ひっそりと流れ続けていた時間
至近距離で見ると、それはかなり立派な柿の木だった。大きくて、幹がふとくてごつごつしてて、たたずまいが堂々としている。樹齢はかなりいってるんだろうけどまだ現役って感じで、たくさんのオレンジ色の実をつけている。
「おばあちゃんが生まれるずっと前からあるんだって」
ミナミがひそひそ声で言った。
「木って、長生きだよねえ。ずっと同じとこに根を張って生きてるから、あたしたちとは流れてる時間が違うのかなあ」
ぼくたちは柿の木の後ろに身をひそめてミナミの両親の家のようすをうかがっていた。塀や柵なんかはなくて、どこまでがこの家の敷地なのかはよくわからなかった。
大きな和風の平屋のそばに車庫があり、シャッターが下りているところを見ると、外出している人はいないようだった。玄関ちかくには菊の花の鉢植えがたくさんあって、軒下には干し柿がいくつもぶら下がっていた。それはいかにも田舎の、年寄りがいる家らしい光景だった。うちのばあちゃんもそうだったけど、年寄りというのは、やたらと色んなもの――柿だの大根だの梅だの果物だの――、を、干したり漬けたりしたがるものだ。
家からはあたたかなオレンジ色の光がもれている。ぼくらはとりあえず玄関の前まで来てみた。……来てみたものの、やっぱりいざインターフォンを押すとなると怖じ気づいてしまう。
「倫太郎、早く押してよ」
「いや、でも。ここミナミの家だし、ここはやっぱミナミが」
「いいのよ遠慮しないで」
「いや、遠慮なんてしてないよ、ホント」
「何よ。そもそも言いだしっぺはあんたじゃない」
なんてごにょごにょ押し付け合って、結局じゃんけんで負けたほうが押すことになった。何かの罰ゲームみたいだ。
「さいしょはグー、じゃんけん」
ぽん。ミナミはパー。ぼくはチョキ。
「倫太郎、遅出ししたでしょ、遅出し」
「してねえよ」
「ね、三回勝負にしよう、三回勝負」
「だめ」
「ケチ。一緒についていってやるとかカッコいいこと言ったくせに、口先ばっかりじゃん」
ミナミは下くちびるをかみしめてぼくをにらんだ。それもそうだ。ぼくは意を決して、
「……わかった」と言った。
思いっきりふかく息を吸い込んで、ふるえる指でインターフォンを、
押した。
ピンポーン
と、同時に、すごい力で手首をつかまれて、車庫の脇まで引っ張られていった。がらがらと玄関の引き戸が開く音。どなた、と来客を探す女の人の声がする。
「ちょ、ちょっとミナミ。これじゃピンポンダッシュじゃん」
心臓がばくばくしている。ミナミはシッ、と小さく言ってぼくの口をふさいだ。
車庫の影から身を乗り出して、おそるおそる玄関先のようすをのぞき見るミナミ。
「あれ、お母さんだ。……お母さん、すごく、白髪、増えた。しわが、増えた。」
暗いせいもあって、ぼくには顔のしわまではよくわからなかった。でも、ミナミには見えるのかもしれなかった。
「……泣いてるの……?」
「泣いてないよ」
ミナミの目は潤んで光っていたけど、すんでのところで涙がこぼれ落ちるのをとどめているようだった。
そのとき家の下の小道を通る車のライトに一瞬顔を照らされて、その光がこっちに向かってくるのに気づいた。エンジンの音が近づいてくる。
「やばいよミナミ、誰かお客さんがくるみたい」
ぼくらは顔を見合わせ、からだをかたくしてその場にしゃがみこんだ。ここで小さくなってれば見つからないだろう。
案の定、車はバックで近づいてきて、車庫の手前のちょっとした庭みたいなスペースに止まった。ワンボックスのファミリー・カー。家のなかにもどろうとしていたミナミのお母さんがあわてて踵をかえす。
ドアの開く音がして、助手席から、若い、髪の毛を頭のてっぺんでお団子にした女のひとが出てきた。運転席から出てきたのはいやにガタイのいい男のひと。後ろにまわって荷物を取り出している。女のひとは後部座席のドアを開けようとしている。
「あれ、知ってるひと?」
ミナミは何も言わない。
