タイムスリップ?
「リンくん。今どこにいんの?」
電話ごしに高い声がキンキンと響く。向かいに住んでる、同級生の沙雪だ。こいつはとにかく口うるさい。
ミナミはすうすうと気持ちよさそうに寝息をたてている。かぼちゃプリンを作り終えて、部屋でひと息ついていたところで携帯が鳴った。紗雪の名前が表示されているのを見て、ぼくはため息をついたのだった。
またか、と。
「家だよ。なんだか熱っぽくて」
「うそばっかり。昨日は頭痛で、おとといは腹痛だったじゃん。なにがいやなの?」
べつになにもいやなことはない。友達ともうまくいってるし、成績だってそんなに悪くない。良くもないけど。
押し黙るぼくに沙雪はさらにかみつく。
「あのさあ、悪いけど……」
「先生には風邪だって言っておいてあげたから」
「ありがと。今度お礼に何かおごるから」
「そんなのいいよ。そ・の・か・わ・り、明日はぜったい来てよ? 授業についていけなくなって困るのは、リンくんなんだからね。一緒の高校に行こうって約束したのに、破ったらただじゃおかないから」
「ねえ、そのリンくんっての、やめてよ。それにいつそんな約束したっけ?」
言い終わらないうちに電話が切れた。ツー、ツー、ツー。
「彼女から? やるじゃん」
いつのまにか起きていたらしいミナミが、ベッドに腰掛けて乱れた髪を結び直している。いまさら、ってかんじだけど。出窓から西日が差して、ミナミのぴんとはねたツインテールを金色に縁取っている。
「彼女じゃないよ。幼なじみ」
彼女でもないのになんでこんなにうるさく言われなきゃなんないのか、ぼくだって知りたい。まあ、先生に偽装工作しておいてくれたのには感謝だけど。
きのうから、携帯のメールボックスは、気づいたら沙雪からの登校催促メールでいっぱいになっていた。べつに、ほかに友達がいないってわけじゃないんだけど。それにしても、なんでズルだってばれたんだろう。
「ふうーん。リンくん」
ミナミはからかうような目つきでぼくを見た。
「ま、いいけど。それにしてもあんた、中学生のくせに携帯持ってるの? ちょっと見せてよ」
ミナミはぼくの携帯を取り上げて、上にしたり下にしたりさかさまにしたり、もの珍しそうにじろじろ観察し始めた。
「ミナミ、携帯持ってないの?」
「持ってるわけないじゃん」
ミナミはそっけなく答えた。
「こんなの、見たことない。薄いし、画面もテレビみたいにきれい。ていうかうちのテレビより画質いい。ねえ、この写真、きれいだね」
待ち受けの画面を指差す。
「これ、おととい、家の近くで撮ったんだ。珍しくない? こんな形の雲」
それは空の写真だった。コンビニから出て空を見上げたら、うろこ雲が風に流されて、まるで鳥の翼のような形に広がっていたのだ。見たとき、思わず「おおおおっ」と叫んだ。
「撮った?」
ミナミは目をぱちくりさせた。
「あんたが?」
「そうだよ。この携帯で撮ったの」
変なとこで変なリアクションとる子だなあと思いつつ、携帯を強引に取り返し、レンズ部分をミナミに向けてシャッターを切った。かしゃん。
「ほら。きみの写真、撮れた」
液晶画面を見せつけてやる。ぽかんと口を開けたミナミの顔がばっちり撮れている。ミナミは5秒くらい絶句した。
「すご……。あんたこれ、どこで買ったの? 中学生で携帯持ってるってだけでも贅沢なのに、こんな最新機種。すごい甘やかされてない? あんま、そういう育ち方、よくないよ」
「余計なお世話。ていうか普通だよ。べつに最新じゃないし。ジュニア向けのスマホだよ。動画だって撮れるし、インターネットだってゲームだってできる。テレビだって見れる。それに携帯なんてぼくのクラスじゃほとんどの奴が持ってる。しかもみんなスマホだし。ま、学校で使うのは禁止だけど」
変なこというなあ、と思いながらミナミのほうを見る。ミナミは、眉間におもいっきりしわを寄せた。
「動画? クラスのほとんど? ていうかスマホってなに? スマップの番組? いったいあんた何言ってんの? こんなの、あたしのクラスでは誰も持ってないよ。だから携帯禁止なんて校則存在しないし。あ、でもこないだ二組の女子が学校で携帯自慢してて没収されてたなあ。ま、その子ぐらいよ。うちはお姉ちゃんだって持ってない。お姉ちゃん、中学のときポケベルを買ってもらったけどすぐ飽きて、高校入ったとたん携帯ほしいって言い出したもんだから、お父さんに叱られてんの」
しょうがないお姉ちゃんだよね、とミナミは大げさにため息をついてみせた。
ポケベル? 何だそれ。いつの時代の中学生だ。いつの時代の……。
まさか、ミナミって。
ふと、ある可能性を思いついてしまった。いや、でもそれはあんまりだ。ぼくは頭がへんになったのか?
