終わった後の世界
ぼくらはやがて学校に着いた。休日の学校にしのびこむなんて、はじめてだ。ミナミのやつ、最初からそのつもりで制服を着てたんだな。しかもぼくまで。
運動場ではジャージを来た陸上部の連中がトラックをぐるぐると回っている。テニス部のやつらがボールを打つ爽快な音がスコーンと響く。校舎と特別教室のある別館をむすぶ渡り廊下では、金ぴかの楽器を持った女子がメトロノームにあわせて音階練習をしている。
ぼくらはいったん校舎の影にかくれて身をひそめた。
「あたしユーフォしてんだ」
ミナミが出し抜けにつぶやく。
「UFO?」
「ユーフォ。ユーフォニアム、の略。楽器の名前」
「なんか楽器っていうより化学物質の名前っぽくない? どんな楽器なの、それ。」
「かたちは、テューバを小さくしたかんじ。あったかい音がするの。ほら、あの、メガネの男の子が吹いてるやつ」
いや、テューバ自体よくわかんないんだけど、なんて思いながらミナミの指差すほうを見ると、別館横の植え込みのそばで、メガネの細っこい男子が銀色の楽器を抱きこむように吹いている。楽器のアサガオの部分を空にむけて、顔を真っ赤にして。
「あたしほんとはトランペットがしたかったんだけどさあ。なぜかユーフォすることになっちゃって。でも今は気に入ってる」
行こっか、そう言ってミナミがぼくの制服のすそを引っ張った。行こっか、って、どこへ。
ミナミは校舎の中にあがりこんで来客用のスリッパを勝手に履き、ずんずん歩く。何をする気だ?
「よかった。見たところ、校舎に変わったところはとくにないみたい。さすがに老朽化は進んでるけど。職員室はこっちで合ってるよね。……倫太郎、音楽の先生の名前はなに?」
「……? 小川だけど」
「しつれいしまーす」
ミナミはがらりと職員室の扉をあけた。中にはジャージ姿の先生がちらほらいるだけ。土曜日の職員室には平日のようなざわめきはなくて、かわりに、のんびりと間延びした空気がコーヒーの香りとまじりあってただよっている。
ぼくは一瞬の間に職員室中を眺め回し、担任がいないか確認した。
――いない。オッケー。
「倉庫の鍵かります。小川先生に頼まれてきました」
入り口付近の壁にかけられている鍵の束をひっつかむと、ミナミは平然と言ってのけた。はいよ、と奥のほうからのんびりした返事が返ってくる。ろくにこっちを見もしない。国語のサトじいの声だ。老体にむち打って休日出勤とはご苦労なことだ。
それにしても……、ミナミって。
「ホントにうちの生徒だったんだね」
「あんた、信用してなかったの?」
ぶつくさ言いながらミナミは歩く。別館へとつづく渡り廊下をすすむ。さっきまで練習していた吹奏楽部員はいなくなっている。ぼくは抜き足さし足しのび足でそろそろと後へ続く。
「あんたさあ、そんなにこそこそしてると逆にあやしいよ。もっと堂々と」
そんなこと言われても。もし、さっきみたいに知ってるやつに見つかったら、この状況を何て説明すればいいんだ。
階段をのぼり、最上階である四階まで来た。ここには音楽室と音楽準備室しかない。音楽室から、きれいなハーモニーが響いてくる。賛美歌みたいな、ゆったりとしたメロディ。全体練習でもしてるのだろう。おかげで誰にも会わずにすんだ。
「めちゃくちゃうまくなってる」
ミナミは感心したようにつぶやいた。
「あたしたちなんて、すごい下手くそなんだよ。部員の半分が楽譜すら読めないの」
「吹奏楽部のようすが知りたかったの?」
「ううん。そうじゃない」
ミナミはそう答えて、音楽準備室の隣の、倉庫Aというプレートのついた扉の鍵穴に細長い鍵を差し込んだ。こんなとこに倉庫の扉があったなんて、気づかなかった。目立たないよう壁と同じ白い色で塗装されてるし、移動教室のときもなんとなく通りすぎるだけの場所だし。
ミナミは倉庫の引き戸をあけた。
中はほの暗く、空気がつめたかった。図書館の地下の、ふるい蔵書や過去の新聞がおいてある倉庫みたいな雰囲気。大小さまざまな黒い楽器のケースがところせましと並んでいる。ひっそりと息をしながら、誰かが奏でてくれる日を待っている。
「なんか探したいものがあるの?」
「物じゃないんだけど……あ、あった」
ミナミは右の角っこに置いてある、大きな楽器をどかした。かたちはバイオリンみたいだけど、ミナミの身長よりでかい。
「それ何て楽器?」
「コントラバスよ。授業で習わないの?」