ミナミのお母さんが女のひとのそばに駆け寄って、なにか大きな白いものを受け取った。
「オギャアアアア」
とたんに、弾かれたようにそれは泣き声をあげた。赤ん坊だ。赤ん坊だったんだ、ミナミのお母さんが抱いているもの。
ミナミは放心したように、まばたきすら忘れてじっとその光景を見つめている。
そして、
「あれ、お姉ちゃんだ。お姉ちゃんに、赤ちゃんが生まれたんだ……」
かすれた声で、そうつぶやいた。
おお、よしよし。赤ん坊をあやすミナミのお母さんの声。なみちゃん、どうしたの、めがさめてびっくりしたの。ミナミのお姉さんの声。家の中からミナミのお父さんらしきおじさんが出てきて、お姉さんの旦那さんと話している。――よくきたなあ、あがってあがって。――おひさしぶりですおとうさん。
「泣いてるの……?」
ぼくはもう一度、隣にいるミナミに聞いた。ミナミは何も言わない。何も言わずに、ただ、涙を流している。自分の死を知ったときにも泣かなかったミナミが、泣いている。それはとても澄んだ、いつか海で拾ったガラスのように美しい、そんな涙だった。
帰ろう、と言ったのはミナミだった。
ミナミのお姉さん一家がやって来てから、家の雰囲気は一変した。それまで、しんと冷たく静まりかえっていたのが、一気にぱあっと明るくなったのだ。まるで、氷が溶けて花が咲いたみたいに。
あたたかな明かりのもれる家からは、なごやかな笑い声や赤ん坊の泣き声、食器どうしのぶつかるかちゃかちゃいう音、水道から勢いよく水の流れる音なんかがひっきりなしにしていた。
生活してるんだ。生きて、暮らしているんだ。
ミナミの家族に流れた時間を思う。それはミナミが死んでしまってから、止まって、でも地下を流れる水脈みたいにどこかでひっそりと流れ続けていたもの。娘を失った傷が癒えるには十四年なんてきっと短すぎる時間だけど、でも、生きてるひとは、たとえばごはんを食べて、寝て、はみがきして、仕事に行って……そんな、たくさんの日々の積み重ねを怠るわけにはいかない。そしてそのことは、たしかにあたらしい希望を運んでくる。
「なみちゃん、って、言うんだね。お姉ちゃんの赤ちゃん」
ミナミがぽつりとつぶやいた。ぼくたちは来た道を、無言のままひたすら引き返していた。ミナミのほおには涙のかわいたあとがすじになって残っていて、たまにすれ違う車のライトや外灯に照らされてうっすらと光った。
「あたしの姪っ子だね」
なみという名前。ミナミの名前からとったんだな。ふたりともそのことに気づいていたけど何も言わなかった。あいかわらずぼくらは蒼くて澄んだ、つめたい哀しみに包まれていた。だけど、なみちゃんのことを思うと、じんわりとあたたかい、ぶあつい雲の切れ目から差し込む陽のひかりにも似たなにかが胸のあたりで燃えはじめるんだ。たしかにぼくはそう感じた。
耳のうしろでかすかに波の音がして、それはどんどん近づいていく。
気づいたら国道沿いのバス停に着いていた。
暗闇のなか、時刻表を照らそうとして携帯を立ち上げようとした。だけど画面は暗いまま。
「あれ。しまった。充電が切れてる」
「じゃ、いま何時か、わかんないの?」
「わかんない」
ぼくは腕時計というものを持っていない。近くの酒屋はもう閉まっていたし、深夜までやっているようなコンビニもあたりにはなくて、時間をたしかめることはできなさそうだ。
「最終は何時何分?」
「えっと」目をこらす。「七時五十分」
「完全にアウトじゃん」
闇は密度が濃かったし、いくら田舎とは言っても、酒屋が閉まるくらいだから今がもうけっこう遅い時間だろうということは見当がつく。だけど、バスを降りてからいったいどれくらいの時間が経ったのか、ぼくにはまるでわからなかった。永遠のような長い時間だった気もするし、ほんの一瞬のことだった気もする。
「しょうがないな」
そう言ってミナミをちらりと見た。
「歩いて、帰るか。もうひと晩、がんばれば一週間くらいはぼくの家でなんとかごまかせるかもしれない。それから先のことは、また考えよう」
ミナミは何も言わなかった。