「なに? その、新種の生き物でも発見したみたいな目つき。あたしの顔になんかついてる?」
「ミナミ。ちょっとこっち来て」
ぼくはミナミの腕をつかんだ。確認してみる価値はある。ちょっと何すんの、痛いよ、ミナミがわめいたけど無視した。
リビングのドアをあけてミナミを押し込む。すぐさまぼくはローテーブルの上にあるテレビのリモコンを手に取った。
「なにこのテレビ。超うすい」
ミナミはテレビに駆け寄って、おそるおそる触ってみたり、後ろに回り込んで配線コードをつまんでみたりしている。電源を入れると、ちょうど夕方のニュースがはじまったところだった。キャスターの挨拶のコメントも早々に、画面が国会の映像に切り替わる。ミナミは食い入るように画面を凝視している。
「めっちゃ画質よくない? すごいリアルなんだけど」
「デジタルだからね」
ぽかんと口を開けるミナミ。このリアクション。ぼくは、画面の中の、答弁してる政治家を指差した。
「これ、誰だかわかる?」
「わかんない」ミナミはかぶりを振った。「知らない人。政治家?」
やっぱり知らないのか。
「今の総理大臣。もちろん、日本の」
「嘘でしょ」
「嘘じゃない。テロップにも出てるだろ」
ミナミは信じられないといった表情でテレビに見入っている。
「あたしが知らないうちに総理が変わったのかなあ。最近ニュース観てなかったから」
「そうじゃないと思う」
背すじを、つう、と冷たいものが撫でる。疑惑が確信に変わろうとしている。
まさか、いや、でも。まだ待て。ぼくはミナミをまっすぐに見据えた。
「違和感がどうのこうの、って言ってたよね。その話、くわしく聞かせて」
冷蔵庫から出しっぱなしでぬるくなってしまった麦茶を、ミナミはずずっと湯呑に淹れた熱いやつを飲むみたいな音をたててすすった。それから、冷やしておいたかぼちゃプリンをスプーンですくって口にはこぶ。
「まずい」
正直な意見だ。たしかにこれは失敗作だ。卵とかぼちゃは分離してるし、火を通しすぎたせいでひどくぼそぼそする。口直しするみたいに、もうひと口麦茶を飲んでから、ミナミはぽつりぽつりと話し始めた。
「記憶がね、どうも、あいまいなの」
グラスをテーブルに置く。ことん。
「あ。べつに記憶喪失とかじゃないよ。自分の名前とか生い立ちとか、おととい食べたお弁当の中身だって覚えてる」
ぼくはうなずいた。弁当。ぼくの中学は給食だ。またもやかみ合わない。でも、今はそれについてはスルーする。ミナミは続けた。
「あいまいなのは、今朝からの記憶。今日は朝練の日だったのに、あたし、すっかり忘れて寝過ごしちゃって。それで、ごはんを食べないで慌てて家を出たの。そこまでは覚えてる」
「朝練?」
「うちのクラス、文化祭で合唱するんだ。その練習」
文化祭。早いな。ついこの間体育祭が終わったばかりだと思ってたのに。
「で、なんかよくわかんないんだけど、あたし、気づいたら家のちかくの交差点に座り込んでたの。車のクラクションではっとして。あれ? って思った。あたしは自転車通学で、今朝ももちろん自転車に乗って家を出た。なのにどこにも自転車がないの。かばんもリュックも見当たらないの。それにね、道路も広く、新しくなってんのよ。おかしいな、って思いながらも、急いでたからとりあえず学校の方向へ走ったのね」
ミナミはふうと息をついた。
「でも、それからも、あれ? って思うことがいっぱいあった。たとえば、近所の和菓子屋さんがなくなって、ほら、三船町のワタリ菓子輔、って、知らないか。そこに駐車場があったり、友達の家が新築のアパートに変身してたり。昨日まではたしかにあったのに。あたし、頭でも打ったのかな? それともこれは夢なのかなって思った。
「決定的におかしいって思ったのは、踏切。通学路の途中にある踏切のね、遮断機や警報機がないのよ。え? 列車来たらどうすんの、って思って線路を見たら、レールがないの。枕木も。赤茶けた砂利が敷き詰められた線路の名残りみたいなものが、ずっと続いてるの」
この街を通っていた鉄道は赤字続きの経営難で、去年の暮れ、ついに廃線になった。ミナミのいた世界では走っていたはずの列車。