ミナミはぼくにちらりと冷たい視線を投げた。
「探してたのは楽器じゃなくてこっち」
ミナミが指差すほうを見る。さっきまでコントラバスが立てかけられていたところ。むき出しのコンクリの壁に、ホッチキスの針みたいなコの字型の突起が並んでいる。上まで登るためのはしごだ。
「まさか登るの? ぼく、高所恐怖症なんだけど」
「いいから、ついて来な」
ミナミはレディースの総長みたいな口調で言って、突起に足をかけた。
はしごは天井まで続いていた。天井にはちいさな出口があった。それは取っ手のついた扉で上からふたをするみたいに閉じられていて、ミナミはその扉を外側にむかって押し出すようにして開いた。がたりと大きな音がする。
ミナミのずっと下のほうで、スカートの中を見ないようにしばし下を向いて(いや、じつは一回ちらっと見たけど、中身がトランクスでげんなりした)待機していたぼくは、ふいにミナミのすがたが消えたのに驚いた。
「こっちこっち」
天井のむこうからぼくを呼ぶ声がする。四角い出口がひかりで白く輝いてみえる。
外へ出るとすうっとつめたい風が前髪をすくった。まぶしくてぱちぱちと目をしばたかせる。目がひかりに慣れなくて、赤っぽい残像みたいなものが視界をジャマする。
「屋上だ」
ぼくはつぶやいた。
「こんなところから屋上に出られるなんて」
「あたしもついこの間、発見したの。放課後、先生に言われて、倉庫で楽譜探してて」
ミナミがぼくのほうに寄ってくる。
「みんなでこっそりはしごのぼって、出たところが屋上だもん。興奮したあー」
目を輝かせているミナミのうしろに、雲ひとつない澄んだ空が広がっている。まっさらな秋の空だ。冴えた、どこまでもひろがる青。
「憧れだったんだ。まんがやドラマみたいに、屋上でボーッとしたり友達と語ったりするの。ほら、うちの学校、屋上に出られないじゃん。どこにも階段がなくって」
さあっと風が吹いてミナミは右手で髪を押さえた。頬がほんのり紅潮している。ぼくは、ちょっとだけ、見とれた。
ぽーっとしているぼくを置き去りにして、ミナミは身をひるがえして駆けていく。コンクリの床と空を区切るのは、たよりない、塗装のはげかけたフェンスだけ。蹴破ってそこから一歩でも飛び出せば奈落の底に落下する。昔のひとが想像した、海の向こうのこの世の果てみたいだ。
ミナミは走る。屋上の端っこに立つ。フェンスにもたれかかる。
「こっちおいでよ」
「冗談じゃないよ。高所恐怖症だって言ったろ?」
そう言いながらもぼくはナメクジみたいにのろのろと、少しずつミナミのほうへ歩みよった。身がすくむ思いだ。気温が地面近くより一度くらい低い感じがする。
ぼくはミナミのちょっと後ろに立った。足がふるえて、土踏まずの部分がすうすうする。
ぼくらの教室がある校舎のむこうにおもちゃみたいな町並みがあり、そのずっと遠くに水平線の切れ端がぼんやりと見える。小さな、みずいろの海のかけら。ぼくの世界にもミナミの世界にも、きっとぼくもミナミもまだ存在していない世界にも変わらずにあるもの。
「んじゃ、あたし帰るわ。またね倫太郎」
唐突なミナミのことばに、え? と我に返る。ミナミはフェンスに足をかけてよじ登ろうとしている。
「何してんの!」
「帰るんだってば、もとの世界に。漫画で読んだことあるんだ。高いとこからとび降りて、そのままタイムスリップする話」
「やめろよ!」
ぼくは必死でミナミのからだをフェンスから引きはがそうとした。
「バカじゃねえの? 危険すぎるだろ!」
渾身の力を込めてミナミのからだを引っ張る。と、いきなりミナミが力を抜いて、反動でふたりとも仰向けにひっくり返った。
「いってえ……」
したたかに打った後頭部ににぶい痛みがはしる。視界には真っ青な空しかない。
鳥の鳴く声がする。遠く、運動部のホイッスルの音がする。それを合図にしたかのように、下界から、たくさんの楽器たちのハーモニーが、ぶわあっと響いてくる。
「空ってなんで青いか、知ってる?」
ぼくの横で仰向けに転がったまま、ミナミが言った。ちらりと見やる。ぼくの目に映るミナミの横顔。うすい胸がゆっくりと上下してるのがわかる。そしてふたたび青空にぼくの視線は吸い寄せられる。
「空が青いのはね、太陽の光が空気の中を通るとき、波長のみじかい青い光だけ分子に当たって散乱するからなんだって。青い光だけ寄り道しちゃうんだね」
「へえー」
なんだか、いまいちピンとこない。散乱?
