学校来なよ」
沙雪はそう言うと、ふっ、と視線を下に落とした。
「みんな心配してるよ。……あたしだって」
瞳をうるませている。涙をこらえているのだ。ドキリとした。あの、気の強い沙雪が泣くなんて。ぼくはさすがに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「そりゃ、急にお母さんがあんなことになって、ショックなのはわかるけど」
「だいじょうぶ。ショックなんかじゃないよ」
本当だ。びっくりするくらいぼくは平気なんだ。
「ごめん、明日はきっと行くから」
つい、約束してしまった。沙雪はこくりとうなずいた。ながい髪がさらりと風に揺れた。
リビングに戻ると、いつの間にか起き出していたミナミが、ソファに正座して(なんでだろう。落ち着くのかな)新聞を読みふけっていた。
「まだ寝てなよ」
「もうだいじょうぶだよ。熱も下がった」
ミナミは体温計をぷらぷらと振ってみせた。そしてソファに三つ指ついてぺこんと頭を下げた。
「お世話になりました」
「いいって」ちょっと照れたぼくはあわてて話題をそらした。
「そんなに面白いの。新聞」
「うん。あたし、こんなに一生懸命新聞読むの、はじめて。だって十四年後の新聞だよ? あ、テレビも観たい。つけて」
はいはい。言われるがままにテレビのスイッチをつける。ちょうどお昼のワイドショーがあっている。ミナミは「うそー。イノッチ結婚してんのー?」とか「誰この人。しらない!」とか、急にハイテンションになっていちいちぎゃあぎゃあ騒いだ。
「もとの時代に戻ったら、みんなに教えてあげなくちゃ。あたし、ノストラダムスより当たる大預言者になれるわ。いや、やっぱ頭おかしくなったって思われるのがオチか」
ひといきにまくしたてるミナミ。もとの時代、か。
ペットボトルのお茶をグラスに注ごうとしていたぼくは、ふと手を止めた。そうだよな。ほんとに十四年前からやって来たんなら、当然、いつかは帰らなきゃいけない。
「あのさあ。やっぱ、やめといたほうがいいと思うよ。こっちの新聞とか見るの」
「どうして」
「だって」ぼくは口ごもった。
「芸能ニュースくらいならさ、話のタネになるかもだけど。深刻なニュースとかうっかり見ちゃったら、ミナミ、未来がこわくなっちゃうかもしれない」
ミナミはうつむいて、だまりこんでしまった。もうすでに色んな情報を仕入れてしまった後なのかもしれない。それで、あえてカラ元気ふかしてるのかも。考えてみれば、ぼくらの時代に明るい話題なんて皆無だ。
沈黙が鉛のように重く沈んだ。
「それよりさ。倫太郎」
ふりはらうように、ミナミが顔をあげた。
「女の子泣かせちゃ、だめだよ」
「え?」
いきなりへんな方向に話の矛先が向いて、ぼくは面食らった。ミナミは続ける。
「この間の、電話の子でしょ。やっぱ彼女なんだ」
「ちがうよ。幼なじみだってば。沙雪は昔からああなの。おせっかいっていうか、世話好きっていうか」
なんて明るく否定しながらもアタマのすみっこには、さっきの沙雪の涙が引っかかっていた。やっぱ好きでもないやつのためには、泣かない……のかな。
昔から沙雪はぼくの世話ばっかり焼きたがる。だってリンくんはあたしの弟みたいなもんだもん、なんて本人は言ってるけど(それはそうと、同級生から弟あつかいされるって、どうなんだ)。でも、まさか、泣くなんてな。
「ていうか、のぞき見してたのかよ。まさか、話の内容、聞こえた……?」
「ううん。ここの窓から見えただけだから、会話までは聞こえなかった。それにしてもあの子、どっかで見たことあるような気が……」
ミナミは首をひねりながらいっとき逡巡し、ま、いいや、とつぶやいて、それからいぶかしげにこっちを見た。
「それより、聞かれちゃまずいことでも話してたの?」
「いや、べつに」
ぼくはもごもごと口ごもる。
ミナミは、ぼくがテーブルの上に置いたルーズリーフの束に目を通していた。
「このノート、すごくきれい。あんたのために、わざわざとってくれたんだね。自分のとふたり分、ノートとるなんて大変だよ。……やっぱあの子、あんたのこと好きなんだよ」
やけにからりと明るく言いながら、ミナミはぼくのわき腹をひじでこづいた。
「ちがうよ」
「絶対、そうだって。だってあのヤンキーくんが言ってたじゃん、嫁さん、って」
ミナミはいやにムキになって言い張る。熱でもうろうとしてたと思ってたけど、覚えてたんだ。あのとき桜井が言ったこと。
「だからそれはまわりが勝手に言ってるだけで」
「ねえ、じゃあ、もし告白されたらどうするの? つき合うの?」
「知らないよ。ていうか告白されるとかあり得ないし」
「わかんないよ?」
「やめろよ」
思いがけず、冷たくてキツい声が出てきて、自分でも驚いた。
「ごめん。怒った?」
「怒ってないよ」
「うそ。怒ってるじゃん」
「怒ってないってば」
ぼくはいらいらと声を荒げた。何も言えなくなったミナミはうつむいて、きゅっと口をとじてしきりに髪の毛を触っていた。
一体どうしたんだろう、ぼくは。途方に暮れたような表情のミナミと、同じく途方に暮れる、ぼく。
小さい頃から沙雪とのことを冷やかされるのには慣れている。はいはい、とか、そんなんじゃないよ、とか言ってテキトーに流すのにも。なのに。ミナミに沙雪のことを言われると、細い針金みたいな、するどくとがったものがぼくのからだをちくりと刺すんだ。なんでだ?
