生きていく以外に、何ができるだろう?
……ナミ。ミナミ……。
だれかに呼ばれて、あたしはそっと目を開ける。
ここが死後の世界か、と思った。みょうに白くて、まぶしくて、清潔で、消毒薬のようなにおいがして……。
消毒薬?
「佐藤さん? 佐藤さん?」
見知らぬ女のひとが目を大きく見開いてあたしの手をにぎった。何だろう、このひとの、この格好。うすいピンクいろの、制服みたいな……、
からだを起こそうとしたのを、あわてて止められた。ちくりと腕が痛んだ。見ると、そこには針がささっている。針は細長い管につながっていて、その先には透明な液体のはいったパックがある。
わかった。
いきなりあたしの世界が回転をはじめた。ここは病院。このひとは、看護師さん。
にわかに周囲が慌ただしくなり、わらわらとひとが集まってくる。お母さんがいる。お父さんも、お姉ちゃんも。
お医者さんが診察をはじめた。腕をとって脈をみている。
「いま、せいれき、何年ですか」
あたしは、ことばを覚えはじめたちいさなこどもみたいに、たどたどしく、聞いた。
「せんきゅうひゃくきゅうじゅうはちねん、だよ」
低いけどはっきりした声が耳に届く。せんきゅうひゃくきゅうじゅうはちねん。ゆっくりと頭の中で繰り返す。聞き間違いじゃ、ない。
一九九八年。あたし、生きてる。死んでない。それともこれは夢。
自分の存在が、今いる場所が、すべてがぐらぐらしはじめた、その瞬間。くちびるに、なにか、あたたかい感触がよみがえった。
――何だろう、これは。思い出そうとすると、からだの中心が熱くなって、あたまの中にぴかぴかと電気がはしった。ちりぢりになったちいさなきれはしがいくつも、つながってひとつになっていく。
倫太郎。
あたしは事故にあったものの、奇跡的に軽傷で済んで、だけど意識は三日間もどらなかったらしい。退院してしばらくたった頃、お母さんに聞いた。
空は冴えて、通学路には金木犀のあまい匂いが満ちていた。線路には枕木がちゃんとあり、古ぼけたディーゼルががたごとと走り去っていく。
おはよ、と背中を叩かれて振り向くと、詩織だった。男の子みたいなショートカット、こんがりと日に焼けた肌。ぼんやりと、十四年後の大人になった詩織のシルエットがかさなる。あれは、あたしがいたあの世界は、いったい、何だったのか。ながい、ながい、リアルな夢を見ていたんだろうか。
それに、あの、最後に通ったあのトンネル。あの闇の先に強烈なひかりがあって、あたしのからだぜんぶ、存在ぜんぶを吸い寄せたの。彼があんなに必死になって引き止めてくれたのに、なのにあたしは。
「どーしたの南。ぼうっとしちゃって。あれかな? ほら、事故の後遺症?」
「……うーん、そうかもしれない。なんか現実感がなくて、足元がふわふわするの」
「そっかあ。ま、ゆっくり自分のペースで過ごせばいいんじゃん? ほんと、車にはねられたって聞いたときは、心臓止まるかと思ったもん!」
詩織がわたしの腕に腕をからませてくる。
「ほんとうに、無事でよかった! 南、超、愛してる!」
ぎゅ、っと詩織がわたしのからだを抱きしめた。やめてよもう、とわらいながら、頭のすみっこで、やっぱり女の子と男の子では抱きしめられた感触はぜんぜんちがうな、なんて考えてた。あのときの倫太郎は、すごく切実で、力加減なんていっさいしてなくて、あたし、すっごい苦しかった。苦しくて、どきどきして、息ができなくって……。
好きだった。
夢なんかじゃない。
あたしは確かに、二〇一二年――、今から十四年後の未来にいた。そこは、あたしがいない世界、あたしが死んでしまったあとの未来、だった。
タマシイというものがほんとうに存在するのなら、車にぶつかった瞬間のことを思い出したそのとき、あたしのタマシイは、もうほとんどどこかに持ってかれそうになってて。
ここにいちゃいけないと強く思った。存在しないはずの人間がいちゃいけないんだって。なのにあたしは恋をした。
倫太郎がいる世界と、あたしが今いる世界。もともと、あたしがいた世界。どれがほんとうなのか、それともどれもほんとうなのか、あたしにはわからない。ただわかるのは、あたしは、もう二度と倫太郎には会えないってこと。
一九九八年の六月二日が誕生日だって、倫太郎は言ってた。赤ちゃんの倫太郎が、多分、この町のどこかにいる。これから時がすぎて、十四歳になった倫太郎と、どこかですれちがうこともあるかもしれない。だけどそれは、あたしの知ってる、あたしの恋した倫太郎じゃない。
あたしの彼は、あたしの手の届かないところにいる。
澄んだ空、つめたい空気を胸いっぱいに吸い込む。オリオンのとなりなんて、言うんじゃなかったな。昼間は見えないし、夏のあいだも見えないもん。
――ミナミ。
どこか遠くで、あたしの名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
うつむいて、あたしも好きよと、ちいさくつぶやく。最後に、ちゃんと、伝えればよかった。
鼻の奥のほうがつんとする。からだの中心が、痛い。痛くて、くるしくて、泣いてしまいそう。だけど。
顔をあげた。前を見る。涙をぐっと飲みこむ。
だけど、あたしは生きていく。そうする以外に、何ができるだろう?
生きていくんだ。
この世界で。
完
読んでくださり、ありがとうございました。
地元をモデルにしてます。
自分自身が地元を離れたのが九八年ですが、帰省するたびに町がさびれ、田畑が荒れ、子どもが減り、母校は廃校となり……、という有り様です。だけど海だけはキレイです。
イメージした曲は、スピッツ「流れ星」でした。