「ミナミ、じつは頭いい?」
「よくないよ。普通。ていうか常識じゃない?」
「ぼく、文系だからよくわかんないや。こんなきれいなのに、波長がどうのとか、散乱がどうのとかさあ、理屈つけちゃうのは興ざめっていうか」
ミナミはふふんと鼻を鳴らした。
「オトコってロマンチストなんだから」
だれの受け売りの台詞だ。ばかにされてちょっとむっとする。
ミナミは、よっ、と立ち上がった。つられてぼくもからだを起こす。
「いいじゃん。昔から、空が青い理由をしつっこく考えたひとたちがたくさんいてさ、それのおかげであたしが倫太郎にこうして説明して、威張れるんだから。 なんだかすごいよね」
ぶっ、と思わず噴き出した。
「ミナミって変なやつ。十四年後の世界にいきなり来ちゃって、いつもとの時代に戻れるかわかんないんだよ? そんな状況なのになんで学校に忍び込んで屋上なんだよ。いや、悲観的にならないようにしようと頑張ってるのはわかるけど」
ミナミは何も答えなかった。見つめる先は、水平線のむこうの、もっとずっと遠いところにある。今にも、どこかに吸い込まれて消えてしまいそうだ。
「あたし、じつはかなり安心したんだ」
ややあって、彼女は口をひらいた。
「人類が滅亡してなくって」
「はあ?」
ぼくはすっとんきょうな声を出した。
「大昔、ノストラダムスってひとがいて、一九九九年に世界は滅亡するって預言したの。あんたは知らないかもしれないけど」
「知らない。何それ」
「やっぱ知らないよね。一九九九年七の月、空から恐怖の大王が降りてくる、っての。あたしがいた元の世界は今一九九八年で滅亡までリーチだから、テレビでもよく特番やってるんだよ」
「へーえ。覚えてないな。だってその頃まだ生まれたばっかだもん」
「……生まれたばっか……」
絶句するミナミの顔をちらりと見やって、聞いてみた。
「まさか、信じてたの……? その預言……」
ぼくをじろりと睨むまるいふたつの目。
「悪い?」
「いや、悪かないよ。悪くないけどさあ」
ミナミはくるりと振り返って、今にも吹き出しそうなぼくのわき腹にすばやくパンチをしずめた。
「ぐえっ」
大げさに身をかがめてみせる。ミナミは耳まで赤くなっている。
「だって恐怖の大王だよ? 核弾頭とか隕石とか、たぶんそんな強力なヤツだよ。そりゃまるっきり信じ込んでたわけじゃないけどさ、あり得ないとは言い切れないじゃん」
ほう、と息をつく。
「ここが、あたしも家族も友達もみんな死んじゃった、終わったあとの世界じゃなくって、ほんとうによかった」
「終わったあとの世界」
ぼくはつぶやいた。
ミナミは知らない。だけど、二〇一二年のいま、日本に生きるぼくらは知っている。ある日突然今までいた世界が一変する。突然、あたりまえの日常が奪われる。そんなことが本当にあるんだということを。だけど、世界は決して終わらないんだということも。
ひとは死んだらどうなるのだろう。天国も地獄もあの世もみんな人間の妄想で、実際には目に見えないほどの無数のチリになるだけなのかもしれない。空が青い理由を説明した人間の名前は残るけど、のちの人間にその知恵は受け継がれるけど。そのひと自体は、意識は、こころは。もうどこにもない。
ぼくもミナミも父さんも、沙雪も、さっき商店街にたむろしてた桜井や卓球部の連中も。みんなみんなはかなくちっぽけな、神様がふっと息をふきかけたらどこかに飛ばされて消えてしまう、そんな存在のような気がして、ぼくはなんだか自分が誰で今どこにいるのかわからなくなってしまう。
そろそろ帰ろっか、と言ってミナミはぼくの袖をひっぱった。空気がつめたくなってきた。ミナミは大きなくしゃみをひとつ、した。