「ごめん、ミナミ。ごめんな」
「……いいよ。あたしこそごめん。そんなに気にしてるなんて思わなかったの」
なんだかわけもわからないままぎこちなく仲直りをして、ぼくらは、もそもそと夕ごはんを食べた。何もつくる気がしなくて、カップ麺ですませた。
やっぱりぼくはちょっと、情緒不安定ぎみなのかもしれない。
父さんが帰ってきたのは、もう日付が変わってしまったあとだった。どこかで飲んできで、代行で帰ってきたらしかった。足取りがふらふらして、アルコールのにおいをぷんぷん発散させていた。
「りんたろーう」
「はいはい」
「お父さんは、いい気分だぞー」
「ちょっと、どこ行くの」
「トイレ」
「そっちは応接間だよ。トイレはあっち」
ぼくは酔っ払った父さんが好きではない。ひどく手がかかる子どもみたいになるのだ。それで、同じ話を何度も何度もくり返す。
「はい、水」
ソファに倒れこんだ父さんにグラスを差し出す。
「りんたろう。おまえはしっかりした子だなあ」
「父さんがそんなだから、ぼくがしっかりするしかないんだろ」
真っ赤な顔でタコみたいに手首をくにゃくにゃしならせながら父さんはくだを巻く。お酒、弱いのになんでこんなに飲むんだろう。
「おまえ、カノジョはいないのか。カノジョは。向かいのさゆきちゃんとはどうなってるんだ」
父さんまで沙雪の話かよ。思わずため息がこぼれる。
「父さんの世話で彼女どころじゃないよ」
「いかんなあ。俺がお前くらいの年頃のときは、もうバレンタインとかすごかったんだから。下駄箱にチョコがぎっしり。ひとりで食べきれんから、近所の保育園の子たちに配ってやってたんだ」
「はいはい」
「なんだ。父親の言うことが信用できんのか」
「はいはい」
もう、カンベンしてくれ。父さんは、うーんとうなりながらソファに寝そべった。上着をぬがせ、ネクタイをはずし、シャツのボタンをあける。ベルトもゆるめてやる。それから、父さんの部屋から毛布を運んできて、かけてやった。なんて親孝行なんだ、ぼくは。
「……倫太郎。おまえに、……」
目をとじたまま、うわごとみたいにつぶやく父さん。
「会わせたいひとが、いるんでしょ」
ぼくはぼそっとつぶやいた。父さんはすでにいびきをかきはじめていた。
部屋にもどると、ミナミがぼくのベッドでみの虫みたいに毛布にくるまって寝ていた。布団は蹴飛ばしたのか、足もとのほうでぐちゃぐちゃになっていた。まったく、どいつもこいつも。
布団をかけ直してやろうと手をのばすと、とつぜんミナミがぱちりと目をあけてぼくの手をつかんだ。
「となりで、寝ていいよ」
一瞬、何を言われたかわからなくて、きょとんとしてしまう。ぼくがまばたきを数回する間にミナミはふたたび目をとじて眠りの世界に戻っていった。
なんだったんだ、さっきのは。
独立した、べつの生き物みたいにばくばくうごく、ぼくの心臓。あたたかでやわらかいミナミの手の感触。女の子の、手。
からだじゅうの血が沸騰しそうになるのをなだめて、とりあえず床に布団を敷いて横になった。もちろん今夜も眠れそうにないけれど。
寝返りをうつ。いつか桜井が言っていたことについて考える。時間とは、そもそも、過去から未来へとまっすぐに進むものなんだろうか……、ってやつ。
ミナミの存在がすっぽり抜けた一九九八年は、一体、どうなっているのか。ミナミの両親が行方不明になった娘を必死で探してる、そんな光景をなんとなく思い描いていたけれど、そんなことありえるのか。だってそれじゃあ、ぼくのいる現在から見た過去である一九九八年と、二〇一二年が、同時進行で進んでるってことになるわけで。
おかしくないか? だって、「今」って、まさに「今、この一瞬」しかないわけで、つかもうと思ったらすぐに過去になっちゃうわけで。二〇一二年における「今」と、一九九八年における「今」が、ふたつ存在するとか、ありえない。
それとも、ありえるのか?
いろんな世界の、いろんな「今」が、同時に、たくさん存在してる。
いろんな世界の、いろんな時間が、それぞれに流れている。
頭が痛くなってきた。一体、「時間」って、なんなんだ?
すう、と、すこやかな寝息が聞こえてきて、ぼくは、自分の輪郭がぼやけていきそうな不安の中から引き戻された。そっと手をのばして、ミナミの指先に触れる。そしてすぐに離した。
生きているぬくもりだった。