「あたしが歩く道はたしかにあたしの街で、でもどこかちぐはぐで、あたしは雑につくったにせものの世界に迷い込んだみたいな、そんな奇妙な気分だった。あたしは学校にいくのをやめて、枕木もレールもない線路をひたすらに歩いたの。トンネルをくぐったら視界がひらけて海が見えた。嬉しかった。あっ、海はおんなじだって思った。潮風のべたつく感じとか、波の音とか、ぜんぶ。あたしが知ってる海」
ミナミは麦茶をあおるように飲んだ。ごくりと喉の鳴る音が聞こえた。
「浜に降りたら安心して、急にふらふらして、倒れちゃったみたい。朝ごはん抜いたから。あたし、今までにも朝ごはん抜いて学校で倒れたことが二回あるんだ」
おまけみたいに付け足した。
ぼくはずっとカップのなかの琥珀色の液体を見ていた。ため息をつくと、それは凪いだ海みたいにゆらりと波打つ。
信じられない。これはもう、決定的、なのかもしれない。
「ミナミ。きみ、生年月日は」
「はあ?」
何でいまそんなこと聞くの? と言いたげな目。
「いいから」
「……昭和六十年五月二十日」
やっぱり。ぼくは頭をかきむしった。こんなことってあるのか。
「どしたの?」
「落ち着いて聞いて。ぼくの生年月日は」
深呼吸。まずは自分が落ち着かないと。
「平成十年、六月二日」
「……へいせい? じゅうねん?」
ぼくはこくりとうなずいた。
「きみはぼくより、十四歳年上なんだ」
口に出してみるとそれはあまりにも荒唐無稽なことだった。目の前のミナミはぼくのクラスの女子よりよっぽど幼くて、年上どころかまだ小学生でも通用しそうだ。
「まさか。だって、いま、平成十年でしょ」
「ちがうよ。平成二十四年。二〇十二年だよ」
「そんな。あんた、何言ってるの? 二〇十二年て、もう二十一世紀じゃん。まだ一九九八年のはず」
ぼくは冷蔵庫に貼ってあるごみ出しカレンダーをあごで指した。平成二十四年、と太字のゴシック体ででかでかと書かれている。
「誤植?」
「ちがうよ」
ぼくはふたたびテレビの電源を入れた。スポーツ・ニュースをやっている。
「卓球の愛ちゃんが、大人になってる……」
「福原愛。今年のロンドンオリンピックで、団体で銀メダル取ったよ」
「は。ロンドンオリンピック? 今年のって、こないだ長野五輪が終わったばっかりだよ。夏季は、ええと、前のはアトランタだったと思うんだけど……」
ミナミは眉間にしわを寄せてぶつぶつつぶやいている。混乱しているようだ。
画面が切り替わって、ふたたび目を見開いた。
「ていうかこの人松坂大輔? え、メジャーリーガーなの? ついこの間甲子園で投げてたのに。あたし家族とテレビで見てた」
「へー。松坂ってミナミのとこじゃあ、まだ高校生なんだ」
「ミナミのとこ、って……。どういうこと。まさかあたし……。でもありえない、そんなこと」
「でも、そう考えないとつじつまが合わないよ。きみもぼくも何一つ嘘をついてないっていうのなら」
自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくりと話した。
「ミナミはぼくと同じ北中。だけど今はない二年四組。ミナミはギャル曽根も今の総理大臣もしらない。ミナミの姉ちゃんはポケベル持ってた。駐車場になった和菓子屋。アパートになった家。廃線になった鉄道。いきなり年上になった愛ちゃん。いきなりメジャー行った松坂。ぜんぶ説明がつくだろ」
「……廃線になったの?」
「うん。線路跡をどうするかは、いま、市が協議してる」
「市?」
「合併したんだ。となり町と」
ミナミはしばし呆然とし、それからゆっくりあたりを見回した。
「あたし、もしかして」
「タイム・スリップ」
ふたりの声が揃った。きれいなユニゾン。と同時にミナミがぶぶぶと噴き出す。
「ないない。あたしが十四年後の世界にタイム・スリップしたなんて。よくできた夢よ。夢に決まってる」
「ちょっと待って。これがミナミの夢だとしたらさあ、ぼくは何なわけ? ミナミの夢がつくり出した架空の人物?」
「残念ながら、そうなるね」
「冗談じゃないよ」
むきになって言い返した。
「もしこれが夢だとするなら、ミナミのじゃなくてぼくが見てる夢だ。架空の人物はミナミのほうだね」
「あたしの夢だってば」
「ぼくの夢!」